聞書第一 〇〇〇一〜武士道の大意を言下に答へ得る人は少ない、油断千萬の事

原文

一、武士たる者は、武道を心掛くべきこと珍しからずといへども、皆人油断と見えたり。その仔細は、「武道の大意は何と御心得候や。」と問掛けたる時、言下に答ふる人稀也。かねがね胸に落着きなきゆえゑ也。さては、武道不心掛の事知られたり。油断千萬の事也。

現代語訳

一、武士たる者は、武道を心掛けるべき事は当然であると言えども、皆油断している様に見える。その仔細は、「武道の大意と何と心得なさるか。」と問いかけた時、すぐさま答える人は稀だ。かねてから胸に落ち着きがないからである。さては、武道の心掛けが足りないと知れる。決して油断しないことだ。

聞書第一 〇〇〇二〜道は死ぬ事、毎朝毎夕常住死身になれ、家職を仕果す

原文

一、武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかり也。別に仔細なし。胸据わって進む也。圖に當たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて圖に當たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生くる方が好き也。多分好きの方に理が附くべし。若し圖にはづれて生きたらば腰抜け也。この境危うき也。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違也。恥にあらず。これが武道に丈夫也。毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死身なりて居る時は、武道に自由を得、一生落度無く、家職を仕果すべき也。

現代語訳

一、武士道とは、死ぬ事であると見いだした。命を懸けた二者択一の場面において、早く死ぬ方を選択するだけだ。特に詳細など無い。胸を据えて進むのだ。目的を達成できなければ犬死であるなどと言うのは、上方風の思い上がった武士道である。命を懸けた二者択一の場面において、目的を達成できるかどうかなど及びもつかない。人は生きる方を好む。大方、好む方に頭が働く。もし目的を達成できず生き長らえたならば腰抜けである。この境は危うい。目的を達せずに死んだなら、それは犬死気違いだ。恥ではない。これが武道に立派な男である。毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に、常に死に身として居るときは、武道に自由を得て、一生落ち度なく、家職を全うするであろう。

聞書第一 〇〇〇三〜不調法でも、只管主人を歎く志さへあれば御賴み切りの被官

原文

一、奉公人は一向に主人を大切に歎くまで也。これ最上の被官也。御當家御代々、名誉の御家中に生まれ出で、先祖代々御厚恩の儀を浅からぬ事に存じ奉り、心身を擲ち、一向に歎き奉るばかり也。此の上に智慧 藝能もありて相應相應の御用に立つは猶幸也。何の御用にも立たず、不調法千萬の者もひたすらに歎き奉る志さへあれば、御賴み切りの御被官なり智慧藝能ばかりを以って御用に立つは下段也。

現代語訳

一、奉公人は偏に主人を大切に思い案じるだけである。これが最高の家来である。御当家は代々、名誉ある家中に生まれ、先祖代々の御厚恩があることを浅からぬ恩と存じ奉り、心身を投げ打ち、偏に案じ申し上げるだけだ。この上に、知恵も芸能もあって相応しいお役に立てば尚よい。何の役にも立たず、行き届かない未熟な者でも、ひたすらに主人を案じ奉る志さえあれば、頼りになる家臣である。知恵や芸能だけで役に立つのはその下である。

聞書第一 〇〇〇四〜胸に四誓願を押立て、私を除いて工夫すれば外れはない

原文

一、生附きによりて、即座に智慧の出づる人もあり、退ひて枕をわりて案じ出す人もあり。この本を極めて見るに、生附の高下はあれど、四誓願に押當て、私なく案ずる時、不思議の智慧も出づる也。皆人、物を深く案ずれば、遠き事も案じ出す様に思へども、私を根にして案じ廻らし、皆邪智の働きにて悪事となる事のみ也。愚人の習ひ、私なくなること成りがたし。さりながら、事に臨んで先づ其の事を差置き、胸に四誓願を押立て、私を除きて工夫をいたさば大はづれあるべからず。

現代語訳

一、生まれつきで、即座に知恵の出る人もおり、退いて考え込んで案を出す人もいる。この本質をきわめて見てみると、生まれつきの差はあっても、四請願に押し当てて、私なく案じる時は、人知を超えた知恵が出る。人は皆、物を深く考えれば、遠くにある考えも案じだせるように思えるが、私に根ざして案じ巡らせば、すべて邪な知恵が働き悪事となるだけである。愚かな人は常々、私をなくすことが難しい。それでも、事に臨んで先ずそのことを差し置いて、胸に四請願を押し立て、私を除いて工夫をすれば大きく外れることは無いであろう。

聞書第一 〇〇〇五〜我が智慧計りでは失敗する、叶わぬ時は智慧ある人に談合せよ

原文

一、我が智慧の一分の智慧計りにて萬事をなす故、私と成り天道に背き、悪事となる也。脇より見たる所、きたなく、手よわく、せまく、はたらかざる也。眞の智慧に叶ひ難き時は、智慧ある人に談合するがよし。その人は、我が上にてこれなき故、私なく有體の智慧にて了簡する時、道に叶ふもの也。脇より見る時、根づよく確かに見ゆる也。たとへば大木の根多きが如し。一人の智慧は突つ立ちたる木の如し。

現代語訳

一、自分の知恵の一分の知恵ばかりですべてを為す故に、私と成って天道に背き、悪事となる。はたから見たところ、汚く、弱く、狭く、役に立たない。真の知恵に出ない時は、知恵のある人に相談するのが良い。その人は、自分の事では無いから、私無くありのままの知恵で考えて、道に叶う者となる。はたから見るとき、根強く、確かに見える。例えば、根の多い大木の様に。一人の知恵は突っ立った木の様な物だ。

聞書第一 〇〇〇六〜古人の金言仕業を覺ゆるも我を立てぬ爲、よく人に談合せよ

原文

一、古人の金言、仕業などを聞き覺ゆるも、古人の智慧に任せ、私を立つまじき爲也。私の情職を捨て、古人の金言を頼み、人に談合する時は、迦れなく悪事あるべからず。勝茂公は直茂公の御智慧をお借りなされ候。この事御話聞書にあり。有難き御心入也。又何某は弟數人家来にして召置き、江戸上方罷越し候時も召連れ、常住日日の公私の事を弟共と談合ある故、外れなしと聞き傳へ候也。

現代語訳

一、古人の金言、実績などを聞き学ぶのも、古人の知恵に任せ、私を立てないようにする為である。私の強情な考えを捨てて、古人の金言を頼り、人に相談するときは、はずれが無く悪事でなくなるだろう。勝茂公は、直茂公の御知恵を借りなされた。この事は御話聞書に記載がある。ありがたい心入れである。また、何某は弟数人を家来にし、召し置いて、江戸上方へ行った時も、召し連れて行き、常に公私の事を弟たちと相談したので、外れがなかったと聞き伝えられている。

聞書第一 〇〇〇七〜相良求馬は御主人と一味同心に勤めたる者、一人當千の士

原文

一、相良求馬は、御主人と一味同心に、死身に成りて勤めたる者也。一人當千といふべし。一とせ、左京殿水ヶ江屋敷にて大詮議あり、求馬切腹との沙汰也。其の頃大崎に多久縫殿下屋敷三階の茶屋あり。是を借受けて佐賀中の徒者共を集め、あやつりを企て、求馬人形をつかひ、毎日毎夜酒宴遊興、左京殿屋敷を見おろし、大さわぎ仕り候。これ難に進み、御爲に望んで腹を切る覺悟、いさぎよき事ども也。

一、勝宮企み、内引入れられ、筆取り也。後押込の詮議に及んで、内一分を達し、座を立ち、直ちに山居也。

一、諸組に御家中より觸達有り、何れも存寄これなしと申出で候。勝宮両組より申出で候。組中列座詮議の時、大隈次兵衛一分申達し、「同意仕らず。」と申し候。其の時御臺所役也。正左衛門「同意ぞ。」と申し、寄親と争論に及びしを引分け候。正左衛門は伯父也。次兵衛は正左衛門聟也。次兵衛寄親不首尾也。正左衛門心遣にて、御部屋住勤め申し候。後に「忠節の者に候間、取立てられ候様に。」と仰せ遣はされ、百石下され候。

一、峯五郎左衛門噂に付て、御目付朝倉傳左衛門言上す。後に御父子様よりの御書、御部屋様御筆、傳左衛門忠心御感、三度の咎は御免なさるべき旨遊ばされ下され候。

一、大詮議打崩し、彼の両人引入り申され候。

現代語訳

一、相良求馬は、ご主人と一味同心に、死に身になって奉公した者である。一人当千と言うべきだろう。在る時、左京殿水ヶ江屋敷にて大詮議があり、求馬切腹との沙汰となった。その頃、大崎に多久縫殿下屋敷三階の茶屋があった。これを借り受けて佐賀中のならず者達を集め、人形浄瑠璃を開催し、求馬自らが人形を使って、毎日毎夜酒宴遊興を行い、左京殿屋敷を見おろして、大騒ぎをした。これはが咎められ、主君の為に自ら望んで腹を切る覚悟、潔いことである。

一、勝(大木勝左衛門知昌)と宮(岡部宮内重利)が企み、内(鍋島内記種世)が引き入れられ、筆を取って意見などを書いた。後に外出を禁止し取り調べて詮議に及んで、内が意見を言い、座を立ち、直ちに山に隠居した。

一、諸組に御家老中よりお達しがあり、いずれも思い当るところがないと申しでた。勝と宮の両組より申し出た。組中列座詮議の時、大隈次兵衛が「同意しない」と述べた。その時、御台所役であった。正左衛門「同意だ。」と述べて、寄親と良い争いになったのを引き離して止めた。正左衛門は伯父である。次兵衛は正左衛門の婿である。次兵衛と寄親の意見が食い違った。正左衛門は心遣いにて、御部屋住を勤めた。後に忠節の者であるから、取立てられるべきだ。」と仰せ遣はされ、百石下された。

一、峯五郎左衛門が評判について、御目付朝倉傳左衛門に言上した。後に御父子様よりの御書、御部屋様御筆、傳左衛門忠心御感、三度の咎は許されるべき旨下された。

一、大詮議が終了し、彼の両人引入れられた。

聞書第一 〇〇〇八〜石田一鼎の慧眼、相良求馬外何某の末路を言い當つ

原文

一、一鼎話に、「相良求馬は、泰盛院様御願に付て出現したる者なるべし。抜群の器量也。毎歳暮後願書御書かせなされ候。御死去前年の御願書、寶殿に残り居り申す事あるべし。求馬末期に不足の事有り、「我等に相似合はざる大祿を下され御恩報じ奉らざる事に候。伜助次郎幼少にて、器量相知れず候。されば、御知行返上仕り候。名跡緒立て下さるるに於いては助次郎器量次第相應に下さるべし。」と申す所也。求馬程の者がぬくる筈はなし、病苦にて忘却かと思はるゝ也。」笑止なる事は「三年の内に家潰れ申すべく候。荷ひきらぬ御恩也。又何某は發明也。のだらぬ風の奉公人也。四五年の内、是も身上崩すべし。」と申され候が、少しも違はず、不思議の眼と存じ居り候。それより氣を附けて見るに、のうぢもなき奉公人、今何年ばかりと云ふ事は、大かたみゆるもの也。

助次郎 相良求馬 浪人の事、御目付山本五郎左衛門、門の戸に張紙有り。求馬百姓あたり宜しからぬ由也。御改めの處、宜しからざぬ事のみこれある故、家来數人御咎め、知行主に候故、求馬浪人仰付けられ候。

現代語訳

一、石田一鼎の話によれば、「相良求馬は、泰盛院様の御願の結果、出現した者に違いない。泰盛院様は抜群の器量である。毎年暮れに願書を御書きなさっていたのだ。泰盛院様がお亡くなりになった前年の御願書は、宝殿に残っているだろう。求馬の末期は不足していたところがあり、『我等に不相応なほどの大禄を頂いていることに対してご恩を報じることができません。伜助次郎は幼少であり器量がどれほどがまだ判りません。そうでありますので、御知行(領地の支配権)をお返しいたします。名跡をお立て下される時には、助次郎の器量に見合うほど下さいませ。』と言べき所だ。求馬程の者がぬかる筈はない。病の苦しみで忘れていたのかと思われる。」との事。おかしなことに「三年の内に家が潰れると申した事だ。担いきれないご恩だ。また、何某は賢いが、出世はしそうにない奉公人だ。四、五年の内にこれも身を崩すだろう。」と申された事が、少しも違わず人知を超えた眼と存知ている。そこから気を付けてみると、見込みのない奉公人が、あと何年ばかりかと言うことが大方わかるものだ。

助次郎 後の相良求馬が浪人となったと、御目付山本五郎左衛門の門の戸に張紙が有った。求馬の百姓の扱いが良くないとの事だ。改めてみたところ、良くない事ばかりが見つかったので、家来数人にお咎めがあり、知行主であるので、求馬は浪人を仰せ付けられた。

聞書第一 〇〇〇九〜一人當千となるには善悪共に主人と一味同心する事

原文

一、主君の味方として、善悪共に打任せ、みを擲つて居る御家来は他事なきもの也。二三人あれば御所方黒むもの也。久しく世間を見るに、首尾よき時は、智慧分別藝能を以て御用に立ち、ほのめき廻る者多し。主人御隠居成され候か、御かくれ成され候時には、早後むき、出る日の方へ取入る者數多見及び、思ひ出しても、きたなき也。大身小身智慧深き人藝の有る人、我こそめきて御用に立たるれども、主人の御爲に命を捨つる段になりて、へろへろとなられ候。香しき事少しもなし。何の御益にも立たぬ者が、件の時は一人當千と成る事は、兼ねてより一命を捨て、主人と一味同心して居る故也。御逝去の時ためし有り。御供の所存の者我一人也。其の後見習ひてされたり。日頃口を利き、張肘をしたる歴々の衆が、御目ふさがると其の儘、後むき申され候。主従の契、義を重くするなどと云ふは、遠い事の様に候へども、目前に知れたり。唯今、一はまりはまれば、究竟の御家来出現也。

現代語訳

一、主君の味方として、善悪共に打ち任せて、身を投げ打っている御家来は他のことを顧みないものである。二、三人いればお家は上手くいくものだ。長く世間を見ると、首尾の良いときは、知恵や分別や芸能を以て役に立ち、自慢して回る者が多い。主人がご隠居なされるか、亡くなられた時には、そっぽを向いて、勢いのある方へ取り入るものが数多くおり、思い出しても、卑怯である。大身小身知恵の深い人芸のある人は、我こそはと御用に立つが、儒人の為に命を捨てる段になっては、へろへろとなってしまう。香しい所は少しもない。何の役にも立たぬ者が、主人の為に命を捨てる時に一人当千と成るのは、かねてより一命を捨て、主人と一味同心しているからだ。先代の御逝去の時に同じことがあったお供をする所存の者は私一人だった。そのあとに、私を見習ったのだ。日頃偉そうなことを言い、肘を張っている歴々の衆が、御目が塞がると、そのまま後ろを向いたのだ。主従の契り、義を重くするなどと言うのは、遠いことのように思えるが、目の前に知れた。只今、一押しすれば、究極の御家来が出現するのだ。

聞書第一 〇〇一〇〜道具仕舞物の取合ひは見苦し、鼻の先許りの奉公

原文

一、御道具を仕舞物にて取りがちに仕られ候。是にて了簡仕られ候へ、賴まれぬ心入也。御秘蔵御寵愛にて、七重八重の袋箱に入れたる御道具共を値段附けをして奪い取り、主君の御魂入れられたる物を我々の家内道具に使ふ事勿體至極もなき事ぞかし。御罰を蒙らずとも、心よく有る事は了簡に及ばざる事也。鼻先許りの奉公、君臣の義理はなき事也。

現代語訳

一、御道具が払い下げられたときは取り合いになりがちである。これはよく考えなされ、頼りにされない心入れである。御秘蔵や御寵愛を受けて、七重八重の袋や箱に入れられた御道具を値踏みして奪い取り、主君の魂が入った物を我々の家内道具に使うのは、至極もったいない事ではないか。罰が当たらなくても、気持ちの良いものではないことは、良く考えなくても分かる事だ。鼻先ばかりの方向では、君臣の義理は無い。

聞書第一 〇〇一一〜山崎蔵人は一生仕舞物を取らず、これが奉公人の嗜

原文

一、山崎蔵人は一生仕舞物と名の附きたる物は取られず候。さて又町人の宅へ一生参り申されず候。誠に奉公人の嗜、斯様にこそありたく候。石井九郎左衛門も仕舞物仕られず候。近代の衆は仕舞物とさへいえへば我先にと望を掛け、町人などの所へは無理に押掛け振舞致させ、店棚に調物に参り候事を慰みなどと取りなし候事、風儀悪しく、侍の本意にあらずと存じ候。

現代語訳

一、山崎蔵人は一生、払い下げられた物はとらなかった。また町人の宅へ一生足を踏み入れたことがない。誠に奉公人の嗜みであり、このようにありたいものだ。石井九郎左衛門も払い下げられた物はとらなかった。近頃の衆は払い下げと言えば我先にと望みを掛け町人などの所へは無理に押しかけて振る舞いをさせ、店の棚に調べ物に行くことを楽しみにしているなどと言うことは、行儀が悪く、侍の本意ではない。

聞書第一 〇〇一二〜我が身を擲ちさへすればすむ、今はすくたれ腰抜慾深ばかり

原文

一、御逝去前、上方に罷有り候處に、何としいる事に候や、罷下り度き心出来候に付て、河村賴み、御使申し乞ひ、夜を日に継いで下り候が、漸く参り合ひ候。不思議と存じ候。御氣色差詰められ候と有る事は、嘗て上方へ相知れざる時分にて候。若年の時分より、一人被官は我等也と思ひ込み候一念にて、佛神の御知らせかと存じ候。差出でたる奉公仕りたる事もなく、何の徳もなく候へども、其の時は兼て見はめの通り、我等一人にて御外聞は取り候と存じ候。大名の御死去に御供仕り候者は、一人もこれなく候ては淋しきものにて候。これにて能く知れたり。擲ちたる者はなき者にて候。唯、擲ちさへすれば済む也。すくたれ腰抜け慾深の、我が爲ばかり思ふきたなき人が多く候。數年胸わろくして暮し候由。

現代語訳

一、先代の御逝去の時、上方に居が、何故か帰国したい気持ちになり、河村に頼んで、用事を作ってもらい、急いで帰国して、ようやく間に合った。不思議なことだ。お具合が悪くなっていると言う事は、まだ上方には知らされていなかった。若年の頃より、家来は自分ひとりだと思い込み念じていたので、神仏のお知らせがあったのだと思っている。突出した奉公をした事もなく、何の徳もなかったが、その時はかねてからの見当のとおり、自分ひとりにて体面を守ったと思っている。大名の御死去にお供が一人もいないのでは淋しい。これで良く分かった。命を投げ打って仕えているものは居ない。ただ、命を投げ打って使えればいいのだ。間抜け、腰抜け、欲深の自分の事ばかり考えている汚い人が多い。それから数年気分が悪いまま過ごした。

聞書第一 〇〇一三〜御返進物火中物等の整理、並びに指南一通口達の條々

原文

一、御返進物火中物の事、仰出だされ候に付、選り出し置き申し候に付、指南一通の事、口達。

世界替り役人仕事にてこれなき事。両様苦しからざる物にて候事。鑰封、年寄衆合判伺ひ引渡し候事。御不審相かかり申すべき事。両様留めなされ候事。目録引合せ選分け候事。一人に段々御尋ね御請けの事。

現代語訳

一、お返しするもの、処分する物を整理するように仰せ付けられたので、選び出し置いた事について、指南一通を口達する。

仕組みが変わり、役人仕事で使わない事。処理をお任せする物である事。 鍵で封じられている物は、年寄衆に伺い合判を受けて引き渡す事。不審であると思われる事。処理を止められている物である事。目録と照らし合わ選び分ける事。一人何度も尋ね合い確認する事。

聞書第一 〇〇一四〜人に意見をし、諸人一味同心に主君の御用に立つが大慈悲

原文

一、人に意見をして疵を直すと云ふは大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候。意見の仕様、大いに骨を折ること也。人の上の善悪を見出すは安き事也。それを意見するも安き事也。大かたは、人の好かぬ云ひ憎き事を云ふが親切の様に思ひ、それを請けねば力に及ばざる事と云ふ也。何の益にも立たず。人に恥をかゝせ、悪口すると同じ事也。我が胸はらしに云ふまで也。意見と云ふは、先づその人の請くるか請けぬかの氣をよく見分け、入魂になり、此方の言葉を兼々信仰ある様に仕なしてより、好きの道などより引入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は暇乞などの折か、我が身の上の悪事を申し出し、云はずしても思ひ當たる様にか、先づよき處を褒め立て、氣を引立て工夫を碎き、渇く時水飲む様に請合はせ、疵直るが意見也。殊の外仕にくきもの也。年来の僻なれば、大體にて直らず、我が身にも覺えあり。諸朋輩兼々入魂をし僻を直し、一味同心に御用に立つ所なれば御奉公大慈悲也。然るに恥を與へては何しに直り申すべきや。

現代語訳

一、人に意見をして良くない点を直すと言う事は大事であり、大慈悲、ご奉公の第一である。意見の仕方は、大変苦労する。人のやる事の善悪を見い出すのは簡単だ。それに意見を言うのも簡単な事だ。大方は、人が好まない言いにくい事を言うのが親切の様に思い、相手がそれを受け入れなければ力が及ばなかったと言う。それでは何の役にも立たない。人に恥をかかせて悪口を言うのと同じだ。自分の憂さ晴らしに言っているだけである。意見と言うものは、まずその人が受け入れる気がある、受け入れる気がないかを良く見分け、親しくなり、こちらの言葉をかねがねから信頼するようにしてから、好む話から引き入れて、言い方を様々に工夫し、時節を考えて、あるいは手紙で、あるいは休みの時などに、わが身の悪い所を打ち明け、言わなくても思い当る様にか、先に良いところを褒めておき、気を引き立てて工夫を凝らし、渇いたのどで水を飲むように受け入れさせ、良くない点が直るのが意見だ。ことのほか難しいものである。長年の癖であれば、大概は直らず、我が身にも覚えがある。友や先輩、後輩とかねがねから親しくして癖を直し、一味同心で御用に立つなら御奉公、大慈悲である。しかるに、恥をかかせてはどうして直るものも直らない。

聞書第一 〇〇一五〜浪人しても上を怨むな、我が非を知らねば歸參出來ぬ

原文

一、何某に意見の事、口達。浪人の身にて、上を怨み候事。何某浪人内實に非を知り候が、五六年目に歸参のこと。前方仰付御断り、二度目に御請誓詞の事。最初御断りにて崩すか剃髪にて崩すかの時は見事に候事。同筋にて浪人の事。斯様の我が非を存ぜざる間は歸參有るまじき事。今にも御情無きの、誰がにくい者などと計り、胸をこがし候て楢天道の悪みを受くる也。何某の評判に、御罸よと申されたると也。人のがさぬ也。罪一人に有りと思ひ返され候へ。歸參程あるまじと申し候由。

現代語訳

一、何某に意見をした時の事、口達。浪人の身となって、上を恨んだ。その後、何某浪人は自分に非があることを知ったので、五、六年目に帰参したとの事。最初の仰せ付けを断り、二度目お請けし誓詞を行った。最初に断った折に帰参しないか、頭を丸め出家するかとなった時は見事であった。同様に浪人している人の事。この様に自分に非があることが判らない間は帰参することは有るまじき事だ。今だにお情けがないだの、誰が憎いなどと言って、胸を焦がしても天道の悪みを受ける。何某の噂で罰が当たったのだと言ったとの事。人は見逃さない。罪は自分一人にあると思って考え直しなさい。帰参は直ぐにはできない旨、申し述べた。

聞書第一 〇〇一六〜山本常朝若年の頃、澤邊平左衛門を介錯して褒めらる

原文

一、澤邊平左衛門を介錯いたし候時分、中野數馬江戸より褒美状遣はし、「一門の外聞を取り候。」と、事々しき書面にて候。介錯の分にて、斯様に申し越され、候事餘りなる事と、其の時分は存じ候へども、其の後よくよく案じ候へば、老功の仕事と存じ候。若きものには、少しの事にても武士の仕業を調へ候時は褒め候て氣を附け、勇み進み候様仕る爲にてあるべく候。中野将監よりも、早速褒美状参り候。両通ながら直し置き候由也。五郎左衛門よりは鞍鐙を送り申し候也。

現代語訳

一、澤邊平左衛門を介錯した時、中野數馬が江戸より、「一門の体面を保った。」と、仰々しい書面であ褒美状遣わした。介錯の事で、この様に言っていただき余りある事と、その時は思ったが、その後よくよく考えてみると、褒めるのも老功の仕事であると思う。若者には、少しの事でも武士の仕事をうまくととのえた時は褒めて気付けをし、勇み進む様にする為であった。中野将監からも、早速褒美状が来た。褒美状は両方とも直し置いている。五郎左衛門からは鞍鐙を送って戴いた。

聞書第一 〇〇一七〜人中で欠伸やくさめをするのは不嗜、出たら知れぬ様にせよ

原文

一、人中にて欠伸仕り候事、不嗜なる事にて候。不圖欠伸出で候時は、額撫で上げ候へば止み申し候。さなくば舌にて唇をねぶり口を開かず、又襟の内袖をかけ、手を當てなどして知れぬ様に仕るべき事に候。くさめも同然にて候。阿呆氣に見え候。此の外にも心を附け嗜むべき事也。

現代語訳

一、人中で欠伸をするのは、不作法である。ふと欠伸が出てきた時は、額を撫で上げれば止まる。そうでなければ、舌で唇をなめ口を開かない様にする、または襟の内に袖をかけ、手を当てるなどして分からぬ様にするべきである。くしゃみも同じである。あほに見える。その他にも気を付けて慎むべきである。

聞書第一 〇〇一八〜客に行かばよき客振り、飽かれもぜず早くも歸らぬように

原文

一、翌日の事は前晩よりそれぞれ案じ書附け置かれ候。これも、諸事人より先にはかるべき心得也。何方へ兼約にて御出での節は、前夜より、向様の事を萬事萬端、挨拶話、時宜等の事を案じ置かれ候。何方へ御同道申し候時分、御話に何方に参り候時は、先づ亭主の事をよく思入りて行くがよし。和の道也。禮儀也。又貴人などより呼ばれ候時、苦労に思うて行けば座附出来ぬもの也。偖々忝なき事かな、さこそ面白かるべきと思入りて行きたるがよし。總じて用事の外は、呼ばれぬ所に行かぬがよし。招請に逢はゞ、偖もよき客振りかなと思わるゝ様にせぬは客にてはなし。いずれその座のすべを前方より服して行くが大事也。酒などの事が第一也。立ちしほが入つたもの也。飽かれもせず、早くも歸らざる様にありたき也。又常々の事にも馳走など斟酌を仕過ごすも却つてわるき也。一度二度云うて、その上には、それを取持ちたるがよし。不圖行掛りて留めらるゝ時などの心得も、此くの如き也。

現代語訳

一、翌日の事は前の晩よりそれぞれに考えて書き付けておく。これも諸事において、人よりも先に図るべき心得である。いずこかへ呼ばれて出向く折には、前の夜から、向こう様の事を万事万端、挨拶話、その場にふさわしい礼儀等の事を良く考えて置く。いずこかへ、お供する時、御話に参る場合は、まず亭主の事を良く考えて行くと良い。和の道だ。礼儀である。また、貴人などから呼ばれたとき、苦労だと思って行けば座が持たない物だ。さてさて、かたじけない事だ、さぞ面白いだろうと思い込んで行くと良い。総じて用事がある時以外は、呼ばれていない所に行かない方が良い。招待されれば良い客だと思われる様にしない客は客ではない。いずれもその座の事を事前に理解して行くが事が大事だ。酒などの事が第一だ。帰り時が難しい。飽きられもせず、早く帰りすぎない様にしたいものだ。また常々の事だが御馳走を気を使い遠慮しすぎるのも、かえって悪い。一度二度断って、それ以上は受けるのが良い。ふと行きがかって引き留められた時などの心得も同様である。

聞書第一 〇〇一九〜四誓願の琢き上げ、武士道 忠 孝 人の爲の本義を會得せよ

原文

一、四誓願の琢き上げは、武士道に於いて後れを取るべからず、これも武勇を天下にあらはすべき事と覺悟すべし。此の事愚見集に委し。主君の御用に立つべし、これを家老の座に直りて諌言し、國を治むべき事と思ふべし。此の事愚見集に委し。孝は忠に附く也。同じ物也。人の爲になるべき事、これをあらゆる人を御用に立つ者に仕なすべしと心得べし。

現代語訳

一、四請願の磨き上げは、武士道において後れを取ってはならず、これも武勇を天下に示す事であると覚悟しなければならない。(この事は愚見集に委ねる)君主の御用に立つべきだと、これを家老の座に直って諫言して、国を治めねばならない。(この事は愚見集に委ねる)孝行することは、忠義に付く。人の為になると言う事は、あらゆる人を御用に立つ人にする事だと心得るべきである。

聞書第一 〇〇二〇〜その人の恥にならぬ様に、その場をよき様にするのが侍の仕事

原文

一、御祝言道具の時分、何某殿御申し候は、「琴三絃、其の書附けに相見えず候。これはなくては。」と也。何某申され候は、「琴三絃無用に候。」と。あらゝかに申して差留め候。これは、そと當り申されたる也。翌日申され候は。「御道具になくては事足らぬもの也。極上に二通宛と書附け候へ。」と申され候由話し申す人あり。「さても氣味のよき人かな。」と申し候へば「いやいや夫れがよからぬ所存也。皆我が威勢立ての申し分也。大かた他方者にある事也。上たる人に對して、先づ慮外也。御爲にもならぬ事也。道を知る者ならば、たとへ、いらぬに極まりたるものにても、御尤に存じ奉り候。さりながら、それは追つて吟味仕るべしなどと申して、その人の恥にならぬ様にして、よき様にするこそ侍の仕事にて候。しかも入るべきもの故、翌日は書き加へ申し候物を、當座に貴人に恥をかゝせ、何の詮もなく、きたなく麁相の心入にて候。」と也。

現代語訳

一、御祝言道具詮議の時、何某殿が、「琴と三味線がその書き付けに見当たらない。これは無くては。」と申された。また何某は、「琴、三味線は不要である。」と申した。声を荒げて差し止めたのだ。これは、他に聞こえるように言っていた。しかし、翌日、「御道具に無くてはならい物である。極上の二組づつと書き付けなさい。」と話す人がいた。「さても気持ちの良い人だ。」と言うと、「いやいや、それが良くないところだ。皆自分の威勢を立てて言っているだけだ。大方よそ者にありがちな事だ。目上の人に対して、まず配慮が無い。為にならない事である。道を知るものならば、例え不要なことが明白であっても、ごもっともです。しかしながら、それは追って吟味いたします、などと言ってその人の恥にならぬ様にして、良い方向にするのが侍の仕事である。しかも必要な物であるから、翌日に書き加えて、当座の貴人に恥をかかせ、何の効果もなく、きたなく、粗相の考えである。」をおっしゃった。

聞書第一 〇〇二一〜前方に極め置くが覺くの士、穿鑿せぬは不覺の士

原文

一、覺の士、不覺の士といふ事、軍學に沙汰あり。覺の士といふは、事に逢うて仕覺えたるばかりにてはなし。前方に。それぞれの仕様を吟味し置きて、その時に出合ひ、仕果するをいふ。されば、萬事前方に極め置くが覺の士也。不覺の士といふは、その時に至つては、たとへ間に合はせても、これは時の仕合はせ也。前方穿鑿せぬは、不覺の士と申し候也。

現代語訳

一、覚の士、不覚の士という事が、軍学にて論じ進められている。覚の士というのは、大事な場面で経験があると言うだけではない。事前に、それぞれの仕様を吟味しておいて、その時になって、やり遂げる者を言う。そうであれば、万事において事前に極めておくのが覚の士である。不覚の士というのは、その時に至って、たとえ間に合わせても、これはその場しのぎである。前もって詳しく調べておかないのは不覚の士と言う。

聞書第一 〇〇二二〜近年は浪人切腹の跡も行捨てたり、國學も忘れられ勝ち

原文

一、日峰様御百年忌の時分、諸浪人残らず召出され度き事也。是が御亡者様の第一に御悦びなさるべき御法事にて候。其の段は我等請けに立つ也。さりながら儉約儉約にて、行き兼ね申すべく候。近年は、浪人切腹の跡などは行捨りに成り、手明槍浪人など取立これなき格の様に相成り候。國學御存じなき故、手明槍などを物頭仰付けられ候と也。

現代語訳

一、日峰様御百年忌の時、諸浪人残らず召し出されて欲しいことだ。これがなくなられた方が第一に喜びなさる法事のはずだ。その時は我らが請け負う。しかしながら、倹約、倹約で叶いそうにない。近年は、浪人、切腹の跡などは見捨てられ、手明槍浪人などは取り立てのない身分の様になってしまった。国学をご存じないので手明槍などに物頭を申し付けてしまう。

聞書第一 〇〇二三〜酒は公界物、打上がり綺麗にしてこそ酒、酒に人の心も見える

原文

一、酒盛りの様子はいかうあるべき事也。心を附けて見るに、大方飲むばかり也。酒と云ふ物は、打上がり綺麗にしてこそ酒にてあれ。氣が附かねばいやしく見ゆる也。大方、ひとの心入、たけだけも見ゆるもの也。公界物也。

現代語訳

一、酒盛りの様子は威光あるようにすべきだ。気を付けて見ると、大方は飲むばかりだ。酒と言うものは、綺麗に終わってこその酒である。気を付けなければいやしく見える。大方は、その人の心入れが大体わかる。酒の席は公けの物である。

聞書第一 〇〇二四〜少々は見のがし聞きのがしある故に下々は安穩である

原文

一、何某、當時儉約を細かに仕る由申し候へども、宜しからざる事也。水至つて清ければ魚棲まずと云うことあり。藻がらなどのあるゆゑ、其の蔭に魚は隠れて、成長する也。少々は、見のがし聞きのがしある故に、下々は安穩なる也。人の身持ちなども、此の心得あるべき事也。

現代語訳

一、何某が当時、事細かに倹約すると言っていたが、良くないことだ。水が清すぎれば魚が棲めないと言う事がある。藻くず等があるからこそ、その陰に魚が隠れて成長する。少々は、見逃し聞き逃しがあるからこそ、下々の安寧があるのだ。人の身持ちなども、この様に心得るべきである。

聞書第一 〇〇二五〜心安い人も慇懃に取合ふが侍の作法、恥じしむるは作法でない

原文

一、請役所にて、何某へ町方何某訴状を渡すべしと申し候時、請取るまじきと申し候を、色々申合ひ候處、何某居合はせ、「まづ請取り置き候て、無用と候はゞ返し申され候へかし。」と申し候に付いて、「さらば請取り置くべし。」と申し候時、「請取らする物を請取らずに置く事がなるものか。」と、いやしめ申され候由、話す人あり。何某は最早直りたるかと思いたれば、いまだに角がをれず。總じて心安き人にても、役所役所にて慇懃に取合ふが士の作法也。左様に恥しめ候事、きたなき仕方、士の作法にあらずと也。

現代語訳

一、請役所にて、何某へ町方の何某から訴状を渡そうとしたところ、受け取らないと言うので、いろいろ言い合っていた所に、何某が居合わせて、「まず受け取っておいて、無用と判断すれば返せば良いでは無いか。」と申したところ、「ならば受け取って置こう。」と言ったので「受け取ったものを、受け取って置いただけで良いわけがない。」と文句を言ったと話す人があった。何某はもはや直ったと思っていたが、いまだに角が取れていない。総じて親しい人でも、役所役所で礼儀正しく取り合うのが侍の作法である。そのように辱めることは、汚く侍の作法ではない。

聞書第一 〇〇二六〜損さへすれば相手はない、堪忍してもひけにはならぬ

原文

一、何某屋敷を何某殿より所望に付いて、差出すべき由申し達し。行先をも相談申し候半ばに、用事これなき由に候。それに付、段々不届の趣言ひ募り候に付て、何某殿より断りにて得心、その上にて銀子など得申し候由、話す人あり。さてさて、笑止の仕方也。總じて人よりだまされて負けて居るは、機分なきことと思ふもの也。それは事が違ふ也。たとへ貴人たりとも、一言も云はせぬなどと云ふは別段の事也。これは損得の事也。大根きたなき事也。これを歴々に向かひ、過言など申し候事、無禮慮外と云ふもの也。しまり、銀など取り候へば却つて負け也。以来の支へになるべき也。總じて公事沙汰、言分などと云ふ事は、皆損得の事也。損さへすれば、相手はなきもの也。こればかりは、堪忍してひけにならぬ事也。智がほそきゆゑ見えず。

現代語訳

一、何某の屋敷が何某殿からねだられて、差し出す事になった。引っ越し先を相談ししていた半ばで、白紙に戻ってしまった。これについて、様々に不満を言い募ったので、何某殿からのわびで納得し、その上に銀子を受けとったと、話す人がいた。さてさて、おかしなやり方だ。総じて人からだまされて負けているのは、持ち前の気質に違える事だろうとは思う。しかし、それはは別の話だ。例え貴人であっても、一言言わねば、などと言う事とは別の事だ。これは損得の話である。大本は汚い話だ。これを歴々の方々に向かって、過ちを訴えるなど、無礼で配慮がない。銀などを受け取ってしまえば、かえって負けである。以後の遺恨となるだろう。総じて公けの事として話を大きくしたり、言い分を言ったりするのは、みな損得の話である。損さえすれば、争う相手などいない。こればかりは、堪忍しても、負けにはならない。智が細いのでその事が見えていない。

聞書第一 〇〇二七〜石井又右衛門の器量、馬鹿になつても本心を違へず

原文

一、石井又右衛門は大器量の者にて候。病氣出で馬鹿に成り申し候へども、一とせ御側仕組詮議の時、何某殿より又右衛門へ、御歌書方の事相尋ねられ候。又右衛門申し候は、「病氣以来いまの事さへ覺え申さず候。たとへ覺え居り候とも、殿様の人に言うなと仰せ付けられ候事を各々に申すべきや。まして覺え申さず候。」と申し候由。

現代語訳

一、石井又右衛門は大器の者である。病気を患いボケてしまったが、ある年の御側仕組の詮議の時、何某殿より又右衛門へ、歌の書き方について尋ねられた。又右衛門は、「病気にかかって以来今の事さえ覚えられない。例え覚えていても、殿様から人に言うなと仰せ付けられていることを、各々に話すだろうか。ましてや覚えていない。」と言った。

聞書第一 〇〇二八〜當番御目付山本五郎左衛門抜刀して火事場の門を開けさす

原文

一、何某殿屋敷出火の時、山本五郎左衛門當番御目付にて罷り在り候處、門を固めいれ申さず、「火事は此方にてこれなし。」と申し候。五郎左衛門せき上がり、「御意を承り罷越し候者を入れずば、薙切り仕るべし。」と刀を抜き申し候に付て門を開き申し候由。内には何某一手ばかりまゐり、。取消し申され候由。

現代語訳

一、何某殿屋敷が火事の時、山本五郎左衛門が当番お目付けであったので駆けつけると、門を固めて中に入れず、「火事はここではない。」と言われた。五郎左衛門が激高し、「お役目にて駆けつけた者を入れないのであれば、なで斬りにする。」と刀を抜いて言うので、門を開いた。中では何某の一隊がおり、火は消されていた。

聞書第一 〇〇二九〜事にあぐまぬが武士、字は紙一ぱいに一字、書き破ると思うて書け

原文

一、彌三郎へ色紙を書かせ、「紙一ぱいに一字書くと思ひ、紙を書き破り候と思うて書くべし。よしあしはそれしやの仕事也。武士はあぐまぬ一種にて濟む也。」とて染筆也。

現代語訳

一、彌三郎へ色紙を書かせ、「紙いっぱいに一字書くと思って、紙を書き破つもりで書くべし。良し悪しは専門家の仕事である。武士は力強さだけでいいのだ。」と言って染筆した。

聞書第一 〇〇三〇〜若殿様の草紙讀み、「聞き手がすくなくなれば讀みにくい」

原文

一、海音和尚の前にて草紙御讀み候が、「小物共小僧達皆參り聞かれ候へ、聞き手が少なくなれば讀みにくし。」と御申し候。和尚感心、小僧共に「何事もあの氣ぞ」と申し候也。

現代語訳

一、海音和尚の前で草紙を読んだ者が、「小共も小僧達も皆こっちへ来て聞いておくれ、聞き手が少なければ読みにくい。」と言った。和尚は感心して、小僧共に「何事もあの意気だぞ。」と言った。

聞書第一 〇〇三一〜毎朝拜の仕様は先づ主君 親、それより氏神守佛とせよ

原文

一、毎朝、拜の仕様、先づ主君 親、それより氏神 守沸と仕り候也。主をさへ大切に仕り候はゞ、親も悅び、沸神も納受あるべしと存じ候。此方は主を思ふより外のこと知らず、志つのり候へば、不斷御身邊に氣を附け、片時も離れ申さず候。又女は第一に夫を主君の如く存ずべき事也。

現代語訳

一、毎朝、拝の仕方は、まず主君、親、それから氏神、守り仏と行う。主さえ大切にすれば、親も喜び、神仏の納受もあるだろう。我々は主を思う事以外の事を知らず、志が募れば、普段からご身辺に気を付け、片時も離れない。また、女は第一に夫を主君の様に思うべきである。

聞書第一 〇〇三二〜氣前を見せ伊達する心でないと、時宜に叶はぬ事がある

原文

一、仕附方の口傳に、時宜の二字をダテとよませ候。伊達する心にてなれば、時宜はならずと也。

現代語訳

一、仕付け方の口伝に、時宜の二字をダテと読ませるというのがある。伊達なふるまいをする心が無ければ、時宜(良い頃あい)にはならないと言う事だ。

聞書第一 〇〇三三〜金立山の雨乞神事浮立に不吉の喧嘩で權現の御祟り

原文

一、正徳三の春、雨乞詮議の時、會所にて金立山へ雨乞とて毎年度々の浮立上下の雜作也。此の度隋分浮立を念入れ、若し驗なくば重ねて無用と候て、成程結構の三十三囃子、踊狂言など仕入れ申し候。金立の雨乞は前々より不思議の靈驗にて候。此の度は嘗て驗これなく候。其の日大太鼓打ち候者、無相傳に打ち候とて、傳授の者撥をもぎ取り申し候末にて喧嘩に及び、下宮にて切合ひ打合ひ、死人も出來、又見物人にも喧嘩出來、手負ひこれあり候。其の頃下々の説に今度の浮立、會所方の御詮議實なき事故、權現御祟りにて悪事其の場に出來候と申扱ひ候。「神事の場の不吉は前表に成る事あり。」と、實敎卿話にて候。考へ候へば、此の年の内に會所役者奸謀にて數人斬罪、寺井邊津波にて死亡多し。海邊に金立の下宮これある由。又殿中にて原郎左衛門討果しあり。斯様の事共いかゞと存ぜられ候也。

現代語訳

一、正徳三年の春、雨乞い詮議の時、会所では金立山へ雨乞いで毎年度々、浮立(太鼓を打ち鳴らして集団で踊る伝統芸能)を行うので上の者にも下の者にも手間がかかる。この度は特に浮立に念を入れ、もし効果がなければ繰り返し行う必要はないものとするとして、なるほど大勢の三十三の囃子、踊り狂言などを仕入れた。金立の雨乞いは前々から人知を超えた霊験がある。この度は効果がなかった。その日の太鼓を打っていた者が、伝承にない打ち方をしたとして、伝授した者がバチをもぎ取って喧嘩になり、下宮で切り合い、打ち合い、死人も出て、また見物人にも喧嘩が起きて、怪我人が出た。その頃、下々の噂では今回の浮立は、会所方の詮議に実がなかったので、権現様の祟りがあって悪事がこの場に起こったのだと言う。「神事の場で不吉なことが起こると、それが前触れであることがある。」とは實敎卿の御話である。考えてみれば、この年の内に会所役が奸謀で数人が断罪され、寺井邊津波にて多くの人が死亡した。海辺に金立の下宮がある。また、殿中で原郎左衛門が討ち果たされた。この様な事はどのように考えられるだろうか。

聞書第一 〇〇三四〜微細に事々を知つた上で打任せると萬事能く治る

原文

一、何和尚は近代の出來物也。寛大なる事量りなし。それゆゑ大寺よく治りたり。頃日も「話にかゝらぬ病身にて、大寺を預かり能く勉むべしと思ひたらば、仕損じこれあるべく候。成る分と存じそうろうゆゑ、氣色勝れざる時は、名代にて諸事濟し、何卒大迦れの無き様にと心掛くるばかり也。」と申され候。先々住はきびし過ぎて大衆あき申し候。先住は任せ過ぎて不締りなる所あり、今の和尚に成りて是非の沙汰なく、大衆能く治り申し候。此の境を思ふに、麁に入り細に入り、よく事々を知りて、偖打任せて、構はずに役役にさばかせて、若し尋ねらるゝ時は、闇き事なく差圖致さるゝ故能く治り申し候と思はるゝ也。去頃、何長老小見解などにて口を利き申し候を呼び寄せ、「法の邪魔に成る。打殺すべし。」とて擲き申され候が、片輪に成り候由。彼是より所多き也。又病氣に隠れ申され候也。

現代語訳

一、何和尚は近代における出来た人物だ。寛大であること限りがない。それゆえ大寺はよく治められている。日頃も「話にならないほど病弱なので、大寺を預かった以上よく勤めようと思っているが、仕損じがあるだろう。そのことを自覚しているので、気色が勝れないときは、名代を立てて諸事を済まし、なにとぞ大外れが無い様にと心掛けるばかりだ。」と仰っている。先々代は厳しすぎたので大衆が飽きてしまった。先代は人に任せ過ぎて締りが無い所があった。今の和尚になって問題も起こらず、大衆が良く治まった。この境を考えると、租に入り細に入り、よく事々を知った上で、任せて構わずに役役にさばかせて、もし尋ねられれば分からぬ事無く指図なさるので、良く治まるのだと思われる。先頃、何長老が些細な見解などに口を挟んで呼び寄せ、「法の邪魔になる。打ち殺すべし。」といって叩かれ、片輪になったとの事。かれこれと良いところが多い人だった。病気で亡くなられた。

聞書第一 〇〇三五〜生きながら幽靈となつて二六時中主君を守り國家を固めよ

原文

一、今時の奉公人を見るに、いかう低い眼の着け所也。スリの目遣ひの様也。大方、身のための欲得か、利發だてか、又は少し魂の落着きたる様なれば、身構へをするばかり也。わが身を主君に奉り、速やかに死に切って幽靈となりて、二六時中主君の御事を歎き、事を整へて進上申し、御國家を固むると云ふ所に眼を着けねば、奉公人とは言はれぬ也。上下の差別あるべき様なし。此のあたりに、ぎしと居座りて、神佛の勧めにても、少しも迷はぬ様覺悟せねばならず。

現代語訳

一、今時の奉公人を見ると、目の付け所が低い。スリの目使いのようだ。大方、自分の為の欲得か、利口に見せるか、または少し魂が落ち着いている様でも、身構えてばかりだ。わが身を主君に捧げて、速やかに死にきって幽霊となって、二六時中主君の事を案じて、事を整えて上進し、国家を固めると言う所に目を付けなければ、奉公人とは言えない。上下の違いはない。このあたりに、ぎしっと居座って、神仏の薦めにても、少しも迷わない様に覚悟しなければならない。

聞書第一 〇〇三六〜名醫松隈享庵の眼療治、男の脈と女の脈との取替へ

原文

一、或人の話に、松隈前の享庵先年申し候由。「醫道に男女を陰陽に當て、療治の差別あ有る事に候。脈も替り申し候。然るに五十年以來男の脈が女の脈と同じ物に成り申し候。爰に氣が附き候てより、眼病の療治、男の脈も女の療治にして相應と覺え申し候。男に男の療治をして見申し候に、其の驗これなく、さては世が末に成り、男の氣おとろへ、女同然に成り候事と存じ候。これは慥に仕覺え申し候事ゆゑ、秘事に仕置き候。」と申し候由。是に付て今時の男を見るに、いかにも女脈にて是有るべしと思はるゝが多く、あれは男なりと見ゆるはまれ也。それに付、今時少し力み申し候はゞ、安く上手とる筈也。偖又男の勇氣ぬけ申し候證據には、縛り首にても切りたる者すくなく、まして介錯などといへば、斷りの云い勝ちを利口者、魂の入りたる者などと云ふ時代になりたり。股ぬきなどと云ふ事、四五十年以前は男役と覺へて、疵なき股は人中に出されぬ様に候故、獨りしてもぬきたり。皆男仕事、血ぐさき事也。それを今時はたはけの様に言ひなし、口先の上手にて物を濟まし、少しも骨々とある事は、よけて通り候。若き衆心得有り度き事也。

現代語訳

一、ある人の話で、松隈前の享庵が昨年以下の様に述べたそうだ。「医道に男女を陰陽に当てはめて、治療にも違いがある。脈も替わるのだ。ここ五十年以来男の脈が、女の脈と同じものになった。ここに気が付いてから、眼病の治療で、男の脈も女の治療で相応であると分かった。男に男の治療をしてみたところ、その効果がなく、さては世も末になり、男の気がおとろえ、女同然になったと思っている。これは確かにやってみて分かった事なので、秘事として置いた。」と言ったそうだ。これに付けて今時の男を見ると、いかにも女の脈だろうと思われる事が多く、あれは男だと見えるのは稀だ。それに付け、今時少し力んだら、簡単に上を取ることができる筈だ。さてまた、男の勇気が抜けている事の証拠には、縛り首はしても切るものは少なく、まして介錯などと言えば断るのが利口者で、魂の入った者などと言う時代になった。股抜きなどと言うの、四、五十年以前は男の仕事と思って、傷のない股は人前に出せないので、自分で抜いたものだ。男の仕事は皆、血なまぐさいものだ。それを今時はたわけ者の様に言い、口先の上手さでものを済ませて、少しでも骨のある事は、避けて通る。若き者は心得てほしい事である。

聞書第一 〇〇三七〜山本常朝出家後の述懐「よくもばけ濟ましたもの」

原文

一、六十、七十まで奉公する人のあるに、四十二にして出家致し、思へば短き在世にて候。それに付有難き事かなと思はるゝ也。その時は、死身に決定して出家になりたり。今思へば、今時まで勤めたらば、さてさていかい苦勞仕るべく候。十四年安樂に暮らし候事、不思議の仕合せ也。それに又、我等を人と思ひて諸人の取持に合ひ候。我が心をよくよく顧み候へば、よくもばけ濟ましたる事に候。諸人の取持勿體なく、罪も有るべきとのみ存じ候事に候。

現代語訳

一、六十、七十まで奉公する人がいるのに、四十二にして出家し、思えば短い在世であった。それに付け、有り難いことだと思っている。その時は、死ぬつもりで決意して出家した。今思えば、今時まで勤めていたら、さてさて苦労したことだろう。十四年安楽に暮らしてきたこと、人知を超えた幸せである。それにまた、我等を人と思って皆取り合ってくれている。わが心をよくよく顧みれば、よく化け済ましたことだ。皆の取り持ちもったいなく、罪なことだと感じている。

聞書第一 〇〇三八〜禁酒は酒癖が悪いかと思はれる、二三度すてゝ見せるが良い

原文

一、何某の主人、初知入りの供に參り候由。それに付き、「今度の覺悟にて、所在にて酒だらけたるべく候間、酒を仕切り申すべしと存じ候。それも、禁酒と申し候ては、酒癖にても有る様に候間、『あたり申す』と申して二三度捨てゝ見せ申すべく候。其の上にては、人も強ひ申すまじく候。又隋分禮を腰の痛む程仕り、人の云ひ掛けざる時に、一言も物を申すまじくと存じ候。」と語り申され候。魂の入りたる者に候。先の事を前方に分別する所が人の上をする基也。それ故、「尤もの覺悟にて候。其方は虚勞下地が前方に見替へておとなしくなりたりと、云わるゝ程にいたされよ。初口が大事にて候。」と申し候由也。

現代語訳

一、何某の主人の、年賀の共に行ったとの事。それについて、「こた度は覚悟して、所々で酒を出されるk事になるだろうから、酒を頂かない様にするつもりである。禁酒していると言っては、悪い酒癖でもある様なので、『体に障るので』といって二、三度捨ててみせる。それ以上は、人も強いてくることは無いだろう。また随分、礼を腰の痛むほど行い、人に話しかけられない限りは、一言も物を言わないつもりである。」と語った。魂の入った者である。先の事を事前に分別しておくことが人の上を行く基である。それゆえ、「もっともの覚悟である。あなたは苦労して病を得て、以前に比べておとなしくなった、と言われるほどに致しなさい。初口が大事だ。」と言ったとの事である。

聞書第一 〇〇三九〜無念即正念、道は一つ、純一になる事は功を積まねば出來ぬ

原文

一、湛然和尚の物語に、「無念無心ばかり敎える故に、落着せぬ也。無念と云ふは正念の事也。」と仰せられ候。面白き事にて候。實敎卿も、「一呼吸の中に邪を含まぬ所が、即ち道也。」と仰せられ候。然れば道は一つ也。此の光を先づ見附くる者もなきもの也。純一になる事は功を積までは成るまじき事也。

現代語訳

一、湛然和尚の物語に、「無念無心ばかり教えるので、落ち着かぬ。無念と言う正念の事である。」と仰せられた。面白いことだ。實敎卿も、「一呼吸の中に邪を含まないところが、すなわち道である。」と仰せられた。しからば、道は一つだ。この光をまず見つける者がいない。純一には経験を積むまで成る事はないだろう。

聞書第一 〇〇四〇〜今時の利口者は智慧で紛らかす、純なる者は素直である

原文

一、「心の問はゞいかゞ答へん」と云ふ下の句程有難きはなし。大かた念佛に押し並ぶべしと思はるゝ。先は人の口に多くとゞまりてある也。今時の利口者と云ふは、智慧にて外をかざり紛らかす事ばかりをする也。それ故鈍なる者には劣る也。鈍なる者は直也。右の下の句にて、心を究めて見れば隠所はなき也。よき究役也。此の究役に逢うて恥ずかしからぬ様に、心を持ち度き也。

現代語訳

一、「心の問わば いかが答えん」と言う下の句ほど有り難いものはない。大方、念仏に肩を並べるだろうと思われる。この先も人に語られ続けるだろう。今時の利口者と言うのは、知恵で外を飾って紛らわす事ばかりをする。それゆえ、鈍なるものには劣る。鈍なるものは正直だ。右の下の句にて、心を見究めれば、隠しどころは無い。良い見究め役である。この見究めに逢っても恥ずかしく無い様に、心を保ちたい物だ。

聞書第一 〇〇四一〜人は得意な方に老耄するもの、老人は他出せぬがよい

原文

一、何某事老耄かと思はるゝ也。方々招請に參られ心入に成り、話など致され候由。此の前數年の内も、人の爲になる事ばかりを案じ、極々の奉公好きに也。それ故一かど御用に立たれ候。人は得方に老耄する者なれば、奉公老耄、人の爲になりても老耄はあぶなき也。老人は他出せぬが重くして、しまりよき也。

現代語訳

一、何某の事を耄碌したのではないかと思う。方々の招待に応じて親しくなり、話をなさったそうだ。この数年の内にも、人の為になる事ばかりを深く考え、この上ない奉公好きだった。そのため、目立って御用に立たれていた。人は得意な方に耄碌する物なので、奉公耄碌、人の為になっても耄碌は危ない。老人は他に出さないのが威厳が出て、収まりが良い。

聞書第一 〇〇四二〜まぼろしの世の中、世界は皆からくり人形である

原文

一、幻はマボロシと訓む也。天竺にては、術師の事を幻術師と云ふ。世界は皆からくり人形也。幻の字を用ふる也。

現代語訳

一、幻はマボロシとよむ。天竺では、術師の事を幻術師と言う。世界は皆からくり人形である。幻の字はそのように用いるのだ。

聞書第一 〇〇四三〜不分際の諫言は却つて不忠、其の人の思附にして言はせよ

原文

一、御縁組のとき、何某一分を申し達し候。此の事、若き衆よく心得置くべき事也。申分は成程聞えたり。さすが也と云ふ者もあるべし。其の身氣味よく思うて、云ふべき事を云うて腹切りても本望と思はるべし。よくよく了簡候へ、何の益にも立たぬ事也。斯様の事を曲者などと思ふは以っての外なる取違也。先づ申出でたる事其の詮なく、我が身は引き取り、御養育も仕らず追附御死去なざれ候に、御看病も仕らず、残念千萬也。氣過ぎなる人は多分誤る所也。總じて其の位に至らずして諫言するは却つて不忠也。誠の者ならば、我が存寄りたる事を似合ひたる人に潜かに内談して、其の人の思寄にさせて云へば、其の事調はる也。これ忠節也。若し、内談に其の人請合はずば、又外の人にも内談し、兎角色々心遣をして、其の事さへ調はる様にすれば、我が身は大忠節も知れぬ様にして居るもの也。幾人に内談しても、埒明かざる時は力及ばず、其の分にて打過ぎ、又は起こし立て起こし立てすれば、多分叶ふもの也。我こそ曲者と云はるゝ名聞計りにて、我が手柄にする故調はらざる也。申出でたる事益には立たず、人に難ぜられ、我が身を崩したる人數多これある也。畢竟眞の志なき故也。我が身を一向に捨て、主君の上どうなりとも好き様にとさへ思へば、紛るゝ事はこれなく候也。

現代語訳

一、ご縁組みの時、何某が一分を申し達した。この事、若き衆はよく心得ておくべき事だ。申し分はもっともな事に聞こえる。さすがだと言う者もあるだろう。その身を気分よくおもって、言うべきことを言って腹を切っても本望と思われるだろう。しかしよくよく深く考えなされ、何の役にも立たない事だ。この様な者を腹の座った者だと思うのはもっての外の取り違いである。まず申し出ても仕方の無い事で、自分の身は引かされ、お育てすることも出来ず、その後お亡くなりになられる時に、ご看病申し上げることもできず、残念なことこの上ない。真面目過ぎる人は良く誤るところだ。総じてその身分に似合わぬ諫言を行うのはかえって不忠である。誠の者ならば、自分の思う所をにあった身分の方に密かに内談して、その人の思う所に寄せて言えば、その事は調う。これは忠節である。もし、内談にその人が受け合わなければ、また他の人にも内談し、とにかく色々心使いをして、その事さえ調う様にして、自分の大忠節は人の知られない様にして置くものだ。いくら人に内談しても埒が明かない時には力及ばずだが、その時が過ぎて、また繰り返せば、多分に叶う。我こそは強者であると言われる名聞ばかりを、我が手柄にするので事が調わないのだ。申し出たことが役に立たず、人に迷惑をかけ、わが身を崩す人は数多い。結局、真の志がないからだ。わが身をひとえに捨てて、主君の身の上がどうあっても良くなる様にとさえ思っていれば、紛れる事は無い。

聞書第一 〇〇四四〜碁にも脇目八目、道に達するには念々知非、人に談合する事

原文

一、不義を嫌うて義を立つる事成り難きもの也。然れども義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる所に却つて誤り多きもの也。義よりも上に道は有る也。これを見附くる事成り難し。高上の賢智也。これより見る時は、義などは細きもの也。我が身に覺えたる時ならでは知れぬもの也。但し我こそ見附くべき事成らずとも、この道に至り様はある也。人に談合也。たとへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるもの也。碁に脇目八目と云ふが如し。念々知非と云ふも談合に極る也。話を聞き覺え書物を見覺ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に附く爲也。

現代語訳

一、不義を嫌って、義を立てる事は難しい。しかし、義を立てることを至極と思い、一向かいに義を立てる所にかえって誤りが多いものだ。義よりも上に道はある。これを見つける事は難しい。至高の賢智である。ここから見ると、義などは細いものだ。わが身に覚えがなければ分からない物だ。ただし、自分で見つけることが出来なくても、この道に至る方法はある。人に相談するのだ。たとえ道に至らぬ人にでも、脇から人の身の上は見える物だ。碁で言う脇目八目という様な物だ。色々考えて自分の至らないところを知ると言うが、極みは相談である。話を聞いて学び書物を読んで学ぶのも、自分の分別を捨てて、古人の分別を身に着ける為である。

聞書第一 〇〇四五〜劍道修行に果てはない、昨日よりは今日と一生日々仕上ぐる事

原文

一、或劍術者の老後に申し候は、「一生の間修行次第がこれある也。下の位は修行すれども物にならず、我も下手と思ひ、人も下手と思ふ也。この分にては用に立たざる也。中の位は未だ用には立たざれども、我が不足目にかゝり、人の不足も見ゆるもの也。上の位は我が物に仕成して自慢出來、人の褒むるを悦び、人の至らざるをなげく也。これは用に立つ人也。人も上手と見る也。大方是迄也。この上に、段立ち越え道の絶えたる位ある也。その道に深く入れば、終に果て無き事を見附くる故、是迄と思ふ事ならず。我に不足ある事を實に知りて、一生成就の念これなく、自慢の念もなく、卑下の心もこれなくして果たす道を知りたり。」と申され候由。昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりて一生日々仕上ぐる事也。これも果てなきといふ事也と。

現代語訳

一、ある剣術者が老後に言ったのは、「一生の間には修業の段階がある。下の位は修業しても物にならず、自分でも下手だと思い、人からも下手だと思われる。この段階では、役に立たない。中の位は未だに役には立たないが、自分の足りない所が目につき、人の足りない所も見えるようになる。上の位は自分の物として自慢でき、人に褒められるのを喜んで、人が至らないのを嘆く。これは役に立つ人だ。人からも上手とみられる。大方、ここ迄である。この上に段階を超えて道が途絶えた位がある。その道に深く入れば最後まで果てが無い事が分かるため、これで良いと思う事が出来ない。自分に不足があることを切実に思い知って、一生願いをかなえようとは思わず、自慢しようとも思わず、自分を卑下する心もなく命を終わらせる道を悟る。」という事だ。昨日よりは上手になり、今日よりは上手になって一生日々仕上げる事である。これも果て無いと言う事だ。

聞書第一 〇〇四六〜直茂公壁書「大事の思案は輕く」とは平素思案を定め置く事

原文

一、直茂公の御壁書に「大事の思案は輕くすべし。」とあり。一鼎の註には、「小事の思案は重くすべし。」と致され候。大事と云ふは、二三箇條ならではあるまじく候。これは、平生に詮議して見れば知れて居る也。これは前廉に思案し置きて、大事の時取出して輕くする事と思はるゝ也。兼ては不覺悟にして、其の場に臨んで輕く分別する事も成り難く、圖に當る事不定也。然れば兼て地盤をすゑて置くが、「大事の思案は輕くすべし。」と仰せられ候箇條の基と思はるゝ也。

現代語訳

一、直茂公の御壁書に「大事の思案は軽くすべし。」とある。一鼎の註では、「小事の思案は重くすべし。」となされた。大事というのは、二、三箇条程度ではないだろう。これは普段から詮議してみれば分かる。これは前もって思案して置いて、大事の時取り出して軽くすることと思われる。兼ねてから覚悟をせずに、その場に臨んでは軽く分別する事は難しく、思った通りうまく行か分からない。だからこそ兼ねてから地盤を固めておくことが、「大事の思案は軽くすべし。」と仰せられた箇条の基だと思われる。

聞書第一 〇〇四七〜道とは我が非を知る事、念々に非を知つて一生打置かざる事

原文

一、宗龍寺江南和尚に美作殿一鼎など學問仲間面談にて、學問の話を仕懸け申され候へば、「各は物識にて結構の事に候。然れども道にうとき事は平人には劣る也。」と申され候に付、「聖賢の道より外に道はあるまじ。」と一鼎申され候。江南申され候は、「物識の道に疎き事は、東に行く筈の者が西に行くがごとくにて候。物を知るほどに道には遠ざかり候。その仔細は、古の聖賢の言行を書物にて見覺え、噺にて聞き覺え、見解高くなり、早や我が身も聖賢の様に思ひて、平人は虫の様に見なす也。これ道に疎き所にて候。道と云ふは、我が非を知る事也。念々に非を知つて、一生打置かざるを道と云ふ也。聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふにて候。佛は知非便捨の四字を以って我が道を成就すると説き給ふ也。心に心を附けて見れは、一日の間に悪心の起ること數限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈也。」と申され候に付、一鼎得道の由也。然れども武邊は別筋也。大高慢にて、我は日本無雙の勇士と思はねば、武勇を顯はす事は成り難し。武勇を顯はす氣の位これある也。口傳。

現代語訳

一、宗龍寺江南和尚のもとでの美作殿や一鼎など学問仲間の集まりで、学問の話を仕掛け、「各々方は物知りで結構なことだ。しかし、道に疎いと言う点では普通の人に劣る。」と言われたので、「聖賢の道の他に道はないだろう。」と一鼎は言われた。江南申は、「物知りが道に疎いのは、東に行くはずの者が西に行くようなものだ。物を知るほどに道から遠ざかる。詳しく言えば、いにしえの聖賢の言行について書物を読んで学び、話に聞いて学び、見解が高くなり、もはや自分も聖賢の様だと思って、普通の人を虫けらの様に見なす。これは道に疎い。道と言うのは、自分の非を知る事だ。熟考し非を知って、一生立ち止まらない事を道と言う。聖の字をヒジリと読むは、非を知り給うと言う事だ。仏は知非便捨の四字を以て我が道を成就すると説きなさった。心に気を付けてみれば、一日の間に悪い心が起こる事は数限りない。自分は大丈夫だと思う事は無いはずだ。」と仰ったので、一鼎も悟りを開いたとの事だ。しかし、武辺に関しては別である。大高慢になって、自分は日の本無双の勇士だと思わねば武勇を現わす事は難しい。武勇を現わす気位はその様な物だ。口伝。

聞書第一 〇〇四八〜曲者志田吉之助の戯れ、 生きたまがし を聞き誤るな

原文

一、武士道功者書に、功者の武士は、せざる武邊に名を取る道ありと書かれ候。後々の誤りこれあるべく候。「も」の字一字加へて見申し候由。又志田吉之助、生きても死にてものこらぬ事ならば、生きたがましと申し候。志田は曲者にて、戯れに申したる事にて候を、生立者共聞き誤り、武士の疵に成る事を申すべくやと存じ候。此の追句に、喰はうか喰ふまいかと思ふものは喰はぬがよし、死なうか生きようかと思ふ時は死んだがよしと仕り候。

現代語訳

一、武士道功者の書に、巧者の武士は、行っていない武辺に名を上げる道がある、と書かれている。後々に誤って伝わるかもしれない。「も」の字を一文字加えて見ると分かる。また、志田吉之助は、生きても死んでも後に残らないなら、生きていた方がましだと言った。志田は強者であり、ふざけて言った事だが、若者たちが誤解して、武士の疵になる事を言うものだと思うかもしれない。志田吉之助は付け加えて、食うか食うまいかと思うものは食わないのが良く、死のうか生きようかと思う時は死んだ方が良いと言っている。

聞書第一 〇〇四九〜上方言葉は無興千萬、御國では田舎風の初心が重寶

原文

一、何某、大坂へ數年相勤め、罷下り、請役所へ罷出で候節、上方口にて物を申され候に付、無興千萬の物笑にて候。それに付、江戸上方へ久しく詰め候節は、常よりも御國口を開き申すべき事に候。おのづと其の風に移り、御國方の事は田舎風と見おとし、他方にすこしも理の聞えたる事の候時は、それを羨み申す儀、何の味も存ぜず、うつけたる事也。御國は田舎風にて初心成るが御重寶に候。他所風まね候ては似せ物にて候。或人春岳へ、「法華宗は情がこはき物にて宜しからず。」と申され候。春岳申され候は、「情はのこはきゆゑ法華宗にて候。情のこはくなければ他宗にてこそ候へ。」と申され候。尤もの事に候。

現代語訳

一、何某が、大阪へ数年勤めて帰国し、請役所へ出向いた時、上方言葉で話したので、興ざめの笑い者となった。それに付け、江戸上方へ長く詰めていたときは、普段よりもお国言葉を使うべきだ。おのずと江戸上方風が移り、お国方の事は田舎風だと見下し、他方に少しでも良い所があると、それを羨むのは、何の味も知らない、うつけである。お国は田舎風で初々しいので重宝されるのだ。他所風に真似をしては偽物である。ある人が春岳に、「法華衆は情が強いので良くない。」と言った。春岳は「情が強いのが法華宗だ。情が強くなければ他宗になってしまう。」と言った。もっともな事だ。

聞書第一 〇〇五〇〜誤ある者を捨てるな、誤の一度もない者は却つて危い

原文

一、何某立身御詮議の時、此の前大酒仕り候事これあり、立身無用の由衆議一決の時、何某申され候は、「一度誤これありたる者を御捨てなされ候ては、人は出來申すまじく候。一度誤りたる者は、其の誤を後悔致すべき故、随分嗜みて御用に立ち申し候。立身仰付けられ然るべき。」由申され候。何某申され候は、「其方御請合ひ候や。」と申され候。「成程某請に立ち申すべし。」と申され候。其の時何れも、「何を以って請に御立ちなされ候や。」と申され候。「一度誤りたる者に候故、請に立ち申し候。誤一度もなき者は、あぶなく候。」と申され候に付て、立身仰付けられ候由。

現代語訳

一、何某の立身詮議の折に、この前大酒を飲んだとの事で、立身は無用であると議決されようとした時、何某が言うには、「一度過ちを犯した者をお捨てなさっては、人が育たない。一度過ちを犯したものは、その誤りを後悔するので、随分気を付けて役に立つ。立身を仰せ付けて然るべきである。」との事。何某は、「その方、請け合うか。」と言った。「なるほど、請て立とう。」と返事をした。その時いずれも、「なぜ、請け合うのか。」と尋ねた。「一度過ちを犯したものゆえ、責任を取るのだ。一度も過ちを犯したことのない物は危ない。」と言ったので、立身仰せ付けられたとの事。

聞書第一 〇〇五一〜中野數馬、科人詮議の時相當の罪科より一段づゝ輕く申し出づ

原文

一、中野數馬は科人御詮議の時、相當の科一段づゝ輕く申し出で候。一代一ふりの秘蔵の智慧にて候。其の頃は、數人の出座に、數馬一人ならだは口を披き申したる人これなく候。口明け故二十五日殿と申し候由。

現代語訳

一、中野数馬は罪人の詮議の時、相当する刑を一段ずつ軽く求刑した。一世一代の秘蔵の知恵である。その頃は、数人で詮議していたが、数馬の他には第一声を上げる人が居なかった。口明けをするので、二十五日殿と呼ばれた。

聞書第一 〇〇五二〜主君の御誤を直すが大忠節、若年の時の御守が大事

原文

一、殿の御心入れよく仕直し、御誤なき様に仕る人が大忠節にて候。總じて御若年の時分に、御家の様子、御先祖様御心入など、篤と御合點遊ばされ候様に仕り度き事に候。御守が大事にて候由。

現代語訳

一、殿のお心入れを良く直して、御誤りなさらぬように仕えるのが大忠節である。総じて若年の時分に、お家のご様子や、ご先祖様のお心入れなどを、とくとご納得遊ばされる様にお仕えしたいものだ。お守りが大事である。

聞書第一 〇〇五三〜柳生流の抜出しを見習ふに及ばぬ、鍋島の刀は落差

原文

一、昔人の刀は落差に仕り候。今時の刀の差し様、吟味する人これなく候。柳生流には抜出して差させ候由申し候。それを相傳もなく、何の了簡もなく、抜出を見習うて差し申すと相見え候。直茂公勝茂公も落差に遊ばされ候由。其の時代手覺えのある衆、皆落差に仕り候上は、利方よしと相見え候。先づ抜出しては不圖取られさうに思はれ候。光茂公は勝茂公の御差圖にて、落差遊ばされ候由。

現代語訳

一、昔の人の刀は、落とし差しであった。今時の刀の差し方は、吟味する人がいない。柳生流では抜き出して刺させる様にとの事だ。それを伝授されたわけでもなく、何の考えも無しに、抜き出しを見習って差しているように見える。直茂公勝茂公も落とし差しになさっていた。その時代の腕に覚えがある衆は、皆落とし差しにしており、利があると見える。まず、抜き出していては不意に取られそうに思える。光茂公は勝茂公のお指図で、落とし差しになさっていたとの事である。

聞書第一 〇〇五四〜鍋島光茂 綱茂父子元旦の御目見に、小姓不覺の一言

原文

一、光茂公 綱茂公御在府の時、正月元日上御屋敷にて、光茂公へ御目見これあり候に付て、其の間は、綱茂公御式臺裏の間に御座成され候。光茂公、「信濃はどこに居られ候や。」と仰せられ候時、御小姓何某、「若殿様は御隠れ御座成され候。」と申上げ候。斯様の誤これあるべき事也。

現代語訳

一、光茂公 綱茂公が江戸にてお勤めの時は、正月元旦に上屋敷にて、光茂公へのお目見えがあるので、その間は、綱茂公は御式台の裏のお部屋におられた。「信濃はどこにいるのか。」と仰せられた時、小姓何某は、「若殿様は、御隠れなさっております。(亡くなったと同義)」と申し上げた。このような間違いがあるだろうか。

聞書第一 〇〇五五〜打返しは踏懸けて切殺さるゝ迄、赤穂義士の敵討ちは延び延び

原文

一、何某、喧嘩打返しをせぬ故恥になりたり。打返しの仕様は、踏懸けて切殺さるゝ迄也。これにて恥にならぬ也。仕果すべしと思ふ故、間に合はず。相手何千人もあれ、片端より撫切りと思ひ定めて、立向かふ迄にて成就也。多分仕濟ますもの也。又淺野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが落度也。又主を討たせて、敵を討つ事延び延び也。若し、其の内に吉良殿病死の時は残念千萬也。上方衆は智慧かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にする事はならぬ也。又曾我殿夜討の殊の外延引、幕の紋見物の時、祐成圖をはづしたり。不運の事也。五郎申様見事也。總じて斯様の批判はせぬものなれども、これも武道の吟味なれば申す也。前方に吟味して置かねば、行當りて分別出來合はぬ故、大かた恥になり候。話を聞覺え、物の本を見るも、かねての覺悟のため也。就中、武道は今日の事も知らずと思ひて、日々夜々に箇條を立てて吟味すべき事也。時の行掛りにて勝負はあるべし。恥をかゝぬ仕様は別也。死ぬ迄を考へず、無二無三に死狂ひするばかり也。これにて夢覺むる也。

現代語訳

一、何某が、喧嘩の打ち返しをしかかったので恥となった。打ち返しのやり方は、押しかけて切り殺されるだけだ。これで恥にはならない。やり遂げようと思うから、間に合わないのだ。相手が何千人であっても、片っ端から撫で斬りにすると思いを定めて、立ち向かうだけで成就している。多くは仕留めることも出来るものだ。また、浅野殿の浪人夜討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落ち度である。主を討たれて、敵を討つことが延び延びになった。もしその内に吉良殿が病死してしまった場合は、残念千万だ。上方衆は知恵かしこいので、褒められるやり方は上手だが、長崎喧嘩の様に無分別には出来ていない。また、曽我殿夜討ちがことのほか延びて、幕の紋見物の時には、祐成は失敗してしまった。不運な事だ。五郎の言いようは見事であった。総じてこの様な批判はしないものだが、これも武道の吟味なので申し上げる。事前に吟味しておかなければ、行き当たりばったりでは分別が間に合わないので、大かたは恥になる。話を聞いて学び、物の手本を見るのも予ねての覚悟の為だ。とりわけ、武道は今日事があるかもしれないと思って、日々夜々に箇条を立てて吟味するべきだ。時の成り行きで勝負は決まる。恥をかかぬやり方は別だ。死ぬことは考えず、無二無三に死狂いするだけだ。これで夢が覚めるだろう。

聞書第一 〇〇五六〜逼迫にさへあれば疵は附かぬ、富貴になりたがるが心が疵

原文

一、奉公人に疵の附く事一つあり。富貴になりたがる事也。逼迫にさへあれば疵は附かぬ也。又何某は利口者なるが、人の仕事の非が目にかゝる生附也。この位にては立ちかぬるもの也。世間は非だらけと、始めに思ひこまねば、多分顔附が悪しくして人が請け取らぬもの也。人が請取らねば、如何様のよき人にても、本義にあらず。これも一つの疵と覺えたるが由。

現代語訳

一、奉公人に疵がつくことが一つある。富や地位を欲しがる事だ。逼迫さえしていれば疵はつかない。また何某は利口者だが、人の仕事の非が目につく性分だ。この段階では役に立ちかねる。世間は非だらけだと、始めに思い込まなければ、多分顔つきが悪くなり人に受け入れられない。人に受け入れられなければ、如何に良い人でも、本領を発揮できない。これも一つの疵であると覚えておくようにとの事。

聞書第一 〇〇五七〜人前で高言を吐くな、「侍たる者は先づ禮儀正しきこそ美しきけれ」

原文

一、「何某は氣情者なり、何某の前にて斯様の儀を申し候。」と話す人あり。其れが面に似合はぬ言分也。曲者と云はれたき迄也。卑い位也。青き所がある人と見えたり。侍たる者は、まづ禮儀正しきこそ美しけれ。其の様に、人の前にて物を云ふは槍持中間の出會い同然にて賤しき事也と。

居宅、衣装、諸道具等つらに似合はぬ事する人多し。扇、鼻紙、料紙、臥具などは、少しよき物にても苦しからざる也。

現代語訳

一、「何某は気情者だ、と何某の前でこの様な事を言ってやった。」と話す人がいた。「それが面に似合わない言い分だった。剛の者と言われたいだけだ。卑しい者だ。青いところのある人のようだ。侍たる者は、まず礼儀正しい事こそ美しい。そのように人前でものを言うのは槍持ち仲間の挨拶同然で卑しい事だ。」と常朝殿は言われた。

住居、衣装、諸道具など、面に似合わぬ事をする人が多い。扇、鼻紙、料紙、寝具などは、少し良い物を使っても見苦しくない。

聞書第一 〇〇五八〜忠孝に背きたる者は置所なし、親の氣に入る様にと氏神に祈れ

原文

一、何某が養子鈍に候故氣入らず、殊に親長病にて氣短く相成り、不斷折檻仕り悪口を申し候に付て、養子居こたへ候儀成り難く、近々引取り申すべき様子に相見え候。此の事を養母參り候て、「何とも迷惑に候間、病氣ながら諸事堪忍候様に、親に御意見賴み申す」由申し候。斷り申し候へども、「是非共賴み申す」と涙を流し申し候故、力に及ばず請合ひ申し候。「親に意見は逆にて候。殊に病中也。倅を此方へ遣はし候へ。」と申し候。母不落着にて罷歸り候。倅參り候に付申し候は、「總じて人間に生れ出るも、生々の大幸と存ずべき事に候。其の上御當家の士と成る事、生前の本望也。百姓町人を見て思ひ知るべし。實父の遣領を取るさへ有難き事なるに、末子に生れて他の家を継ぎ、御被官の一人と成る事は、優曇華の仕合せ也。これを取迦して無足人になる事は不忠、親の氣に入らぬは不孝也。忠孝に背きたる者は世界に置所なし。よく立歸りて案じて見られ候へ。今其方の忠孝は、唯親の氣に入る迄也。氣に入り度くても、親の氣向きがわるきとのみ存ぜられるべく候。親の氣の直し様を敎え申すべし。私の面つき其の外物毎の親の氣に入り申す様にと、血の涙を流し、氏神に祈らるべし。これ私の事にあらす、忠孝の爲也。此の一念忽ち親の心に感應あるもの也。歸りて見られよ、早親の心直りて居るべし。天地人感通する不思議の道也、殊に長病なれば久しかるべからず、僅かの間の孝行、逆立するとも安き事也。」と申し候へば、涙を流し忝しと申して歸り申し候。後に承り候へば、歸りがけに親申し候は。「意見に逢ひたりと見えて、先づ見掛よくなりたり。」と、其の儘機嫌直り候由。誠に不思議の道理、人智の及ばぬ所也。其の時の意見ゆゑ、忠孝共に立ち候て忝き由、禮に參られ候。眞の道を祈りて叶はぬ事なし。天地も思ひほがすものなり。紅涙の出づる程に徹する所、即ち神に通ずるかと存じ候。

現代語訳

一、何某の養子の出来が悪く気に入られず、特に親が長病で気が短くなっており、普段から折檻をして悪口を言い、養子で居ることに耐えられなくなって、近々引き取る事になったようだ。このことを義母が来て、「何とも迷惑をかけてしまいましたが、病気であるため諸事、堪忍するように親にご意見お願いします。」と言った。断ったが、、「是非お願いします。」と涙を流して言うので、力及ばずながら請け合った。「しかし、親に意見は逆だ。特に病中である。倅をこちらへ遣わしなさい。」と返事した。母は納得しないまま帰っていった。倅が来たので「総じて人間に生まれたのは、大変幸せな事だと思わなければならない。その上、当家の武士になる事、生まれる前からの本望である。百姓町人を見て思い知るが良い。実父からの遺領を受けることでさえ有り難い事なのに、末子に生まれて他の家を継ぎ、ご被官の一人と成れる事は、優曇華の花を見るにも等しい幸せである。これを取り外して無足人になることは不忠だ。親に気に入られないのは不孝である。忠孝に背く者は世界に居場所などない。良く立ち返って考えて見なさい。今その方の忠孝は、ただ親に気に入られる事だけだ。気に入られたくてもそれが叶うのは、親の気持ちが分かった時だけだと思っておきなさい。親の機嫌を直す方法を教えよう。時分の顔つきやその他の物事を親が気に入りますようにと、血の涙を流し、氏神に祈る事だ。これは自分の為ではなく、忠孝の為だ。この一念がたちまち親の心に通じるものだ。帰ってみれば、早くも親の心は直っているだろう。天地人が感じ通じる不思議な道であり、特に長病であればもう長くは無いであろう僅かの間の孝行、逆立ちしても簡単にできる。」と話したところ、かたじけないと言って帰っていった。後に聞けば、帰ってすぐにに親が言ったことには、「話を聞いてきたと見えて、まず見かけは良くなったな。」と、そのまま、機嫌が直ったとの事だ。真に不思議な道理で、人智の及ばない所である。その時の意見の為、忠孝ともに立ってかたじけないとの事で、お礼に参られた。真の道を祈って叶わないことは無い。天地も思い通じる物なのだ。紅涙が出るほどに徹するところには、すぐに神に通じるのかと思った。

聞書第一 〇〇五九〜一家を立つるな、常に我が非を知つて修行する所に道はある

原文

一、一世帯構ふるがわろきなり。精を出して見解などあれば、早濟まして居る故早違ふ也。尤も精を出して、先づ種子は確に握つて、偖それが熟する様にと修行する事也。一生止むる事はならず。見附けたる分に、其の位叶ふ事は思ひもよらず、只これも非也、非也と思うて、何としたらば道に叶ふべきやと一生探促し、心を守りて打置く事なく、修行仕るべき也。この内に即ち道はある也と。

現代語訳

一、一世帯を構えるのは悪い事だ。精を出して得た見解などがあれば、済んだ気になってしまうから間違うのだ。まず種は確かに握って、さてそれが熟するようにと修業するのだ。一生止めてはいけない。見つけた答えに、その程度で叶ったとは思わずに、ただこれも駄目だ、駄目だと思って、どうしたら道に叶うのかと一生探索し続け、、心を保って留まることなく、修業するべきだ。即ち、この内に道はある。

聞書第一 〇〇六〇〜山本神右衛門の敎訓「一方見れば八方見る」其他の條々

原文

一、山本神右衛門、常に申し候詞數ヶ條書留め候内。

一、一方見れば八方見る。

一、すら笑ひする者は男はすくたれ、女はへらはる。

一、口上又は物語などにても、物を申し候時は、向ふの目と見合ひて申すべし。禮は初めにして濟むなり。くるぶきて申すは不用心也。

一、草紙書物を取扱ひ候へば、即ち焼き捨て申され候。書物見るは公卿の役、中野一門は樫木握つて武邊する役と申され候。

一、組附かず、馬持たぬ侍は侍にてなし。

一、曲者は頼もしき者。

一、朝は七ツに起き日行水、日さかやき。食は日の出に食べ、暮より休み申され候。

一、士は喰わねども空楊枝。内は犬の皮、外は虎の皮。

現代語訳

一、山本神右衛門が常に言っていた事を、数箇条書き留める。

一、一方が見れば八方が見える。

一、あいそ笑いする者は男は汚く、女は淫ら。

一、口上や物語などでも、物を言う時は、相手と目を見合って物を言え。礼は最初だけで済むものではない。俯いて物を言うのは不用心。

一、袴の下に手を入れるのは不用心。

一、本や書物を取り扱う時は、すぐに焼き捨てろ。書き物を読むのは公卿の役目で、中野一門は樫の木握って武辺する役目だと言われた。

一、組に付かず、馬を持たない侍は侍では無い。

一、剛の者は頼もしい者。

一、朝は四時に起きて毎日行水、毎日さかやきを剃る。食事は日の出に食べ、日が暮れたら休め。

一、士は喰わねども空楊枝。内は犬の皮、外は虎の皮。

聞書第一 〇〇六一〜活きた面は正念のとき、萬事をなす内に胸に一つ出來る物がある

原文

一、「人として肝要に心がけ、修行すべき事は何事にて候や。」と問はれ候時、なんと答へこれあるべきや。先づ申して見るべし。只今正念にして居る様にになり、諸人心が抜けてばかり見ゆるなり。活きた面は正念の時也。萬事をなす内に、胸に一つ出來る物ある也。これが君に對して忠、親には孝、武には勇、その外萬事につかはるゝもの也。これを見附くる事も成り難し。見附けて不斷持つ事又成り難し。只今の當念より外はこれなき也。

現代語訳

一、「人として肝心で、修業すべき事とはどんな事か。」と問われた時、何と答えるべきか。まず述べてみよう。それはただ今の正しい心であり、皆気を抜いてばかりに見える。活きた面構えに成るのは正念の時である。様々な事を為すうちに、胸に一つできる物がある。これが主君に対しての忠、親に対しては考、武には勇、その外すべてに使える物である。これを見つけるのは難しい。見つけて普段から保つことも難しい。ただ今のこの念の他は無いのである。

聞書第一 〇〇六二〜寄親組子は親子同然、寄親を離れては出世も思はぬ

原文

一、昔は寄親組子他事なき心入れ有り。光茂公の御代、御馬廻御使番母衣一人不足の時、御家老中御詮議にて、若手に器量の者候間、馬渡源太夫仰付けらるべき旨、相〆り候。此の事源太夫親市之允隠居にて罷り在り候が、承り附き、寄親中野數馬早走りにて參り候て申し達し候は、「さても是非に及ばざる仕合せに候。御組の儀、皆御一門衆計りにて候ゆえ、拙者覺悟には、御一門衆を追越し、寄親の用に罷立つべくと存じ部まり、源太夫にも、一門組にて候間油斷仕らず一門衆を押しのけ、寄親の用に罷立ち候様にと兼ねて申し聞き置き候。然る所に御組内より源太夫御選り除け候儀面目次第もこれなく、御情けなき成され方にて候。此の上は知行主に罷成り候源太夫は申すに及ばず、隠居仕り候拙者とても世間に面目なきに付いて、父子共に覺悟を相極め申し候。」由、屹度申し候。數馬之を承り、「以っての外の了簡違ひにて候。今度の組替は源太夫規模の仕合せ之に過ぎず候。御家老中御詮議、器量者に候故、仰付けられ候由、父子ながら成程悦び申さるゝ筈に候。」と申し候へば市の允申し候は、「御詮議の節、彼者は私一門同然に組内寄合ひ申す者に候へば、差出し候儀罷成らずとおおせ達せらるゝ筈に候を、御請合成され候は兼々他事なくも思召されざる故にて候。爰を以って見限成され候儀と、骨髄に通り遺恨に存じ候」由、中々存じ部りたり様子に申し候。其の時數馬を申し候は、「成程尤もにて候。今日御家老中に御斷り申し候て見申すべく候」由、申し候に付て、「せめて其の御一言なり共承らず候ては罷歸り難し。」と申し候て、歸り申し候。數馬登城致し、御家老中へ申し候は、「人の命は知れぬ物にて候。私儀今朝、すでに太腹を突かれ申し候。斯様々々の仔細にて候間、源太夫儀は御免成され候様に。」と申し候故、余人に仰付けられ候由也。

現代語訳

一、昔は寄親組子には他にはない心入れがあった。光茂公の代、お馬回りお使い番の母衣が一人不足していた時、御家老中が詮議して、若手に器量が良い者いると、馬渡源太夫が仰せ付けられる旨決定し、詮議を終えた。この事を源太夫の親で隠居していた市之允が承り、寄親の中野数馬の所へ早馬で走って参って言う事には、「さてもしょうがない事になった。御組の儀では、皆御一門衆ばかりなので、一門衆を追い越し、寄親の役目を果たすと拙者は覚悟を決めているので、源太夫にも、一門組では油断せずに、一門衆をおしのけ、寄親の役に立つようにと常々から言い聞かせて置いた。そうであるから、御組内より源太夫を追い出してしまったこと、大変面目なく、情けのないやり方である。この上は知行主になった源太夫は言うに及ばず、隠居している拙者も世間に面目が無いので、父子共に覚悟を決めた。」ときつい調子で言った。数馬はこれを聞いて、「もっての外の考え違いだ。今度の組み替えは、源太夫の家門の名誉に過ぎない。御家老中の詮議は、器量が良い者であるが故に、仰せ付けられたとの事、父子ならば納得して喜ぶ筈だ。」と言われたので、市之允は、「御詮議の折、かの者は自分の一門同然に組内寄合う者であるので、差し出すことはできないと仰せ頂ける筈の所を、お請け合いなされたと言う事はかねがねよそ者ではないと思って下さっていなかったからである。これを以て見限られなさったと、骨の髄まで残念に感じている。」と感極まった様子で言った。其の時、数馬は、「成るほど、もっともだ。今日御老中にお断って見よう。」と言われたので、「せめて、その御一言なりとも頂かずには帰れない。」といって帰っていった。数馬は登城して、御老中に、「人の命は分からないもの。私ごとだが、今朝すでに太腹を突かれた。かくかくしかじかの事情なので、源太夫の役は解かれなされます様に。」と言ったので、残りの人にもそのように仰せ付けられたとの事。

聞書第一 〇〇六三〜武士の身嗜は伊達や風流の爲でなく、常住討死の覺悟から

原文

一、五六十年以前迄の士は、毎朝、行水月代髪に香ををとめ、手足の爪を切つて輕石にて摺り、こがね草にて磨き、懈怠なく身元を嗜み、尤も武具一通りは錆を附けず、埃を拂ひ、磨き立て召置き候。身元を別けて嗜み候事、伊達のように候へども、風流の儀にてこれなく候。今日討死、今日討死と必死の覺悟を極め、若し無嗜みにて討死いたし候へば、かねての不覺悟もあらはれ、敵に見限られ、穢まれ候ゆゑに、老若共に、身元を嗜み申したる事にて候。事むつかしく、隙つひえ申すやうに候へども、武士の仕事は斯様の事にて候。別に忙しき事、隙入る事もこれなく候。常駐討死の仕組に打ちはまり篤と、死身になりきつて、奉公も勤め、武邊も仕り候はゞ恥辱あるまじく候。斯様の事を夢にも心附くかず、欲得我が儘ばかりにて日を送り、行き當りては恥をかき、其れを恥とも思はず、我さへ快く候へば、何も構はずなどと云ひて放埓無作法の行跡に成行き候事、返す返すも口惜しき次第にて候。かねて必死の覺悟これなき者は、必定死場悪しきに極り候。又兼ねて必死に極め候はゞ何しに賤しき振舞あるべきや。此のあたり、よくよく工夫仕るべき事也。又三十年以來、風儀打替り、若侍共の出會の話に、金銀の噂、損得の考、内證事の話、衣装の吟味、色慾の雜談計りにて、此の事なければ、一座しまぬ様に相聞え候。是非なき風俗に成行き候。昔は二三十ども迄も、素より心の内に賤しき事持ち申さず候故、詞ににも出し申さず候。年輩の者も不圖申出で候へば、怪我の様に覺え居り申し候。これは世上華麗になり、内證方計りを肝要に眼附け候故にて是在るべく候。我が身に似合はぬ驕りさへ仕らず候へば、ともかくも相濟むものに候。又今時若き者の始末心是在るを、よき家持などと褒むるは淺ましき事にて候。始末心是在る者は、義理を缺き申し候。義理なき者は寸口垂れ也。

現代語訳

一、五、六十年前までの侍は、毎朝行水し、月代や髪に香りをとどめ、手足の爪を切って軽石で削り、こがね草で磨いて、怠けることなく身だしなみを整え、当然武具は錆びさせず、埃を払い、磨き立てて置いた。身だしなみを特に整えたことは、伊達男の様に思えるが、風流の為ではない。今日討死、今日討死と必死の覚悟を極めて、もしだらしないまま討死すれば、かねての覚悟のほども知れてしまい、敵に見限られ蔑まれるので、老若共に、身だしなみを整えるのである。めんどくさく、時間がかかる様に思われるが、武士の仕事はこのような事だ。別に難しくもなく、時間もかからない。常に討死する覚悟を決めるやり方に集中して、すっかりと死んだ気に成り切って奉公に勤め、武辺も行えば恥をかくことは無い。この様な事を夢にも気づかずに、欲得やわがままばかりで日々を送り、行き当足りばったりで恥をかき、それを恥とも思わず、自分さえ快ければ、構わないなどと言って我慢せずに不作法な行いになって行く事は、返す返す失望する次第だ。かねて必死の覚悟が無い者は、ろくな死に方はしない。また、かねてより必死に極めれば、どうして卑しい振る舞いになることがあるだろうか。このあたり、よくよく工夫するべき事だ。また三十年来、風紀が変わってしまい、若侍共が集まって話すことは、金銀の噂、損得の考え、どう生計を立てるかの話、衣装の吟味、色欲、雑談ばかりでこの事が無ければ座が持たないと聞く。しょうがない風俗になってゆくものだ。昔は、二、三十どもまでも、もとより心の内に賤しい事は持っておらず、言葉にも出さなかった。年配の者もふと出てしまったら、怪我の様に考えていた。これは世の中が華麗になり、生計の立て方ばかりが関心事であるようだ。わが身に似合わぬ驕りさえ持っていなければ、とにかく何とかなるものだ。また今時の若者が倹約するのを、良き家持だなどと褒めるは浅ましい事だ。倹約する者は、義理を欠く。義理が無いものは汚い者だ。

聞書第一 〇〇六四〜石田一鼎の教訓「人のよき事計りを選び立てゝ手本にせよ」

原文

一、一鼎の話に、よき手本を似せて精を出し習へば、悪筆も大體の手跡に成る也。奉公人もよき奉公人を手本にしたらば、大體には成るべし。今時よき奉公人の手本がなき也。夫れゆゑ、手本作りて習ひたるがよし。作り様は、時宜作法一通りは何某、勇氣は何某、物言ひは何某、身持正しき何某、律儀なる事は何某、つゝ切つて胸早く据わる事は何某と、諸人の中にて第一よき所、一事宛持ちたる人の其のよき事計りを選び立つれば、手本が出來る也。萬づの藝能も師匠のよき所は及ばず、悪しき曲に弟子は請取りて似するもの計りにて、何の役にも立たざる也。時宜よき者に不律儀なる者あり。これを似するに多分時宜は差し置きて、不律儀に似する計り也。よき所に心附けば、何事もよき手本師匠となる事に候由。

現代語訳

一、一鼎の話に、良き手本に似せて精を出して習えば、悪筆もそこそこの筆跡になる。奉公人も良き奉公人を手本にすれば、そこそこにはなる。今時よき奉公人の手本がない。それゆえ、手本を作って習うが良い。作り方は、時宜、作法は一通り何某、勇気は何某、物言いは何某、身持が良いのは何某、律儀なのは何某、何か起こっても落ち着いているのは何某、皆の中で一番良い所、一事特技がある人の、その良い所ばかりを選び立てれば、手本ができる。あらゆる芸能も、師匠の良いには届かず、悪い癖を弟子が受け取って真似するばかりなので、何の役にも立たない。時宜が良い者の中にも、律儀でない者もいる。これに例えると、時宜は差し置いて、律儀でない所ばかり似せる事だ。良き所に注意を向ければ、何事も良き手本、師匠となるとの事。

聞書第一 〇〇六五〜大事の手紙書附は途中も手に握つて行き、直ぐに渡せ

原文

一、大事の状、手紙、書附等持ち届け候節、道すがらも手に握りて片時も離さず、向ふ様にて直ぐに相渡すものにて候由。

現代語訳

一、大事な書状、手紙、書き付けなど持って届ける時、道すがらも手に握って片時も離さず、目的地に着いたら直ぐさま渡すものだとの事。

聞書第一 〇〇六六〜二六時中主君の午前に居ると思へ、休息の間もうかうかするな

原文

一、奉公人は二六時中氣をぬかさず、不斷主君の御前、公界に罷在る時の様にするもの也。休息の間うかとなりては、其の分公界にて、うかと見ゆる也。此の氣の位是ある事也。

現代語訳

一、奉公人は、四六時中気を抜かず、普段から主君の御前、公けの場所に居る時のようにするものだ。休息の間にうかうかしては、その分、公の場でうかうかする様に見える。このように気位を持つべきだ。

聞書第一 〇〇六七〜堪忍が第一、但しこゞぞと思ふ時は手早くたるみなき様に

原文

一、短氣にしてはならぬ事も有り。庵替の事。口達。よき時節が出來する物也。此の様なる事は堪忍が第一也。爰ぞと思ふ時は、手早くたるみなき様にしたるがよき也。案じ廻つて、ぐどつきて仕損ずる事有り。又初めより一途に踏破つてよき事も有り。愛想も盡き興もも覺むる様にして却つてよき事が有る也。斯様なる時は、別けて一言が大事也。兎角氣をぬかさず、胸据わるが肝要なり。

現代語訳

一、短気にしてはいけない事もある。庵替えの時のこと。口伝。良い時節がめぐってくるものだ。この様な時は、堪忍が第一だ。ここぞと思う時は、手早くたるみが無い様にするのが良い。案じまわって、もたついて仕損じることがある。また、初めから一気に踏み破って良い事もある。愛想も尽き興も覚める様な事をしてかえって良い事がある。この様な時は、とりわけ一言が大事だ。とにかく気を抜かず、落ち着くことが肝心だ。

聞書第一 〇〇六八〜酒は先づ我が分量を覺え飲過ぎぬ様に、酒座では氣を抜かすな

原文

一、大酒にて後れを取りたる人數多也。別して残念の事也。先づ我が丈け分を能く覺え、その上は飲まぬ様に在り度き也。其の内にも、時により、醉ひ過ごす事有り。酒座にては中就氣を抜かさず、圖らぬ事出來ても間に合ふ様に、了簡在るべき事也。又酒宴は公界物也。心得べき事也。

現代語訳

一、大酒で失敗する人が数多い。とりわけ残念な事だ。まず自分の限界を良くわきまえて、それ以上は飲まない様に在りたいものだ。その内にも、場合によっては、酔いすぎることもある。酒の席に於いては、特に気を抜かず、予期しないことが起きても間に合うように、深い考えを持つべきだ。また、酒宴は公の場だ。心得なければならない。

聞書第一 〇〇六九〜身の分際に過ぎた事をする者は、遂には逃亡もする。

原文

一、上下によらず、身の分際に過ぎたる事をする者は、つまり卑怯卑劣などして、下々は逃げ走りをするもの也。下人などに氣を附くべき事也。

現代語訳

一、身分の上下によらず、身の分際に過ぎた事をする者は、ゆくゆくは卑怯な事や卑劣な事などをして、下々の者は逃げていく。下人などには気を付けるべきである。

聞書第一 〇〇七〇〜骨を折つて藝者になるのは惜しい、多能なる者は下劣に見える

原文

一、武藝に貪着して、弟子など取りて武士を立つると思ふ人多し。骨を折りて、漸く藝者にならるゝは惜しき事也。藝能は事缺かぬ分に仕習うて濟む事也。聰じて多能なる者は下劣に見え、肝要の所が大方になるもの也。

現代語訳

一、武芸に頓着して、弟子などを取って武士を立てようと思う人は多い。骨を折って、ようやく芸者になられるのは惜しい事だ。芸能は事欠かぬ程度にならえば済む事だ。総じて多芸な者は下劣に見え、肝要なところがいい加減になるものだ。

聞書第一 〇〇七一〜役を仰付けられても慢心するな、浮氣でゐると仕損じがある

原文

一、吉凶に付、仰渡しなどの時、無言にて引取りたるも、當惑の體に見ゆる也。能き程の御請あるべき事也。前方の覺悟が肝要也。又、役など仰付けられ候節、内心に嬉しく思ひ、自慢の心などあれば、其の儘面に顕はるゝもの也。數人見及びたり。見苦しきもの也。我等不調法なるに、斯様の役仰付けられ、何と相調ふべきや、さてさて迷惑千萬、氣遣なる事かなと、我が非を知りたる人は詞に出さずとも面に顕はれ、おとなしく見ゆるなり。浮氣にて、ひようすくは道にも違ひ、初心にも見え、多分仕損じ在るもの也。

現代語訳

一、吉凶について、仰せ渡しの時は、無言で受け取っても、当惑しているように見える。適切に受け取るべきだ。前もって覚悟しておくことが肝要だ。また、役人など仰せ付けられる折は、内心でうれしく思い、自慢の心などがあれば、そのまま顔に現れるものだ。数人見たことがある。見苦しい。我等は不調法であるのに、この様な役を仰せ付けられ、どのように調えるべきか、迷惑千万、気違いの様な事だ、と我が非を知る人は言葉に出さなくても顔に現れ、おとなしく見える。浮ついて、軽々しく調子に乗る者は道を間違え、未熟と見えて、良く失敗するものだ。

聞書第一 〇〇七二〜學問には過失が出來る、一行ひを見ても我が非を知る爲にせよ

原文

一、學問はよき事なれども、多分、失出來るもの也。江南和尚の禁めの通り也。一行ひ在る者を見ても、我が心の非を知るべき爲にすれば、其の儘用に立つ也。然れども斯様には成り兼ねぬるもの也。大方見解が高くなり、理好きに成る也。

現代語訳

一、学問をすることはよい事だが、多くの場合は過失ができる。江南和尚の戒めの通りだ。実績のあるものを見ても、自分の心の非を知るためにすれば、そのまま役に立つ。しかし、そのようには成りかねるものだ。だいたいは、見解が高くなって、頭でっかちになる。

聞書第一 〇〇七三〜武士は何時も勇み進みて物に勝ち浮ぶ心がないと用に立たぬ

原文

一、人の難に逢うたる折、見舞に行きて一言が大事のもの也。その人の胸中が知るゝもの也。兎角武士はしほたれ、草臥るゝは疵也。勇み進みて、物に勝ち浮ぶ心にてなれば、用に立たざる也。人をも引立つる事是在る也。

現代語訳

一、人が困難に逢った折は、見舞いに行って一言かけるのが大事だ。その人の胸中を知る事が出来るものだ。とかく武士にとっては、意気消沈したり、くたびれる事は疵となる。勇み進んで、物に打ち勝って浮かぶ心でなければ、役に立たない。人を引き立てる事も出来るだろう。

聞書第一 〇〇七四〜隠岐國より還幸の時、後醍醐天皇の勅諚と楠木正成の奉答

原文

一、後醍醐天皇隠岐國より還幸の時、赤松楠木御迎へに參上、御感の勅諚あり。圓心は唯平伏して退く。正成は、御請申上げたり。よき御請なり。本書にて、之を見るべし。

現代語訳

一、後醍醐天皇が隠岐の国よりお帰りになった時、赤松、楠がお迎えに参上し、感謝の勅諚を賜った。円心はただ、平伏して退いた。正成は、御受取り申し上げた。よき受け取りだ。詳しく書いた書物で、これを見てみるといい。

聞書第一 〇〇七五〜駈落者追手氣轉の挨拶「朋輩を待ち兼ね麁相仕り候」

原文

一、何某、駈落者追手に罷越し候處、駕籠に乗り戸を差して通り候者あり。走り寄り戸を引きあけ、「何某にてはこれなきや。」と申し候へば、他方の者にて候。「朋輩を待ち兼ねて麁相仕り候。」と申し差し通り候由。

現代語訳

一、何某が、駆け落ちの追っ手に行ったとき、駕籠に乗って戸を閉めて通る者がいた。走り寄って戸を引きあけ、「何某ではないか。」と言ったが、人違いであった。「友人を待ちかねて粗相をしてしまった。」と言ってはばかったとの事。

聞書第一 〇〇七六〜大詮議の時頭取を討果すべき覺悟で、其の理由を表明す

原文

一、先年、大詮議の時、其の頭取討果すべき覺悟にて、何某仕懸け、其の理聞え届け申上げ候。又御仕置きの上、何某は、「御領掌早く候て、御側手薄く賴み少く存ずべく。」と申上げ候。

現代語訳

一、先年、大詮議の時、その頭を討ち果たすべく覚悟して、何某が仕掛け、その理由を申し上げた。その後、それが聞き届けられた後で、何某は、「思ったより早くご了承頂いたので、お相手が手薄で頼りないように思えた。」と申し上げた。

聞書第一 〇〇七七〜役所などでは取込みの時ほど静かにするのが侍の作法

原文

一、役所などにて別けて取込み居り候處に、無心に何かと用事など申す人これあり候時、多分取合ひ悪しく立腹などする者あり。別けて宜しからざる事也。左様の時ほど押ししづめ、よき様に取合ひ仕るべき事、侍の作法也。かどがましく取合ひ候は中間など出會の様也。

現代語訳

一、役所などで特に取り込んでいる所に、何も考えずに何かと用事を話しかける人がいる時、よく取り合うのが面倒で腹を立てる者がいる。特に良く無い事だ。そのような時ほど、押鎮めて、良い様に取り合うべきと言うのが、侍の作法だ。角を立てて請け合うのは中間(侍と小者の間の身分の者)などの集まりの様だ。

聞書第一 〇〇七八〜貰ひ物も度重なれば無心になる、人に用をいはぬがよい

原文

一、時により、人に用を云ひ、物をもらふ事有り。それも度重ならば、無心になり、いやしかるべし。何卒濟む事ならば、用を云はぬように有り度きなり。

現代語訳

一、時として、人に頼みごとを言って、物を貰う事がある。それも度重なると、慣れてしまい、卑しいくなるだろう。なにとぞ済む事なら、頼みごとは言わない様にありたい。

聞書第一 〇〇七九〜俄雨も初から思ひはまつて濡れる心に苦しみがない

原文

一、大雨の箴と云ふ事あり。途中にて俄雨にあひて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下などを通りても、濡るゝ事は替らざる也。初めより思ひはまりて濡るゝ時、心に苦しみなく濡るゝ事は同じ。これ萬づにわたる心得也。

現代語訳

一、大雨の戒めと言う物がある。途中でにわか雨にあって、濡れないようにと道を急いで走り、軒下などを通っても、濡れることは変わらない。初めから思い切って濡れる時、心に苦しみなく濡れることは同じだ。これは全てにおける心得だ。

聞書第一 〇〇八〇〜萬づの藝能も武道奉公の爲にすれば用に立つ、藝好きになるな

原文

一、萬づの藝能も、武道奉公の爲にと心に構へてすれば、用に立ちてよき也。多分藝能好になるもの也。學問など就中危き也。

現代語訳

一、すべての芸能も、武道奉公の為にと心に構えてすれば、役に立って良い。しかし多くの場合は、芸能好きになってしまうものだ。学問など特に危うい。

聞書第一 〇〇八一〜内で廣言を吐きながら事に臨んで違背する者が多い

原文

一、唐に、龍の圖を好める人有り。衣装器物にも龍の模様計り附けられたり。其の愛心深き事、龍神に感通して、或時、窓の前に眞の龍現れたり。此の人驚き、絶入りしけると也。内々にては廣言を云ひて、事に臨みて違却する人有るるべし。

現代語訳

一、中国に、龍の図を好む人がいた。衣装や器物にも龍の模様ばかりを付けた。その愛する心の深い事、龍神に通じて、ある時、窓の前に本物の龍が現れた。この人は驚いて、気絶してしまったそうだ。内々には大口を叩いて、実際に大事な場面に臨んで道理から外れてしまう人が居るものだ。

聞書第一 〇〇八二〜弟子を取りたければ毎日竹刀を手馴らす事一事三昧

原文

一、槍遣何某、末期に一の弟子を呼び、遺言致し候は、「一流奥儀、少しも残らず相傳え候上は、今更申置くべき事なし。若し弟子を取るべくと存じ候はゞ、毎日竹刀を手馴らすべし。勝負合ひの事は格別也。」と申し候由。又連歌師の傳授にも、會席の前日より心を静め、歌書を見るべき由なり。一事三昧の所也。面々の家職三昧に有るべき事也。

現代語訳

一、槍遣いの何某、最期に一番弟子を呼び、遺言を致して、「一流奥儀、少しも残らず伝えたので、今更言っておくことは無い。もし弟子を取ろうと思った時は毎日竹刀を手に取らせよ。勝負の事は別格である。」と言ったとの事。また、連歌師の伝授にも、会席の前日より心を静め、歌書を見るべきとの事だ。一つの事に不覚集中する事だ。各々の家職に不覚集中するべきという事だ。

聞書第一 〇〇八三〜武士は平生にも人に乗越えたる心でなくてはならぬ

原文

一、中道は物の至極なれども、武邊は、平生にも人に乗越えたる心にてなくてはなるまじく候。弓指南に、左右ろくのかねを用ふれども、右高になりたがるゆゑ、右低に射さする時、ろくのかねに合ふ也。軍陣にて、武功の人に乗越ゆべしと心掛け、強敵を討取るべしと、晝夜望みを掛くれば、心猛く草臥もなく、武勇を顕す由。老士の物語也。平生にも、心得あるべき也。

現代語訳

一、極端な概念に偏らない立場にある物は至極であるが、武辺は、普段から人を乗り越える心が無くてはならない。弓指南に、左右の正しい姿勢をとるが、右が高くなりたがるので、右を低くして射る時、正しい姿勢に合う。軍陣にて、武功のある人を乗り越えると心掛け、強敵を打ち取ると、昼夜望みを掛ければ、心猛々しくくたびれることなく、武勇を表すとの事。老士の物語である。普段から心得るべきである。

聞書第一 〇〇八四〜取手は下になると負けるはじめに勝つが始終の勝ち

原文

一、鐡山老後に申し候は、「取手は相撲には違ひ、一旦下になりても、後に勝ちさへすれば濟む事と心得罷在り候。近年存當り候は、一旦下になりて居る時、若し誰ぞ取りさかへ候はゞ負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ち也。」と申され候由。

現代語訳

一、鐡山が老後に、「取手は相撲と違い、一旦下になっても、後に勝ちさえすれば済む事と心得ていた。しかし、近年思い当った事は、一旦下になっているとき、もし誰か取り違えたら、負けになる。始めに勝が終始の勝ちである。」と話した。

聞書第一 〇〇八五〜子の育て様、幼な子はだまさず怖氣附かせず強く叱らずに

原文

一、武士の子供は育て様あるべき事也。先づ幼稚の時より勇氣の勧め、仮初にもおどし、だます事などあるまじく候。幼少の時にても臆病氣これ有るは、一生の疵也。親々不覺にして、雷鳴の時もおぢ氣を附け、暗がりなどには參らぬ様に仕なし、泣き止ますべきとて、おそろしがる事などを、申聞かせ候は不覺の事也。又幼少にて強く叱り候へば、入氣になる也。又悪癖染み入らぬ様にすべし。染み入りてよりは、意見しても直らぬ也。物言ひ禮儀など、そろそろと氣を附けさせ、欲儀など知らざる様に、其の外育て様にて、大體の生附きならば、よくなるべし。又女夫仲悪しき者の子は不孝なる由、尤もの事也。鳥獸さへ生れ落ちてより、見馴れ、聞馴るゝ事に移るもの也。又母親愚にして、父子仲悪しくなる事あり。母親は何のわけもなく子を愛し、父親意見すれば子の贔屓をし、子と一味するゆゑ、其の子は父に不和になる也。女の淺ましき心にて、行末を頼みて、子と一味すると見えたり。

現代語訳

一、武士の子供は育て方がある。まず、幼稚の時から勇気を薦め、かりそめにも脅したり、騙す事などあってはならない。幼少の時も、臆病であるのは、一生の疵である。親たちが不覚にも、雷鳴に怖気づかせたり、暗がりなどには行かないようにさせたり、泣き止まそうとして、怖がらせる様な事を話して聞かせたりしてはいけない。また、幼少にして強く叱れば、内気になる。また、悪い癖が染み付かないようにするべきだ。染み付いてからでは、意見しても直らない。物言いや礼儀など、そろそろと気を付けさせて、欲などは知らせない様に、その他は方で、大体の生まれつきならば、良くなるだろう。また、夫婦仲が悪い者の子は不孝になるとの事。もっともな事だ。鳥獣でさえ生れ落ちてから、見慣れ、聞き慣れた様になっていく。また母親が愚かで、父子仲が悪くなる事がある。母親は何の理由もなく子を愛し、父親意見すれば子の贔屓をし、子と一味になるので、その子は父と不和になる。女の浅ましき心で行く末を頼って、子と一味となると見える。

聞書第一 〇〇八六〜人に會はゞ片時も氣の脱けぬ様に、平生の覺悟が大事

原文

一、決定覺悟薄き時は、人に轉ぜらるゝ事有り。又衆會話の時分、氣ぬけて居る故に、我が覺悟ならぬ事を、人の申懸話などするに、うかと移りて、それと同意に心得、挨拶も「いかにも」と云ふ事有り。脇より見れば、同意の人の様に思はるゝ也。其れに付き、人に出會ひて、片時も片時も氣の脱けぬ様に有るべき事也。其の上話し又は物を申しかけられ候時は、轉ぜらるまじきと思ひ、我が胸に合わぬ事ならば、其の趣申すべしと思ひ、其の事を越度申すべしと思ひて取合ふべし。差立てたる事になくても、少しの事に違却出來るもの也。心を附くべし。又豫ていかゞと思ふ人には馴寄らぬがよし。何としても轉ぜられ、引入れらるゝもの也。爰の慥に成る事は、功を積まねばならぬ事也。

現代語訳

一、優柔不断であったり覚悟が薄い者は、人に言いくるめられる事がある。また、皆で会話する時、気を抜いている事が原因で、自分の覚悟が無い事を、人のいわれるままに、うっかり乗ってしまい、それに同意したと思って、挨拶の様に「いかにも」と言う事がある。はたから見れば、同意した人のように思われる。それについて、人に出会って、片時も片時も気を抜かぬ様に有るべきだ。その上、話しまたは、物を言われたときは、転ばされるものかと思って、自分の胸と合わない事ならば、その趣を伝えると思って取り合うべきだ。差たる事でなくても、少しの事で道理から外れてしまうものだ。気を付けるべきだ。また、かねてから如何なものかと思う人には近寄らないのが良い。なんとしても転ぜられ、引き入れられるものだ。ここが確かにするには、功を積まねばならない。

聞書第一 〇〇八七〜無實の切腹仰付けられても、一人勇み進むこそ御譜代の家來

原文

一、何某事數年の精勤にて、我人一廉御褒美仰付けらるべしと存じ居り候處、御用手紙參り、諸人前方より祝儀を述べ候。然る處、役米加増仰付けられ候に付て、皆人案外の儀と存じ候。然れども仰付けの事に候故悦び申し候へば、何某以っての外貌振り悪しく、「面目無き仕合せに御座候。畢竟御用に相立たざる者に候故、斯くの如き行掛り、是非御斷り申し候て引取り申すべし。」などと申し候を、入魂の衆色々申し宥め候て、相勤め申し候。これ偏へに奉公の覺悟これなく、唯我が身自慢の故にて候。御褒美の事は扨置き、侍を足輕に召成され、何の料も是なきを切腹仰付けられ候時、一入勇み進み候こそ御譜代の御家來にて候。面目無きなどと申すは、皆私にて候。此所にて篤と落着くべき事也。但し曲者の一通りは別にあるべき事也。

現代語訳

一、何某数年前に真面目に仕事に励んでいたので、自他ともに一廉のご褒美を仰せ付けられると思っていた所、御用手紙がきたので、皆で早くも祝儀を述べた。ところが、役米の増加を仰せ付けられただけだったので誰もが意外に思った。それでも仰せ付けられた事なので喜んでいた所、何某はひどく悪い顔つきになって、「面目ない事だ。結局は御用に立たない者であるから、この様な事になってしまい、是非にお役を断って引退する。」などと言うのを、親しい衆が色々言って宥めて、勤めを続けた。これは偏に奉公の覚悟が無く、ただわが身の自慢をしているからだ。ご褒美の事はさて置き、侍を足軽に召しなされても、何の罪も無いのに切腹を仰せ付けられても、ひとしお勇み進んでこそ御譜代の御家来である。面目なきなどと言うのは、皆、私事だ。ここは、とくと落ち着くべきところだ。ただし、剛の者のやり方は、別にある。

聞書第一 〇〇八八〜藝ある者は鍋島侍ではない、藝能の害を知れば諸藝も用に立つ

原文

一、藝は身を助くると云ふは、他方の侍の事也。御當家の侍は、藝は身を亡す也。何にても一藝これある者は藝者也、侍にあらず。何某は侍也といはるゝ様に心掛くべき事也。少しにても藝能あるは、侍の害になる事を得心したる時、諸藝共に用に立つ也。この當り心得べき事也。

現代語訳

一、芸は身を助けると言うのは、よその侍の事だ。御当家の侍は、芸は身を滅ぼす。何でも一芸ある者は芸者であり、侍ではない。何某は侍だと言われる様に心掛けるべきだ。少しでも芸能がある事は、侍の害になる事を心得た時、諸芸共に役に立つ。このあたりは心得るべき事だ。

聞書第一 〇〇八九〜風體は鏡を見て直せ、口上の稽古は家庭の物言、手紙は案文

原文

一、風體の修行は、不斷鏡を見て直したるがよし。之は秘蔵の事也。諸人鏡をよく見ぬゆゑ、風體わろし。口上の稽古は宿元にての物言にて直す事也。文段の修行は一行の手紙も案文する迄也。右いづれも閑かに強みあるがよき也。又手紙は向様にて掛物になると思へと、梁山上方にて承り候由。

現代語訳

一、風体の修業は、不断鏡を見直すのが良い。これは秘蔵の事だ。皆は鏡をよく見ないので、風体が悪い。口上の稽古は宿元での物言いで直す事だ。文段の修業は一行の手紙も案文するだけだ。右に挙げたのはいずれも静かに強みがあるのが良い。また、手紙は相手様の家で掛け軸になると思えと、梁山が上方で聞いてきたとの事。

聞書第一 〇〇九〇〜過つて改むるに憚るなかれ、猶豫なく改むれば誤忽ち滅す

原文

一、「過つて改むるに憚る事なかれ。」といへり。少しも猶豫なく改むれば、誤忽ち滅する也。誤を紛らかさんなどとする時は、猶々見苦しく、くるしみあり。禁句などを言出したる時、手取早に其の趣をいへば、禁句少しも残らず、心屈せざるなり。若し又咎むる人ならば、「誤つて申し出で候故、その謂はれを申し披き候に、御聞分無くば力に及ばず候。存じ當らず候て申し候へば、御聞き無き同然にて候。誰が上をも沙汰は致す事に候。」と云ひて覺悟すべし。さてこそ、人ごと隠し事、ふつと云ふべからず。又一座をはかりて、一言も云ふべき事也。

現代語訳

一、「過ちを改める事は憚らない様に。」と言われている。少しも猶予なく改めれば、誤りはたちまち無くなる。誤りを誤魔化そうとすれば、なお見苦しく、苦しむことになる。禁句などを言い出したる時、手っ取り早くその事を言えば、禁句は少しも遺恨を残さず、心がくじけることは無い。もしまた咎める人がいたら、「誤って申し出たことなので、その旨を説明致したが、お聞き入れ頂けないなら力及ばずだ。知らずに申した事であり、お聞きでなかったも同然である。誰かが上へ諮って沙汰がある事でしょう。」と言って覚悟するべきだ。さて、他人事、隠し事、ふと言ってはいけない。また、一座を図ってから、一言も言うべき事だ。

聞書第一 〇〇九一〜手跡も堅くならぬやうに、此の上に格を離れた姿がある

原文

一、手跡の行儀正しく、疎略なきより上は有るまじけれども、其の分にては、堅くれ賤しく見ゆるなり。此の上に、格を離れたる姿有るべし。諸事に此の理有るべし。

現代語訳

一、振る舞いが行儀正しく、疎略が無いに越した事は無いが、それだけでは、堅苦しく卑しく見える。此の上に、格を離れた姿がある。あらゆる事に、この理がある。

聞書第一 〇〇九二〜奉公人の打留は浪人か切腹に極りたると覺悟せよ

原文

一、何某申し候は、「浪人などと云ふは難儀千萬此の上なき様に皆人思うて、其期には殊の外しほがれ草臥るゝ事なり。浪人して後は左程にはなきものなり。前方思うたるとは違ふ也。今一度浪人仕度し。」と云ふ。尤もの事也。死の道も、平生に死に習うては、心安く死ぬべき事也。災難は前方了簡したる程には無きものなるを、先を量つて苦しむは愚かなる事也。奉公人の打留は浪人切腹に極りたると、兼ねて覺悟すべき也。

現代語訳

一、何某が言う事には、「浪人などと言うのは難儀千万である事この上ない様に皆思っていて、そうなった時には、ことのほか落ち込んでくたびれてしまう。浪人してから後は、さほどでも無い。前もって考えていたのとは違う。今一度浪人したいものだ。」と言う。もっともな事だ。死の道も、普段から死んだつもりになっていれば、安心して死ぬことだろう。災難は前もって考えているほどでは無いもので、先を量って苦しむのは愚かな事だ。奉公人の終わりは浪人、切腹に極まると、兼ねてより覚悟するべきである。

聞書第一 〇〇九三〜役儀を危ぶむ者はすくたれ、身に備えれば仕損ずる事もある

原文

一、役儀を危なきと思ふは、すくたれ者也。其の事に備りたる身なれば、其の事にて仕損ずるは定まりたること也。外の事私の事にて仕損ずるこそ辱にてもあるべし。不調法にて何と相勉むべきやとの心遣は、あるべき事也。

現代語訳

一、御役目を危ないと思う者は、汚い者だ。その事に備えていたら、その事にで失敗するのは定めである。他の事、私の事で失敗することこそ、恥であるだろう。備えの無い者にどうして勤める事が出来るものかという心の使い方をするべきである。

聞書第一 〇〇九四〜人の病気や難儀の時大方にする者は腰抜、不仕合せには一層親切に

原文

一、「人の心を見んと思はゞ煩へ。」と云ふことあり。日頃は心安く寄合ひ、病氣又は難儀の時大方にする者は腰抜け也。全ての人の不仕合せの時別けて立入り、見舞附届仕るべき也。恩を受け候人には、一生の内疎遠にあるまじき也。斯様の事にて、人の心入は見ゆるもの也。多分我が難儀の時は人を賴み、後には思ひも出さぬ人多し。

現代語訳

一、「人の心を見ようと思うのならば、病気を患え。」と言う諺がある。日頃は親しく付き合い、病気や、問題が起こった時にいい加減な事をするのは腰抜けだ。全ての人が不幸せの時に特に立ち入って、見舞うべきだ。恩を受けた人には一生、疎遠にしてはならない。この様な事で、人の心入れは見えるものだ。多くには、自分が問題を抱えた時は人を頼り、その後で思い出しもしない人が多い。

聞書第一 〇〇九五〜盛衰は天然の事、善悪は人の道、されど教訓は此の外

原文

一、盛衰を以って、人の善悪は、沙汰されぬ事也。盛衰は天然の事也。善悪は人の道也。されど、教訓の爲には、盛衰を以って云ふ也。

現代語訳

一、盛衰で人の善悪は判断されない。盛衰は天然の事だ。善悪は人の道だ。しかし、教訓の為に、盛衰をもって言うのだ。

聞書第一 〇〇九六〜山本前神右衛門、不行跡の召使をも歳暮まで暇を出さずに使ふ

原文

一、山本前神右衛門、召使の者不行跡の者もあれば、一年の内、何となく召使ひ、暮れになりてより、無事に暇を呉れ申し候。

現代語訳

一、山本前神右衛門は、召使いの者で行いの良く無い者がいた場合、一年の内は何事もなく召使い、暮れになってから、穏便に首にした。

聞書第一 〇〇九七〜鍋島次郎右衛門切腹に四段の意見、先ず外聞が第一

原文

一、鍋島次郎右衛門切腹の時、何某へ四段の意見有り。御仕置の中に、世上の聞こえ憚らずしては却つて御悪名に成る事あり。最初此の沙汰ありとも、取立てられざる筈也。次に究めの節、僞り候はゞ其の分にて差置かるゝ筈也。其の次に咎の詮議の時、先祖の功、先年公儀へ四郎が旗御覧成され候儀申し達し、差留むるべき事也。其の次に右の絛々成り難くば、御同意申上げらるべき事也。

現代語訳

一、鍋島次郎右衛門切腹の時、何某へ四段の意見があった。御仕置の中に、憚らずに世間に広まればかえって悪名となってしまう事があった。最初に、此の沙汰があっても取り立てないはずだった。次に取り調べで偽ってもそのまま差し置かれるはずだった。その次に、罰の詮議の時に、先祖の手柄、去年公儀へ四朗の旗を御目にかけたことを伝え、差し止めるべきだった。其の次に、右に上げた事が出来なかった場合、同意申し上げるべきであった。

聞書第一 〇〇九八〜侍の一言金鐵よりも堅い、と諸岡彦右衛門、主君に神文を拒む

原文

一、諸岡彦右衛門用事これある由にて、召寄せ申聞けられ候一通りの事、神文と申され候へども、「侍の一言金鐵より堅く候。自身決定の上は、佛神も及ばるまじ。」と申し候て、相止め候事。廿六歳の事也。(辨財公事の極意の事。)

現代語訳

一、諸岡彦右衛門が用事があるとの事で、呼び出されて聞きだされた一通りの事を、神文(神に誓い、無い様に偽りがあれば罰せられる文書)とせよと申されたが、「侍の一言は金や鉄よりも堅い物です。自身が決めた上は、神仏も及びません。」と申して、取りやめとなった。二十六歳の時の事である。(弁財公事の極意の時の事)

聞書第一 〇〇九九〜中野將監切腹介錯の時、御目付石井三郎太夫見事の仕儀

原文

一、將監介錯一通りの事。御目付鍋島十太夫、石井三郎太夫也。三郎太夫、「見届け申し候。」と詞をかけ、屏風引廻し候由。

一、同人午前へ罷出で候節、將監事に付御尋の義御請け申上げ候事。

現代語訳

一、將監介錯の時の事。御目付は鍋島十太夫、石井三郎太夫だった。三郎太夫、「見届けた。」と言葉をかけて、屏風を引廻したとの事。

一、同人、御前へ出た時、將監の件についてお尋ねの事があったので、御答え申上げた。

聞書第一 〇一〇〇〜山村造酒切腹一通りの事、預り物御改 番付其の外

原文

一、造酒切腹に付て一通りの事。八助殿附き兩人仔細の事。預り物御改の時、數馬へ申し達し候事。番附け時一言申し達し、内に入れ候事。女房病氣に付醫師呼び候一通りの事。申し様聞合せの事。

現代語訳

一、造酒の切腹について。八助殿付きとの両人のいきさつの事。預かりもの改めの時、数馬へ申し達したこと。番をしていた時、一言言われて中に入れたとの事。女房が病気なので医者を呼んだ一通りの事。言い様を聞き合わせた事。

聞書第一 〇一〇一〜お抱者には心得が要る、御譜代の者は主君の御爲を思ふ

原文

一、お抱者には心得あるべき事也。器量を顯はし、御用に立ち、名を揚げ、子孫の爲になる事をするもの也。子孫にも多分此の風移るもの也。御譜代の者は、科は我が身に引き受け、主君の御爲になり候様にと思ふ所あり。何某三家出入の時の諫言の様なる事也。

現代語訳

一、お抱え者には心得得るべき事がある。器量を表し、御用に立ち、名を上げ、子孫の為になる事をするものだ。子孫にも多分にこの風が受け継がれていく。譜代の者は、罪は自分の身に引き受け、主君の為になろうと思う所がある。何某が御三家出入りの時に諫言した様な事だ。

聞書第一 〇一〇二〜何事にも願ひさへすれば願ひ出すもの、松茸も檜も願力

原文

一、一鼎の話に、何事も願いさへすれば、願ひ出すもの也。御國に、昔は松茸と云ふものなし。上方にて見候共、御國内の山に出來候へと願ひ候が、今は北山に願ひ出し、いか程も出來たり。以後は御國の山に檜出來申すべく候。これ我が未來記なり。諸人願ひ候故也。然れば人々願ふ事有るべき事也。

現代語訳

一、一鼎の話に、「何事も願いさえすれば、叶うものだ。故郷には、昔は松茸という物は無かった。上方で見たことはあったが、故郷の山に出来ますようにと願ったところ、今は北山に願いが叶って、たくさん出た。将来は故郷の山に檜が出来るだろう。これは私の未来記だ、みんなそのように願っているからだ。そうであれば、すなわち人々が願う事は叶うだろう。」との事。

聞書第一 〇一〇三〜人相を見るは大將の専要、正成湊川一巻の書は眼ばかり

原文

一、人相を見るは大將の専要也。正成湊川にて正行に相渡し候一巻の書には、眼ばかり書きたりと云ひ傳へたり。人相に大秘事これある也。口傳。

現代語訳

一、人相を見るのは、大将の大事な役目だ。楠正成は湊川にて正行に渡した一巻の書物には、眼ばかり書かれていたと言い伝えられている。人相には大いに秘事があるのだ。口伝。

聞書第一 〇一〇四〜物に迷ふな、天變地異に迷ふ心から自然悪事も出來て來る

原文

一、常に無き事あれば怪事と云ひて、何事の前表かと云ふは愚かなる事也。日月重出、箒星、旗雲、光物、六月の雪、師走の雷などは、五十年百年間に有る事也。陰陽運行にて出現する也。日の東より出で、西に入るも、常に無き事ならば、怪事と云ふべし。是に替はる事なし。また天變これある時、世上に必ず悪事出來る事は、旗雲見ては何事ぞ有るべしと、人々我と心に怪事を生じ悪事を待つ故に、其の心より悪事出來する也。

現代語訳

一、珍しい事があれば怪事と言い、何事かの前触れかと言うのは愚かな事だ。月日が重なる事、箒星、旗雲、光物、六月の雪、師走の雷などは、五十年、百年間では起こる事だ。陰陽運行にて出現するのだ。日が東から出て、西に入るのも、珍しいならば怪事と言えばいい。違いなどない。また、天に異変がある時、世の中に必ず悪事が起こることは、旗雲をみては何かあるだろうと、人々が自分と心に怪事を生じて悪事を持つので、その心から悪事ができるのだ。

聞書第一 〇一〇五〜張良と黄石公、源義經の故事も兵法一流を創めるため

原文

一、張良が石公の書を傳へたる云ひ、義經は天狗の傳を繼ぐなどと云ふは、兵法一流建立の爲也。

現代語訳

一、張良が石公の書を伝えたと言い、義経が天狗の技を伝授されたなどと言うのは、一流の兵法を建立する為だ。

聞書第一 〇一〇六〜御仕組二番立には不承服、それが不届なら切腹も幸

原文

一、御側長崎御仕組に、一とせ二番立に割附け、御帳出來候を見候に付て、役人へ申し候は、「陣立の時分、殿の御供仕らざる儀、拙者は罷成らず候。弓矢八幡、觸状帳面に判仕らず候間、左様に心得申さるべく候。これは書物役仕る故にて候はんと存じ候。斯様に申す儀不届と候て、役を差迦がるゝは本望、切腹幸にて候。」と申捨て罷立ち候。その後詮議にて仕直し申され候。若き内、力これなく候ては罷り成らず候。心得有る事の由。

現代語訳

一、御側役長崎仕組が、一年ごとに二交代に割り当てられ、帳簿が出来たのをみて、役人へ申したのは、「陣立ての時、殿のお供が出来ない件は、拙者は受け入れられない。弓矢八幡に誓って、御触れ状に判を押さないので、そのように心得るように。これは書物役に付いているからだろうと思うが、この様に申されるのは不届きであり、役をはずされるのは本望、切腹は幸いである。」と言い捨てて去って行った。その後、詮議にて考え直された。若い内は、力が無くては大成しないと、心得るべきだとの事。

聞書第一 〇一〇七〜山本常朝、利發の顔附を直す爲一年間引籠り、常に鏡を見て直す

原文

一、風體の修業は、不斷鏡を見て直たるがよし。十三歳の時、髪を御立てさせなされ候に付て、一年計り引入り居り候。一門共兼々申し候は、「利發なる面にて候間、頓て仕損じ申すべく候。殿様別けて御嫌ひなさるゝが、利發めき候者にて候。」と申し候に付て、この節顔附仕直し申すべしと存じ立ち、不斷鏡にて仕直し、一年過ぎて出で候へば、虚勞下地と皆申し候。これが奉公の基かと存じ候。利發を面に出す者は、諸人請取り申さず候。ゆりすわりて、しかとしたる所なくては、風體宜しからざるなり。やうやうしく、にがみありて、調子靜なるがよし。

現代語訳

一、風体の修業は、普段鏡を見て直すのが良い。十三歳の時、髪を立てなさるに付き、一年間引籠った。一門の者は兼ねてから言っていたのは、「利発そうな顔なので、やがて失敗するだろう。殿様が特に御嫌いになるのが、利発そうな者だ。」と言うので、これを機に顔付きを直そうと思い立ち、普段からかが見て直し、一年過ぎて外に出たところ、披露し病気でもしたのかと皆に言われた。これが奉公の基かと感じた。利発な事を顔に出す者は、皆受け入れない。ゆり据わって、しっかりとした所が無くては、風体が良くない。ゆっくりと、苦みがあって、静かな調子なのが良い。

聞書第一 〇一〇八〜火急の場合に分別の仕様は四請願に押當てゝ見ること

原文

一、火急の場にて、人に相談もならざる時、分別の仕様は、四請願に押當て見れば、其の儘わかる也。立越えたる事は、いらぬ也。

現代語訳

一、緊急の場において、人に相談する事が出来ない時、判断の仕方は、四請願に当て嵌めて見れば、そのまま分かる。それ以上の事は、要らない。

聞書第一 〇一〇九〜目付役は上に目を付けよ、下々の悪事摘發は却つて害になる

原文

一、目付役は、大意の心得なくば害になるべき也。目付を仰付け置かれ候は、御國御治めなさるべきためにて候。殿様御一人にて端々まで御見聞相叶はせられざるに付、殿様の御身持御家老の邪正御仕置の善悪世上の唱へ下々の苦樂を分明に聞召され、御政道を御糺しなさるべき爲也。上に目を付くるが本意也。然るに、下々の悪事を見出し聞出し、言上致す時、悪事たえず、却って害になる也。下々に直なる者稀也。下々の悪事は御國家の害にはあらぬもの也。又究役は、科人の言分立ちて、助かる様にと思ひて、究むべき事也。これも畢竟御爲也。

現代語訳

一、目付役は、大意の心得が無ければ害にるだろう。目付を仰せ付けられるのは、お国を治めなさる為である。殿様お一人にて隅々まで見聞きなされるのは叶わないので、殿様の御身持ち、御家老中の正邪、御仕置の善悪、世の中の世論、下々の苦楽を克明にお聞きになり、御政道をお正しなさる為である。上に目を付けるのが本来の意味である。然るに、下々の悪事を見つけ聞きつけ、言上致すのは却って害になる。下々に実直な者は稀である。下々の悪事はお国の害にはならない。また、究め役は、罪人の言い分を聞いて、助かる様にと思って、見究めるべきだ。これも結局は主君の為である。

聞書第一 〇一一〇〜諌言は外に知れぬ様に、主人の非を顯す諫言はわるい

原文

一、主人に諫言をするに色々あるべし。志の諫言は脇に知れぬ様にする也。御氣にさかはぬ様にして御癖を直し申すもの也。細川賴之が忠義など也。昔、御道中にて、脇寄遊ばさるべくと仰出され候節、御年寄何某承り、「某一命を捨てゝ申上ぐべく候。段々御延引の上に脇寄など遊ばされ候事、以ての外然るべかざる候。」と、諸人に向ひ、「御暇乞仕り候。」と詞を渡し、行水、白帷子下着にて午前へ罷出でられ候が、追附退出、又諸人に向ひ、「拙者申上げ候儀聞召分けられ本望至極、皆様へ二度目に懸り候儀、不思議の仕合せ。」など廣言申され候。これ皆主人の非を顯し、我が忠を揚げ。威勢を立つる仕事なり。多分他國者にこれある也。

現代語訳

一、主人に諫言をするときには色々やり方がある。志のある諫言は他の者には知られぬ様にする。お気に触らぬ様にしてお癖を直して差し上げるものだ。細川頼之の忠義などだ。昔、ご道中にて寄り道遊ばされたいと仰せ出された時、年寄りの何某が承って、「それがしの一命を捨てて申上げます。ますます予定より遅れております上に寄り道など遊ばされるのはもっての外でございます。」と言て、諸人に言い、「お暇を頂く。」と言葉わたし、行水し、白帷子下着にて御前へ出られたが、その後退出し、諸人に向かって、「拙者が申上げた件がお聞き入れられ、本望なことこの上ない。皆様へ二度お目に懸れて、不思議な幸せだ。」などと広言された。これは皆、主人の非を表に晒し、自分の忠を上げ、威勢を立てる仕事だ。多くの場合、他国の者にある事だ。

聞書第一 〇一一一〜勘定者はすくたるゝもの、死ぬ事を好かぬ故すくたるゝもの

原文

一、勘定者はすくたるゝ者也。仔細は、勘定の損得の考するものなれば、常に損得の心絶えざる也。死は損、生は得なれば、死ぬる事を好かぬ故、すくたるゝもの也。又學問者は才智辯口にて、本體の臆病欲心などを仕かくすもの也。人の見誤る所也。

現代語訳

一、勘定者はきたない者だ。その理由は、勘定は損得を考えるものであり。常に損得を考える心が絶えない。死は損、生は得と考えるので、死ぬことを好まなので、穢いのだ。また、学問者は、才智や弁口で、本当は持っている臆病や欲心などを隠している。人が間違いやすい所だ。

聞書第一 〇一一二〜追腹御停止は残念、御慈悲過ぎては奉公人の爲にならぬ

原文

一、追腹御停止になりてより、殿の御味方する御家來なき也。幼少にも家督相立てられ候に付て奉公に勵みなし。小々姓相止み候に付て、侍の風俗あしくなりたり。餘り御慈悲過ぎ候て、奉公人の爲にならず候。今からにても、小々姓は仰付けられたき事也。十五、六にて前髪取り候故、引嗜む事を知らず、呑喰ひ、わる雜談ばかりにて、禁忌の詞、風俗の吟味もせず、隙をもつて徒ら事に染入り、能き奉公人出來ざる也。小々姓勤め候ひし者、幼小の時より諸役見習ひ、御用に立つべし。副島八右衛門四十二歳、鍋島勘兵衛四十歳にて元服也。

現代語訳

一、殉死が禁止になってから、殿の味方をする家来がいなくなった。幼少でも家督を継ぐ事が出来るので奉公に励まない。小々姓を廃止したので、侍の風俗が悪くなってしまった。あまりにお慈悲が深すぎて、かえって奉公人の為にならない。今からでも、小々姓を再開していただきたい。十五、六でも前髪を取るので、謙虚になる事を知らず、吞み喰い、悪い雑談ばかりをして、禁忌の言葉や、風俗の吟味もせず、隙を見ては悪戯に染まり、良い奉公人が出来てこない。小々姓を勤めていた者は、幼少の時から、諸役を見習って、役に立つだろう。副島八右衛門は四十二歳、鍋島勘兵衛は四十歳にて元服した。

聞書第一 〇一一三〜武士道は死狂ひ、分別が出來ると早後れる、忠孝も此の内

原文

一、「武士道は死狂ひなり、一人の殺害を數十人して仕かぬるもの。」と、直茂公仰せられ候。本氣にては大業はならず、氣違ひになりて死狂ひするまで也。又武士道に於て分別出來れば、早後るゝ也。忠も孝も入らず、武道に於ては死狂ひ也。この内に忠孝は自ら籠るべし。

現代語訳

一、「武士道は死狂いであり、そのような者一人の殺害は数十人をもってしても仕かねるものだ。」と直茂公は仰せられた。本気になっても大業を為すことはできないので、気違いになって死狂いするだけだ、また、武士道に於いて、分別できる状態では後れを取ってしまう。忠も孝も関係なく、武道に於いては死狂いだ。その内側に、忠孝は内包されるのである。

聞書第一 〇一一四〜志田吉之介が言葉の裏「残らぬ場なら生きたががまし」

原文

一、この事、この中も承り候。この度の御話此くの如し。志田吉之助が、「生きても死にても残らぬ場ならば生きたがまし。」と申し候は、裏を云ひたるもの也。又、「行かうか行くまいかと思ふ所へは、行かぬがよし。」と。この追加に、「喰はうか喰ふまいかと思ふ物は喰はぬがよし、死なうか死ぬまいかと思ふ時は、死んだがよし。」

現代語訳

一、この事は、すでに伺った。今回の御話はこのような物であった。志田吉之助が。「生きても死んでも後に残らないのなら生きた方がましだ。」と言ったのは、この裏を言ったのだ。また、「行こうか行くまいかと迷う所には、行かないのが良い。」と言った。この追加は以下のように続く、「喰うか食うまいかと迷う物は、食わないのが良く、死のうか死ぬまいかと迷った時は、死んだ方が良い。」

聞書第一 〇一一五〜大難大變に逢うて動轉せぬはいまだし、歡喜踊躍して勇み進め

原文

一、大難大變に逢うても動轉せぬといふは、まだしきなり。大變に逢うては歡喜踊躍して勇み進むべき也。一關越えたる所なり。「水增されば船高し。」といふが如し。村岡氏御改め前意見の事。口達。

現代語訳

一、大きな困難や、大変な事にあっても動転しないと言うのは、まだまだ普通だ。大変な事に出会っては歓び踊って勇進むべきだ。ひと開き越えた境地だ。「水かさが増せば船が高い。」と言うようなものだ。村岡氏が御改めなさる前の意見との事。口達。

聞書第一 〇一一六〜名人も人我も人、何しに劣るべきかと打向へば道に入る

原文

一、「名人の上を見聞きて、及ばぬ事と思ふは、ふがひなきこと也。名人も人也、我も人也、何しに劣るべきと思ひて、一度打向へば、最早其の道に入りたる也。十有五にして學に志すところが即ち聖人也。後に修業して聖人に成り給ふにはあらず。」と、一鼎申され候。初發心時辨成生覺ともこれある也。

現代語訳

一、「名人の様子を見聞きして、とてもかなわないと思うのは、ふかい無い事だ。名人も人、我も人だ。何で劣らなければいけないのかと思って、一度立ち向かえば、最早その道に入っている。十有五にて学ぼうと志すことが、すなわち聖人である。あとで修業して聖人に成ったのではない。」と、一鼎は申された。初発心時弁正覚とも言われている。

聞書第一 〇一一七〜武士は後れになることを嫌へ、假初にも臆病な事をいふな

原文

一、武士は萬事に心を附け、少しにても後れになる事を嫌ふべき也。就中物言ひに不吟味なれば、「我は臆病也。其の時は迯げ申すべし、おそろしき、痛い。」などといふことあり。ざれにも、たはぶれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。心ある者の聞いては、心の奥推しはかるもの也。豫て吟味して置くべき事也。

現代語訳

一、武士はあらゆる事に気を付け、少しでも後れを取る事を嫌うべきだ。とくに物言いに不吟味であれば、「私は臆病だ。その時には逃げるだろう、おそろしい、痛い。」などと言う事がある。ふざけてでも、戯れにも、寝言にtも、たわ言にも、言ってはいけない言葉だ。心ある者は聞けば心の奥を推し量るものだ。あらかじめ吟味しておくべき事だ。

聞書第一 〇一一八〜何より一言が大事、かねての物言で人の心が知られる

原文

一、一分の武邊を確と我が心に極め置き、疑ひなき様に覺悟すれば、自然の時一番に選び出さるゝ事必定也。これは折節の仕方物言にて顯るゝもの也。別けて一言が大事也。我が心を披露する者にてはなし。兼日にて人が知るもの也。口傳。

現代語訳

一、一分の武辺を確かに自分の心に極めて置き、疑いが無い様に覚悟すれば、自然にその時に一番よい事が必ず選び出されるものだ。これは普段からの振る舞いや言動に現れるものだ。特に一言が大事だ。自分の心を披露する者はいない。普段から人に知られているものだ。口伝。

聞書第一 〇一一九〜内外膝を崩さず、物言はねばならぬ事は十言を一言で濟ます

原文

一、奉公の心掛をする時分、内にても外にても膝を崩したる事なし。物をいはず、言はで叶はざる事は、十言を一言で濟ます様にと心掛けし也。山崎蔵人など斯くの如き也。

現代語訳

一、奉公の心掛けをするとき、内でも外でも膝を崩すことは無い。物を言わず、言わずにはいられない事は、十言を一言で済ます様にと心掛ける。山崎蔵人などはそのようにしている。

聞書第一 〇一二〇〜何ぞ人が人に劣るべきや、病死も二三日はこたへる

原文

一、首打ち落させてより、人働きはしかとするものと覺えたり、義貞大野道賢などにて知られたり。何ぞ人が人に劣るべきや。三谷如休は、「病死も二三日はこたへ申すべし。」と申し候也。口傳。

現代語訳

一、首を打ち落とされてから、一働きは確かにするものだと考えられ、新田義貞、大野道賢などで知られている。どうして人が人より劣るだろうか。三谷如休は「病死も、二、三日はこたえる。」と言った。口伝。

聞書第一 〇一二一〜分別も久しくすればねまる、武士は七息に分別せよ

原文

一、古人の詞に七息思案と云ふことあり。隆信公は、「分別も久しくすればねまる。」と仰せられ候。直茂公は、「萬事仕だるきこと十に七つ悪し。武士は物事手取早にするものぞ。」と仰せられ候由。心氣うろうろとしたるときは、分別も埒明かず。なづみなく、さわやかに、りんとしたる氣にては、七息に分別すむもの也。胸すわりて、突つ切れたる氣の位也。口傳。

現代語訳

一、古人の言葉に七息思案と言う言葉がある。隆信公は、「物事の判断も長く時間を掛ければ眠たい。」と仰せられた。直茂公は、「万事だらだらした事の十のうち、七は上手く行かない。武士は物事を手っ取り早くするものだ。」と仰せられたとの事。心気がウロウロとしている時は、判断に時間がかかって埒が明かない。すまして、さわやかに、りんとした気である時は、七息する間に判断が済む。胸を据えて、吹っ切れた気位である。口伝。

聞書第一 〇一二二〜何の能があつても人の好かぬ者は役に立たぬ、人に好かれよ

原文

一、少し理窟などを合點したる時は、頓て高慢して一ふり者と云はれては悦び、我今の世間には合わぬ生附などと云ひて。我が上あらじと思ふは、天罰あるべき也。何様の能事持ちたりとも、人の好かぬ者は役に立たず。御用に立つ事、奉公する事には好きて、随分へりくだり、朋輩の下に居るを悦ぶ人の心入れの者は、諸人嫌はぬもの也。

現代語訳

一、少し理屈などに納得した時は、やがて高慢になって、器量のある者と言われて歓び、自分は今の世の中には合わない生まれつきだなどと言って、自分より上に人はいないと思うのは、天罰が下るべき事だ。何様の才能や能力を持っていたとしても、人に好かれぬ者は役に立たない。御用に立つ事、奉公する事を好んで、随分と謙り、朋や先輩後輩の下に居る事を喜ぶ人の心意気の者は、だれも嫌わないものだ。

聞書第一 〇一二三〜諸人と懇意にするは諫言の階、我が爲にするのは追従

原文

一、諫言の道に、我其の位にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤直る様にするが大忠也。此の階の爲に諸人と懇意する所也。我が爲にすれば追従也。一方は我等荷なひ申す心入れから也。成程なるもの也。

現代語訳

一、諫言の道に、自分がその位に至っていないなら、その位の人に言わせて、御誤りが直る様にするのが大忠である。この架け橋となるために諸人と懇意にするのである。自分の為にすれば追従である。一方は自分が担うという心入れからだ。そうすれば上手く行くものだ。

聞書第一 〇一二四〜善き被官を仕立つるが忠節、人を以て御用に立つるは本望

原文

一、御家中、よき御被官出來候様に。人を仕立て候事忠節也。志ある人には指南申す也。我が持分を人を以て御用に立つるは本望の事也。

現代語訳

一、御家中で、よい御被官が出来るように。人を仕立てる事は忠節である。志ある人には指南する。自分のなすべき事を人を使って御用に立つのは本望である。

聞書第一 〇一二五〜一家一族の不仲は欲心から、主従仲悪しき事のないが證據

原文

一、隠居當住、父子、兄弟仲悪しきは、欲心よりおこる也。主従仲悪しきといふ事のなきが證據也。

現代語訳

一、隠居、当主、父子、兄弟の仲が悪いのは、欲の心から起こるのだ。主従関係で仲が悪いと言う事など無いのが証拠だ。

聞書第一 〇一二六〜若い内の立身は効がない、五十位からしあげたがよい

原文

一、若き内に立身して御用に立つは、のうぢなきもの也。五十ばかりより、そろそろ仕上げたるがよき也。其の内は諸人の目に立身遅きと思ふ程なるが、のうぢある也。又身上崩しても、志ある者は私曲の事にてこれなきゆゑ、早く直る也。

現代語訳

一、若い内に身を立てて御用に立つのは、成すべき事が出来ない。五十位から、そろそろ仕上げるのが良い。その内に諸人の目には身を立てるのが遅いと思われるだろうが、成すべき事がなせる。また、身上を崩しても、志ある者は、私利私欲の為ではないので、早く直る。

聞書第一 〇一二七〜七度浪人せねば誠の奉公人ではない、人は起上り人形の様に

原文

一、浪人などして取亂すは沙汰の限り也。勝茂公御代の衆は、「七度浪人せねば誠の奉公人にてなし。七轉び八起き。」と口附けに申し候由。成富兵庫など七度浪人の由。起上り人形の様に合點するべき也。主人も試みに仰付けられるゝ事あるべし。

現代語訳

一、浪人などをして取り乱すのは沙汰が下ったときまでだ。勝茂公の代の衆は、「七度浪人しないのは誠の奉公人ではない。七転び八起き。」と口を付いて言った。成富兵庫などは七度浪人したとの事。起上り人形の様に理解するべきだ。主人も試みで仰せ付けられることがあるだろう。

聞書第一 〇一二八〜蝮蛇は七度焼いても本體に返る、我は七生迄も御家の士に

原文

一、病氣などは氣持から重くなるもの也。我は老後に御用に立つべしとの大願ありしゆゑ、親七十歳の子にて、影ぼしの様にありしかども、一機を以て仕直し、終に病氣出ず。さて婬事を愼み、灸治も間もなく致し候なり。これにて慥に覺えあり。ひらくちは七度焼いても本體に返ると云ふ事あり。我大願有り、七生迄も御家の士に生れ出でゝ本望を遂ぐべしと、しかと思込み候也。

現代語訳

一、病気などは気持ちから重くなるものだ。私は老後に御用にたつと大願があるので、親七十歳の子で、影法師の様に体が弱かったが、一機をもって直し、終に病気を患うことは無かった。さて、性的な事を慎み、お灸も間をおかず行った。これに確かに覚えがある。まむしは七度焼いても本体に帰ると言われている。私には大願があり、七度生まれてもお家の侍に生まれ出て本望をとげるとしかと思い込んでいる。

聞書第一 〇一二九〜志ある侍は諸朋輩と懇意にする、それは自然の時一働きする爲

原文

一、直茂公御意の通り、志ある侍は諸朋輩と懇意に寄合ふ筈也。それ故、侍より足輕迄大分入魂致し置きたり。此の衆は自然の時一働き存じ立ち候が、「主人の御爲に同意あるまじきや。」と申す時、二三といはぬ所、見届け置きたり。されば、よき家來を持ちたる始也。御爲になる事也。

現代語訳

一、直茂公の御意志の通り、心ある侍は友や先輩後輩と懇意に寄り合うはずである。それゆえ、侍から足軽までだいぶんと親しくしている。この衆は自然と大事の時には一働きすると思っていたが、「主人の御為に同意してくれないか。」と言った時、二言、三言など言わずに同意する所を見届けた。これは、よき家来を持つ始めである。主君の御為になる事だ。

聞書第一 〇一三〇〜部下には平生にも言葉をよくして勵ませ、兎角一言が大事

原文

一、義經軍歌に、「大將は人に言葉を能く掛けよ。」とあり。組被官にても自然の時は申すに及ばず、平生にも、「さても能く仕たり、爰を一つ働き候へ、曲者かな。」と申し候時、身命を惜しまぬもの也。兎角一言が大事のもの也。

現代語訳

一、義経の軍歌に、「大将は人に言葉をよく掛けろ。」とある。組被官でも、大事の時は言うに及ばず、普段からも、「さてよくやった、ここをもう一つ働いてくれ、そうすれば剛の者だ。」と言われたら、身命を惜しまぬものだ。とにかく、一言が大事だ。

聞書第一 〇一三一〜一飯を分けて下人に食はすれば人は持たるゝもの

原文

一、山本神右衛門(善忠)兼々申し候は、「侍は人を持つに極り候。何程御用に立つべくと存じ候ても、一人武邊はされぬもの也。金銀は人に借りてもあるもの也、人は俄になきもの也。兼てよく、人を懇に扶持すべき也。人を持つ事は、我が口に物を食うてはならず、一飯を分けて下人に食はすれば、人は持ちたるゝもの也。それ故、『身上通りに神右衛門程人持ち候人はこれなく、神右衛門は我に増したる家來を多く持ち候。』と其の時分取沙汰也。仕立て候者に御直の侍、手明槍に罷成り候衆數多これある事に候。偖又組頭に仰付けられ候節、『組の者の儀は神右衛門氣に入り候者を新に召抱へ候様に。』と仰付けられ、御切米下され候。皆家來共にて候。勝茂公御月待遊ばされ候時分、寺井のしほゐを取りに遣はされ候。『神右衛門組の者申し付け候様に。此の者共は深みに入りて汲むべき者共。』と御意なされ候。斯様に御心附き候ては、志を勤め候では叶はざる事也。」

現代語訳

一、山本神右衛門(善忠)が、かねがね言っていたことには、「侍の極みは部下を持つ事である。どのように御用に立とうと思っても、一人では武辺は為らない。金銀は人に借りても用意できる。人は直ぐには用意できない。かねてから、良い関係を保ち助けるべきである。人を持つと言う事は、自分の口に物を食べてはならず、一食を分けて下人に食べさせれば、人は持たれるものだ。それ故、『身上通りに神右衛門ほど人を持つ人は居らず、神右衛門は自分より勝れた家来を多く持っている。』とその時分には取り沙汰された。育てた者に殿直属の侍、手明槍に成った衆などが多数いる。さてまた、組頭に仰せ付けられた時、『組の者の件は、神右衛門が気に入った者を召し抱えるように。』と仰せ付けられ、禄米を与えられた。組の者は皆、家来であった。勝茂公が御月持ち遊ばされた時分、寺井の神水を取に遣わされた。『神右衛門組の者に申し付ける様に。この者達は深見に入ってまで汲んでくるであろう者共だ。』と仰せになった。斯様な信頼を受けるのは、志を勤めなければ叶わない事だ。」

聞書第一 〇一三二〜曲者は頼もしきもの、人の落目や難儀の時、頼もしするのが曲者

原文

一、神右衛門申し候は、「曲者は頼もしきもの、頼もしきものは曲者也。年來ためし覺えあり。頼もしきといふは、首尾よき時は入らず、人の落目になり、難儀する時節、くぐり入りて頼もしするが頼もしなり。左様の人は必定曲者也。」と。

現代語訳

一、神右衛門が言ったことには、「剛の者は頼もしい者、頼もしい者は剛の者だ。今までに経験がある。頼もしいというのは首尾よく行っている時に入ってくるのではなく、人が落ち目になって、問題を抱えている時、くぐっても入ってきて世話をするのが頼もしいのだ。そのような人は決まって剛の者である。」と。

聞書第一 〇一三三〜歸参者の心構へ、見ず言はず動かずの心据わりが肝要

原文

一、何某、歸参伜初めて御目見の時申し候は、「御礼仕り候節、さてさて有難き事哉。埋れ候者が、御目見を仕り、冥加の仕合せこれに過ぎず、此の上は身命を擲ち、御用に罷立つべくと觀念有るべく候。此の一心即ち御心に観應有りて御用に立ち申す事に候。」と申し候。又、「御禮前、殿中にて目に物を見ず、口に物を言はずと合點して、すわれたる處を動かず、人の申懸け候とも、十言は一言にて濟し申すべく候。脇より見て、しつかりと見え申し候。八方を眺め口をたゝき候に付て、内の心が外にちり、うかつげに見ゆるなり。心のすわりと申すもの也。馴れ候程失念有るまじき。」と申し候也。

現代語訳

一、何某が、倅が帰参して初めての御目見えの時に倅に、「御礼を申し上げる時には、さてさて有難い事だ。埋もれていた者が御目見えを仕り、神仏の御加護の仕合せにすぎず、この上は身命を投げ打って、御用に立つようにと覚悟決めるべきである。この一心は即ち御心に観応して御用に立つ事だ。」と言った。また、「御礼前、殿中では目に物を見ず、口に者を言わずと心得て、座わったところを動かず、人に話しかけられても、十言を一言にて済ますように。そうすれば、はたから見てしっかりと見える。八方を眺め口を叩くと、心の内が外に出て、うかつな者に見える。心の座りというものだ。馴れても忘れてはならない。」と言った。

聞書第一 〇一三四〜諷刺は災いの基、口を嗜む者は用ひられ刑戮をも免かる

原文

一、少し智慧ある者は、當代を諷するもの也。災の基也。口をたしなむ者は、善世には用ひられ、悪世にはまぬかるゝもの也。

現代語訳

一、少し知恵のあるものは、当代を諷刺するものだ。災いの基になる。口を慎む者は、良い世の中では用いられ、悪い世の中では災難を免れるものだ。

聞書第一 〇一三五〜神文には深き秘事がある

原文

一、神文には深き秘事これ有り候也

現代語訳

一、神文には深い秘事がある。

聞書第一 〇一三六〜中野數馬、七度家臣の助命を諫言して終に聞入らるゝ

原文

一、ご意見申上げ候へば、一倍御こぢ遊ばされ、却つて害になり候故、御意見申上げず、御無理の事ながら畏まり罷在り候と申され候は、皆言譯也。一命を捨てゝ申上げ候へば、聞召し分けらるゝもの也。なま皮に申上げられ候故、御氣にさかひ、言出さるゝ半ばにて打ち崩され、引取る衆計り也。先年相良求馬御氣にさかひ候。御意見を強く申上げ候に付御立腹なされ、切腹と仰出され、生野織部、山崎蔵人參り候て、内意申聞けられ候へば、求馬は、「本望至極、さりながら今一事申し残し死後迄の残念に候。各々年來の御よしみに、此の事を仰上げられ下され候様に。」と申し候に付て、即ち兩人より求馬申上げ候趣、御耳に達せられ候。尚々御立腹遊ばさるゝ事に候ひつる由に候處、「求馬切腹相待ち候様に。」と仰出され、聞召し分けられ、差免され候。又中野數馬年寄の時分、羽室清左衛門 大隈五太夫 江副甚兵衛 石井源左衛門 石井八郎左衛門御意を背き候に付切腹と仰出され候。其の時綱茂公の御前に數馬罷出て、「右の者共は御助けなされ候様に。」と申上げ候。公聞召され御立腹なされ、「詮議相極め切腹申付け候に、助くべき道理これありて申す儀に候や。」と御意なされ候。數馬これを承り、「道理は御座なく候。」と申上げ候。道理これなき處に助け候様にと申す儀不届の由、御叱りなされ引取り、又罷出で、「右の者共は何卒御助けなされ候様に。」と申上げ候に付、最前の如く又々御叱りなされ候に付引取り、また罷出で、斯くの如く七度まで同じ事を申上げ候。公聞召され、「道理はこれなき處、七度迄申す事に候間、助くる時節にてあるべし。」と、忽ち思召し直され、御助けなされ候。斯様の事共數多これあり候也。

現代語訳

一、御意見を申上げれば、一層意固地になられ、かえって害になるものだ。御意見を申上げず、御無理な事なのでかしこまって居るのだと言うのは、皆いいわけだ。一命を捨てて申上げれば、聞き入れられるものだ。中途半端に申上げるから、御気に障り、申上げる半ばで打ち崩されて、引取る衆ばかりだ。先年、相良求馬が御気に障った。御意見を強く申上げるから御立腹され、切腹を仰せ付けなされた。生野織部、山崎蔵人が求馬のもとを訪ねた時、求馬は「本望至極、しかし今一事言い残しており、死後迄の残念である。各々長年のよしみでこの事を殿の御耳に入れてくだされ。」と言ったので、すぐに両人は求馬から言われた内容を、殿の御耳に届けた。ますます御立腹遊ばされるかと思われていた所、「求馬の切腹は待て。」と仰せ出だされ、聞き入れられて、許されることとなった。また、中野数馬が年寄の時分に、羽室清左衛門 大隈五太夫 江副甚兵衛 石井源左衛門 石井八郎左衛門が殿の意向に背き切腹を仰せ付けられた。その時の綱茂公の御前に数馬が現れて、「右の者共はどうかお助け下さいます様に。」と申上げた。公はそれを聞いて御立腹なされ、「詮議を極めて切腹を申し付けているのに、助ける道理があると言うのか。」と仰ったので、数馬はこれを承り、「道理は御座いません。」と申し上げた。道理がない所にお助け下さいと申し上げた件は不届きであるとして、御叱りを受けて引取ったが、またやってきて、「右の者はどうかお助け下さいます様に。」と申し上げたので、前回の如くまたまた御叱りを受けて引取ったが、又やってきて、この様に七度同じことを繰り返した。公はお聞き入れなさって、「道理がない所に、七度まで申すと言う事は、助ける頃合いであろう。」と思いなおされて、御助けなさった。この様な事は数多くある。

聞書第一 〇一三七〜我が上を人にいはせて意見を聞くのは人に超越する所以

原文

一、人に超越する所、我が上を人にいはせて意見を聞く計り也。並みの人は我が一分にて濟ます故、一段越えたる所なし。人に談合する分が一段越えたる所也。何某役所の書附けを相談申され候。我等よりは能く書き調ふる人也。添削を請わるゝが人より上也。

現代語訳

一、人より超越するためには、自分の常態を人に言わせて意見を聞くのみだ。並みの人は自分の考えのみで済ませてしまうため、一段越えた境地にたどり着かない。人に相談した分が一段越えた所だ。何某から役所の書付を相談された。我等よりよく書き調えることのできる人だ。添削を頼むから人より上なのだ。

聞書第一 〇一三八〜純一無雜、まじり物があつては道でない、奉公武邊一片になれ

原文

一、修業に於ては、これ迄成就という事はなし。成就と思ふ所、その儘道に背く也。一生の間、不足々々と思ひて、思ひ死するところ、後より見て、成就の人也。純一無雜に打成り、一片になる事は、なかなか一生に成り兼ぬべし。まじり物ありては、道にあらず。奉公武邊一片になること心がくべき也。

現代語訳

一、修業において、これで成就と言う事は無い。成就したと思う事は、その道に背く事だ。一生の間、不足していると思い続けて、思い死にれば、後の人から見て成就の人に見える。純一無雑になって、一筋になることは、なかなか一生では成り難い。混じり物があっては、道ではない。奉公武辺一筋になることを心がけるべきだ。

聞書第一 〇一三九〜物が二つになるのが悪い、武士道一つで他に求むるな

原文

一、物が二つになるが悪しきなり。武士道一つにて、他に求むることあるべからず。道の字は同じ事也。然るに、儒道、佛道、を聞きて武士道などと云ふは、道に叶はぬところ也。斯くの如く心得て諸道を聞きて、よくよく道に叶ふべし。

現代語訳

一、二つの道を同時に追い求める事は悪い事だ。武士道一つにて、他に求めてはいけない。道の字は同じことだ。然るに、儒道、仏道を聞いて武士道だなどと言うのは、道に叶わない。この様な心得で諸道を聞いて、よくよく道に叶うだろう。

聞書第一 〇一四〇〜歌の讀方は續けからテニハが大事、不斷の物言に氣を附けよ

原文

一、歌の讀方に、續けから、てにはが大事也と云へり。これを思ふに、常々の物言、心を附くべき事也。

現代語訳

一、歌の讀み方では「てには」が大事だと言われている。このことから考えると、常々の口のきき方を、気を付けるべきだ。

聞書第一 〇一四一〜「この一言が心の花」當座の一言で武勇顯る、治世の勇も詞

原文

一、武士は當座の一言が大事也。只一言にて武勇顯るゝなり。治世に勇を顯すは詞也。亂世にも一言にて剛臆見ゆると見えたり。この一言が心の花也。口にては言はれぬもの也。

現代語訳

一、武士は当座の一言が大事である。ただ一言に武勇が表れる。治世に勇を表すのは言葉だ。乱世にも一言で豪気か臆病かが見えるようだ。この一言が心のである。口では言えないものだ。

聞書第一 〇一四二〜假にも弱氣はいはぬと覺悟せよ、假初事にも心の奥が見える

原文

一、武士は假にも弱氣のことを云ふまじ、するまじと、兼々心がくべき事也。かりそめの事にて、心の奥見ゆるもの也。

現代語訳

一、武士は仮にも弱気な事を言うまい、言うまいと、かねがね心掛けるべきである。かりそめの事でも、心の奥が見えるものだ。

聞書第一 〇一四三〜何事も成らぬ事はない、一念起こると天地をも思ひほがす

原文

一、何事も成らぬといふ事なし。一念起ると、天地をも思ひほがすもの也。成らぬといふ事なし。人がかひなき故、思ひ立ち得ぬ也。力をも入れずして、天地を動かすといふも只一心の事也。

現代語訳

一、何事も達成できないことは無い。一念を起こすと、天地をもその思いで穴が開く。成らないと言うことは無い。人の力が足りない故に、思を立てることが出来ないのだ。力をもいれずして、天地を動かすと言うのも、ただ一心の事だ。

聞書第一 〇一四四〜「禮に腰折れず恐惶に筆つひえず」別隔てなく禮々しきがよい

原文

一、「禮に腰折れず恐惶に筆つひえず。」と申す事、親神右衛門常に申し候。當時の人は禮がすくなき故、うつかりとも見え、風體悪しく候。別隔てなく禮々しきがよし。又長座の時は、始と終に深く禮をして、中は座の宜しきに随ふべし。相應に禮をすると思へば不足にあるなり。近代の衆は無禮調子早になりたり。

現代語訳

一、「礼に腰は折れずかしこまっても筆はついえない」と言う事を、親である神右衛門が常に言っていた。当時の人は、礼がすくないので、うかつな風に見えて、風体も悪い。別け隔てなく礼々しくするのが良い。また、長座の時は、始めと終わりに深く礼をして、中ほどでは座の流れに従うようにする。相応な礼をしようとすれば不足してしまう。近代の衆は無礼な調子になってしまっている。

聞書第一 〇一四五〜「内は犬の皮、外は虎の皮」士は外目を嗜み内に始末せよ

原文

一、「奉公人は喰わねども空楊枝、内は犬の皮外は虎の皮。」と云ふ事、これ又神右衛門常常申し候。士は外めをたしなみ、内は費なき様にすべき也。多分逆になる也

現代語訳

一、「奉公人は喰わなくても空楊枝、内は犬の皮、外は虎の皮。」と言う事、これまた神右衛門が常々言っていた。侍は、外をたしなみ、内は節約するようにするべきだ。多くの場合は逆になってしまっている。

聞書第一 〇一四六〜藝能は上手な人は只一偏に貧著する爲で何の役にも立たぬ

原文

一、藝能に上手といわるゝ人は、馬鹿風の者也。これは、唯一偏に貧著する愚痴ゆゑ、餘念なくて上手になる也。何の役にもたゝぬもの也。

現代語訳

一、藝能が上手だと言われる人は、馬鹿っぽい者だ。これは、ただ一つの事に偏って頓着する愚かで恥かしい癖のために、余念なく上手になるからだ。何の役にも立たない。

聞書第一 〇一四七〜人に意見を頼み、我が非を知つて道を探促する者は御國の寶

原文

一、聖君賢君と申すは、諫言を聞召さるゝ計り也。その時、御家中力を出し、何事がな申し上げ、何事がな御用に立つべしと思ふゆゑ、御家治まる也。士は諸朋輩に頼もしく寄合ひ、中にも智慧有る人に我が身の上の意見を頼み、我が非を知つて一生道を探促する者は、御國の寶となる也。

現代語訳

一、聖君、賢君というのは、諫言を聞き入れられるかどうかと言う事だけだ。その時、御家中が力を出し、何事かを申上げ、何事か御用に立つべしと思うが故に、御家は治まるのだ。侍は友人、先輩、後輩に頼もしく寄り合い、中の知恵のある人に身の上の意見を頼んで、自分の非を知って一生道を探索し続けるものは、御国の宝となる。

聞書第一 〇一四八〜四十より内は強く、五十になる頃からおとなしいのがよい

原文

一、四十よりうちは強みたるがよし。五十に及ぶ頃より、おとなしく成りたるが相應也。

現代語訳

一、四十までは強がるのが良く、五十に及ぶ頃から、おとなしくなるのが相応である。

聞書第一 〇一四九〜取合ひ話は夫れ相應がよい、善い事も不相應な話は興が無い

原文

一、人に取合ひ話などするは、それぞれ相應がよき也。よき事とて、合はぬ事を云うては無興のもの也。

現代語訳

一、人と交渉するときは、それぞれ相応となるのが良い。良い事でも、釣り合わない事を言っては興がなくなる。

聞書第一 〇一五〇〜御前近き忠義の出頭人には親しくせよ、何事も皆主人の御爲

原文

一、御前近き出頭人には親しく仕るべき事也。我が爲にすれば追従也。何ぞ申上げ度き事ある時の階也。尤も其の人忠義の志なき人ならば無用也。何事も皆主人の御爲也。

現代語訳

一、御前に近い出頭人とは親しくするべきだ。自分の為にすると追従だ。何か申上げたい事がある時の為の架け橋である。尤もその人に忠義の志がなければ無用だ。何事も皆、主人の為なのだ。

聞書第一 〇一五一〜人の意見は深く請入れ、云ひやすい様にして意見させよ

原文

一、人の意見を申す時は、役に立たぬ事にても、忝しと深く請合ひ申すべき也。左様に仕らず候へば、重ねて見附け聞附けたる事をもいはぬもの也。何卒心安く意見をいひよく様に仕なして、人に云はするがよき也。

現代語訳

一、人が意見を言っている時には、役に立たないと思っても、かたじけないと思って深く請け合うべきだ。そうしなければ、次からは見つけたり聞きつけたりしたことを言ってくれなくなるものだ。なにとぞ気安く意見を言いやすいよううにしておいて、人に言わせるのが良い。

聞書第一 〇一五二〜諫言の意見の仕様は和の道、熟談でなければ用に立たぬ

原文

一、諫言の仕様が第一也。何もかも御揃ひなされ候様にと存じ候て申上げ候へば、御用ひなされず、却って害になる也。御慰みの事などは如何様に遊ばされ候ても苦しからず候。下々安穏に御座候様に、御家中の者御奉公に進み申し候様にと思召され候へば、下より御用に立ち度くと存じ候に付て、御國家治まる儀に候。これは御苦勞になり申す事にてもこれなく候と申上げ候はゞ、御得心遊ばさるべく候。諫言意見は、和の道、熟談にてなければ用に立たず、屹としたる申分などにては當り合ひになりて、安き事も直らぬもの也。

現代語訳

一、諫言はやり方が第一だ。何もかも御揃いなさるようにと思って申上げれば、聞き入れられず、かえって害になる。御慰みなどは、どの様にしても苦しくはない。下々が安寧となる様に、御家中の者、御奉公に積極的になれるようにと思し召されれば、下の者から御用に立ちたいと思う様になるので、国家が治まるということだ。これは御苦労をかける事でもないと申上げれば、ご納得いただけるであろう。諫言意見は、和の道であり、熟談をしなければ役に立たない。厳しい申し分などはぶつかり合いになって、簡単な事も治らなくなってしまうものだ。

聞書第一 〇一五三〜教訓に従ふ人は稀、道を知つた人には馴れ近づいて教訓を受けよ

原文

一、世に教訓する人は多し、教訓を悦ぶ人は少し。況して教訓に従ふ人は稀也。年三十も越えたる者は、教訓する人もなし。教訓の道ふさがりて、我が儘なる故、一生非を重ね、愚を増して、すたる也。道を知れる人には、何卒馴れ近づきて、教訓を受くべき事也。

現代語訳

一、世の中には、教訓を語りたがる人は多いが、教訓を語られて喜ぶ人は少ない。ましてや教訓に従うひとは稀だ。年が三十を超えた者には、教訓を語ってくれる人も居なくなる。教訓の道がふさがって、我が儘になるので、一生非を重ねて、愚を重ね、卑怯者になっていく。道を知る人には、何卒馴れ近づいて、教訓を受けるべきである。

聞書第一 〇一五四〜名利薄き士は多分似面非者、高慢して今日の用にはたたぬ

原文

一、名利薄き士は、多分えせものになりて人を謗り、高慢して役に立たず。名利深き者には劣る也。今日の用に立たざるなり。

現代語訳

一、手柄を立てようとする心が薄い者は、多くの場合偽物になって人を誹り、高慢になるので役には立たない。手柄を追い求めるものには劣る。今日、明日で役には立つことはない。

聞書第一 〇一五五〜大器は晩成、奉公も急ぐ心があると輕薄になつて後指さゝれる

原文

一、大器は晩成といふ事あり。二十年三十年して仕果す事にならでは、大功はなきもの也。奉公も急ぐ心ある時、我が役の外に推參し、若功者といはれ、乗氣さし、がさつに見え、出來したて功者振りをし、追従輕薄の心出來、後指さゝるゝ也。修業には骨を折り、立身する事は人より引立てらるゝものならでは、用に立たざる也。

現代語訳

一、大器は晩成と言われる。二十年、三十年して仕上げる事でなければ、大きな功績にはならない。奉公も急ぐ心がある時、自分の役目の他にも手をだし、若いが敏腕と言われて、調子に乗り、がさつに見られて、よく出来たやり手の振りをして、追従、軽薄な心が出てきて、後ろ指を指される。修業で苦労して、立身する時には人に引き立てられる者でなくては、役に立たない。

聞書第一 〇一五六〜役を手に入れ、毎日主君の御前と思うて大切に勤めよ

原文

一、一役を勤むるものは、其の役の肝要を詮議して今日ばかりと思ひ、念を入れ、主君の御前と思ひ、大切にすれば誤りなき也。役を勤めて本意を達すといふ事あり。其の役を手に入るべき事也。

現代語訳

一、一役を勤める者は、其の役の肝要なところを良く考えて、今日が全てと思って、念を入れ、主君の御前と思って、丁寧にすれば誤りがない。役を務めて本領を発揮できるようになると言う事がある。その役を手に入れるべきだ。

聞書第一 〇一五七〜氣に食わぬとて役を斷るは逆心同然、理非に構はず畏まるべし。

原文

一、不氣味なる事ありとて、役斷り、引取りなどする事は、御譜代相傳の身として、主君を後になし、逆心同然也。他國の侍は不氣味なる時、引取るをたてばにする也。仰付けとさへあらば、理非に構はず畏まり、さて氣に叶はざる事は、いつまでもいつまでも訴訟をすべし。

現代語訳

一、気に入らない事があると言って、役を断わり、引退などする事は、譜代を受け継ぐ身として、主君をないがしろにしており、逆心したも同然だ。他国の侍は気に入らないとき、引退をたてにする。仰せ付けとあれば、理非にかまわずかしこまり、気に入らない事は、いつまでもいつまでも、訴え続ける事だ。

聞書第一 〇一五八〜楠正成兵庫記に曰く「謀略にも降參はせぬもの」

原文

一、楠正成兵庫記の中に、「降參と云ふことは、謀にても君のためにても、武士のせざること也。」とあり。忠臣は斯くの如くあるべきこと也。

現代語訳

一、楠正成の兵庫記の中に、「降参と云うのは、作戦であっても、主君の貯めであっても、武士のすることではない。」とある。忠臣はこのようにあるべきだ。

聞書第一 〇一五九〜奉公人は唯奉公に好きたるがよし、心ならず仕損ずるは戰死同然

原文

一、奉公人は唯奉公にすきたるがよき也。又大役などを危き事と思ひ、引取りたがるは迯尻、すくたれ者也。其の役に指されて、心ならず仕損ずるは、虎口の討死同然也。

現代語訳

一、奉公人は、ただ奉公を好めばよい。また、大役などを危ないと思い、役に就きたがらないのは逃げ腰で、卑怯者だ。その役に指名されて、心ならずも仕損じてしまっても、それは戦死したのと同じことだ。

聞書第一 〇一六〇〜役儀を見立て好みして我が爲に勤むる者は滅亡する

原文

一、役儀を見立て好み、主君頭人の氣風をはかり、我が爲に勤むる者は、たとえ十度圖りて當るとも、一度圖りて迦したる時、滅亡して汚な崩しをする也。手前に一定したる忠心なく、私曲邪智の深きよりする事也。

現代語訳

一、役を見立てて選り好みをして、主君や頭の顔色をうかがい、自分の為に勤める者は、たとえ十回工夫して当たっても、一度の工夫で外してしまった時、滅亡して汚い崩れ方をする。前提に一定した忠義がなく、私利私欲や邪まな知恵が深いから起こる事だ。

聞書第一 〇一六一〜常に武勇の人に乗越えんと心掛け、何某に劣るまじと思へ

原文

一、一門同組に介錯捕物などと武士道にかゝりたる事ある時、我に續く者なきやうに、平生覺悟して置けば、自然の時、人の目にもかゝるもの也。常に、武勇の人に乗越えんと心掛け、何某に劣るまじきと思ひて、勇氣を修すべき也。

現代語訳

一、一門同組に、介錯や捕り物など武士道に関わりのある事が起こったとき、時分に続くものが無い様に、普段から覚悟して置けば、大事の時、人目に留まるものだ。常に武勇のある人を乗り越えようと心掛け、何某に劣るものかと思って、勇気を身に着けるべきだ。

聞書第一 〇一六二〜戰場では人に先を越させるな、死骸は敵に向くやうに

原文

一、戰場にては、人に先を越されじと思ひ、敵陣を打破り度しとのみ心掛くる時、人におくれず、心氣たけくなり、武勇を顕す由、古老申し傳へ候也。又討死したる時、敵方に死骸向きて居るやうにと覺悟すべき也。

現代語訳

一、戦場では、人にさきを越されない様にと思い、敵陣を打ち破ることだけを心がける時、人に後れを取らず、心が勇猛になり、武勇を表すと、古老も伝えている。また、討死した時は、死骸が敵方に向いているようにと覚悟すべきだ。

聞書第一 〇一六三〜諸人一和、自然の時の事を思ひ出會ふ度毎によく會釋せよ

原文

一、諸人一和して、天道に任せて居れば心安き也。一和せぬは、大義を調へても忠義にあらず、朋輩と仲悪しく、かりそめの出會にも顔出し悪しく、すね言のみ云ふは、胸量狭き愚痴より出づる也。自然の時の事を思うて、心に叶わぬ事ありとも、出會ふ度毎に會釋よく他事なく、幾度にても飽かぬ様に、心を附けて取合ふべし。又無常の世の中、今の事も知れず。人に悪しく思はれて果すは詮なき事也。但し賣僧輕薄は見苦しき也。是れは我がにする故也。又人を先に立て、爭ふ心なく礼儀を亂さず、へり下りて、我が爲の悪しくても、人の爲によき様にすれば、いつも初參會の様にて、仲悪しくなることなし。婚禮も作法も、別の道なし。終を愼む事始の如くならば、不和の儀あるべからざる也。

現代語訳

一、諸人が一和して、天道に任せていれば安心である。一和しなのは、大義を調えても忠義ではない。朋や先輩後輩と仲悪く、簡単な集まりにも付き合いが悪く、愚痴ばかり言うのは、狭量で愚かな癖から出る。大事の時の事を思って、気に入らない事があっても、出会うたびに会釈し、何回でも飽きない様に、気を付けて取り合うべきだ。また、無常の世の中、どうなるかわからない。人に悪く思われたまま、果ててしまうのはしょうがない事だ。ただし、嘘つきや軽薄なのは見苦しい。これは自分の為にするからだ。また、人を先に立てて、争う心なく礼儀を乱さず、へりくだって、自分の為には悪くても、人の為に良い様にすれば、いつも初体面の様に、仲悪くなることもなく、婚礼の作法も、同じことだ。終りを、始めのように慎むならば、不和になる事など無いだろう。

聞書第一 〇一六四〜人より一段立上りて見よ、志深き者は欺さるゝが嬉しきもの

原文

一、何事も人よりは一段立上りて見ねばならず。同じあたりにぐどつきて、がたひしと當り合ひになる故はつきりとしたる事なし。何某身上崩しの事を諸人嘲り申し候故、「苦しからざる事にて候に、不運にて残念の事。」と申し候。又、「御主人の御懇も御だましにて候故、有難くも存ぜず。」と申す人候故、「さてさて不當介の人かな、志深き者はだまさるゝが一入嬉しきものにて候。」と、申し聞け候也。

現代語訳

一、何事も人よりは一段上に立たねばならない。人と同じあたりでぐだついて、がたひしと当たり合うからはっきりとしないのだ。何某は身の上を崩した事を皆で嘲るから、「どうと言う事は無いが、運が悪く残念だった。」と言った。また、「主人が蔑ろになさるのは、欺かれたようで、有難いとは思えない。」と言うので、「さてさて、道理に合わぬ事を言う人だ、志の深い者は欺かれるのがひとしお嬉しいものだ。」と言い聞かせた。

聞書第一 〇一六五〜利發で萬事を押附ける、根本を見届ける力の人がない

原文

一、何和尚は、利發にて萬事を押附けて濟まし申され候。今、日本に手向ひ申す出家なし。替りたる事少しもなし。大根を見届くる力ある人なもの也。

現代語訳

一、何和尚は、利発さですべての物事を押し付けて済まされた。今、日本に立ち向かえる出家はいない。変わったところは少しもない。大元を見届ける力がある人なのだ。

聞書第一 〇一六六〜爲になる話を聞く人がない、一ぱいに話すと囘される

原文

一、よき人は無きものにて候。功になる話を聞く人さへなし。まして修行する人はなし。此の前より方々にて數人出會い申し候に、皆加減して話し申し候。一ぱいを話し候はばきらし申さるべく候。

現代語訳

一、よき人はいない。為になる話を聞こうと思える人さえいない。まして修行したいと思うひともいない。この前から方々で数人に出会ったが、皆加減して話している。めいいっぱい話す人は、煙たがられてしまうからだ。

聞書第一 〇一六七〜老耄は得方にするもの、山本常朝殿様十三年忌限りに禁足

原文

一、老耄は得方にするものと覺たり。氣力強き内は差引きをして隠し果すれども、衰へたる時、本體の得方が出で、耻しきもの也。色品こそかはれ、六十に及ぶ人の老耄せぬはなし。せぬと思ふところが早老耄也。一鼎は理窟老耄と覺えたり。我一人して御家は抱へとむるとて、歴々方へ老いぼれたる形にて、駆け廻り入魂を仕られ候。諸人尤もと存ずる事にて候。今思へば老耄也。我等がよき手本老氣身に覺え候に付て、御寺へも御十三年忌に限りに不參仕り、彌々禁足に極めたり。先を積らねばならぬもの也。

現代語訳

一、老耄は得意な事から進んでいくと分かった。気力が強い内は差し引きをして隠しておけるが、衰えた時は、得意な方に本音が出て恥ずかしいものだ。色品の差こそあれ、六十に及ぶ人に老耄しない人はいない。老耄しないと思っている所が、最早老耄している証しだ。一鼎は理窟老耄と分かった。自分ひとりでお家を支えると言って、それが歴々の方々と老いぼれた姿で駆け廻って親しくした。誰もが、もっともな事だと思った。しかし、今思えば老耄だ。自分たちの良い手本が衰えてしまったと判断したので、御寺へも殿の十三回忌を最後に参るのを止めさせ、いよいよ禁足を徹底した。前もって手を打たねばならない事だ。

聞書第一 〇一六八〜新義には悪事が出來る、巧者の衆は悪事の基

原文

一、新義と云ふは、よき事にても悪事出來るもの也。年後御參謹前、御側年寄など詮議にて此度將軍宣下に、御能に人多く入り申し候間、御馬廻組の手明槍侍役をさせ、兼々御見知り成さるゝ爲にもよく候とて、數人召連れ候様仕られ候。功者の衆は悪事の基と申し候が、爭論出來、御部屋附羽室大隈など五人浪人仕り候。又侍御見知り成さるゝ爲とて、究役二十人申付けられ候。それより究役の隙これ無き程に悪事多く候。

現代語訳

一、新しい法という物は、良い事でも悪い所が出てくるものだ。ある年の参勤交代前に御側年寄たちが詮議して、今回の将軍宣下で、人手が多くいると言うので、御馬廻り組の手明槍に侍の役をさせて、兼てから御見知りなされる為にもよいといって、数人召し連れなされた。功のある者達は、悪事の基だと言ったが、論争が巻き起こり、御部屋附きの羽室、大隈など五人が浪人の処分を受けた。また、侍を御見知りなさる為といって、見究め役に追加で二十人を申し付けられた。それから見究め役の暇がない程に悪事が多く起こった。

聞書第一 〇一六九〜枝葉の事が結句大事、少しの事にも振りの善悪がある

原文

一、本筋をさへ立てはづさぬ様にすれば、枝葉の中には、飛手をも案外の事をもして苦しからざる也。枝葉の事に結句大事はある也。少しの事に、ふりのよしあしある也。

現代語訳

一、本筋さえ間違えなければ、枝や葉のあたりでは、突飛な手や奇手を用いても間違いにはならない。枝葉の事に結局は大事な事はある。些細な事に、物の良し悪しは宿る。

聞書第一 〇一七〇〜四十にして惑はずとは孔子ばかりでない、賢愚共に功が入る

原文

一、龍泰寺の話に、上方にて易者申し候は、御出家方にても、四十よりうちの立身無用にて候。誤有るものにて候。四十にして惑はずと云ふは孔子の上ばかりにてはなし。賢愚共に四十になれば、たけたけ相應の功の入りて惑はぬものと也。

現代語訳

一、龍泰寺の話では、上方で易者が言うには、御出家方でも、四十より内は出世は無用であるとの事。誤りがあるものだ。四十にして惑わずと言うのは孔子の教えだけの事ではない。賢くても愚かでも四十になれば、それ相応となって惑わない物であると。

聞書第一 〇一七一〜敵を討取つたよりも、主君の爲に死んだが手柄、佐藤繼信が手本

原文

一、武邊は、敵を討取りたるよりは、主君の爲に死にたるが手柄也。繼信が忠義に知られたり。

現代語訳

一、武辺に於いては、敵を打ち取るよりも、主君の為に死ぬ方が手柄だ。佐藤繼信の忠義がよく知られている。

聞書第一 〇一七二〜一日の事を案じて見れば云ひ損ひ仕損ひの無い日は無い

原文

一、若き時分、残念記と名付けて、其の日其の日の誤を書附けて見たるに、二十、三十なき日はなし。果てもなく候故、止めたり。今にも一日の事を寝てから案じて見れば、、云ひそこなひ、仕そこなひのなき日はなし。さても成らぬもの也。利發任せにする人は、了簡におよばざること也。

現代語訳

一、若かった頃、残念記と名付けて、その日その日の過ちを書き附けてみたところ、二十、三十件ない日がなかった。きりがないので止めた。今でも一日の事を眠る前に考えてみると、言い損ない、し損ないがない日は無い。上手く行かないものだ。利発なひとにはわからぬ事だ。

聞書第一 〇一七三〜書物を讀むには腹で讀むがよい、音讀すると聲が續かぬ

原文

一、物を讀むは、腹にて讀みたるがよし。口にて讀めば聲が續かずと、式部に指南也。

現代語訳

一、物を読むときは、黙読するのが良い。口に出して読めば声が続かないと、式部に指南がある。

聞書第一 〇一七四〜順境には自慢と奢りが危險、よき時に進む者は悪しき時草臥れる

原文

一、仕合せよき時分、自慢と奢りがあぶなきなり。其の時は、日頃の一ばへつゝしまねば、追附かざる也、よき時進む者は、悪しき時草臥るゝもの也。

現代語訳

一、幸せな時は、自慢と奢りに気を付けなければならない。その時は、日頃の人一倍慎まなければ追い付かない。良いときに調子に乗る者は、悪いときにくたびれるものだ。

聞書第一 〇一七五〜忠臣は孝子の門に尋ねよ、孝行に精出す人は稀である

原文

一、忠臣は孝子の門に尋ねよとあり。隨分心を盡して孝行すべき事也。亡き後にて残り多きことあるべし。奉公に精を出す人は自然にはあれども、孝行に精出す人は稀也。忠孝と云ふは、無理なる人、無理なる親にてなくばしれ知れまじき也。よき者には他人も懇にする也。松柏は霜後に顯るゝとなり。元政法師は夜明けに魚の棚に行きて、苞を衣の内に隠し、母に進められたりとあり。案じて見ても、常態のことにてなし。

現代語訳

一、忠臣は孝行者の家を探せと言われている。随分と心を尽くして孝行すべきだ。親が亡くなった後で心残りが多い事もあるだろう。奉公に精を出す人は自然に出てくるが、孝行に精を出す人は稀だ。忠孝と言うのは、無理難題を言いつける人、無理難題を言いつける親の元でなければ分からない。よい人には他人も親しくする。松柏は霜後に表れると言う。元政法師は夜明けに魚屋へ行き、包みを衣の中に隠して、母に勧めたそうだ。考えてみても、並みの事ではない。

聞書第一 〇一七六〜物を書くにも紙と筆と思ひ合ふ様に、はなればなれになるな

原文

一、物を書くは、紙と筆と思ひ合ふ様になるが、上りたる也と、一鼎申され候。はなればなれになりたがる也。

現代語訳

一、物を書くときは、紙と筆を思った通りに合わせる事が出来るようになると、上達すると、一鼎は言った。普通は離れ離れになりたがるものだ。

聞書第一 〇一七七〜殿様の文庫から書物を出す時に、蓋を明けると丁子の香

原文

一、文庫より書物を出し給ふ。明け候へば丁子の香いたしたり。

現代語訳

一、ある時、殿が文庫から書物を取りだし遊ばされた。蓋を明けると丁子の香りがしたという。

聞書第一 〇一七八〜君父の御爲又諸人子孫の爲にするが大慈悲、慈悲は智勇の本

原文

一、大氣と云ふは、大慈悲の儀也。 神詠 慈悲の目にくしと思ふ人あらじ科のあるをばなをもあはれめ。廣く大なること限りなし。普くと云ふところ也。上古三國の聖衆を、今日まで崇め奉るも慈悲の廣く至るところ也。何事も、君父の御爲、又は諸人の爲、子孫の爲とすべし。これ大慈悲也。慈悲より出づる智勇が本の物也。慈悲の爲に罰し、慈悲の爲に働く故、強く故、強く正しきこと限りなし。我が爲にするは、狭く小さく小氣也。悪事となる也。勇智の事は、此の前得心せり。慈悲の事は、頃日篤と手に入りたり。家康公仰せに、「諸人を子の如く思ふ時、諸人また、我を親の如く思ふ故、天下泰平の基は慈悲也。」と。又寄親組子と申す事、親子の因み、一和の心を附けたる名かと思はれ候。直茂公、「理非を糺す者は、人罰に落つる也。」と仰せられ候は、慈悲よりの御箇条かと存ぜられ候。「道理の外に理あり。」と仰せられ候も慈悲なるべし。無盡なる事味はふべし。と精に入りて御話也。

現代語訳

一、大気と言うのは、大慈悲の事である。神詠に、慈悲の目にくしと思ふ人あらじ科のあるをばなをもあはれめ、と言う歌がある。広く大なること限りなし。これは全てにおいて言える事だ。古典の三国志の聖人達を、今日まで崇め奉るのも慈悲の広く至るところである。何事も、君父の御為、または諸人の為、子孫の為にしなければならない。これが大慈悲だ。慈悲より出てくる知恵や勇気が本物である。慈悲の為に罰して、慈悲の為に働くからこそ、強くなり、それ故に強く正しい事限りない。自分の為にするのは、狭く小さく小気だ。悪事となる。勇知の事は、ある時納得した。慈悲の事は、日頃から少しずつ理解した。家康公は、「諸人を自分の子の様に思う時、諸人もまた、自分の親の様に思ってくれるので、天下泰平の基は慈悲である。」と仰せになった。また寄親組子というものは、親子に因んで、一和の心で付けられた名だと思われる。直茂公が、「理非を正す者は、人罰に落ちる。」と仰せられたのは、慈悲から定められた箇条だと理解できる。「道理の外に理がある。」と仰せられたのも慈悲からだろう。尽きることがない事を思い知りなさい。と熱心にお話なされた。

聞書第一 〇一七九〜奉公人の利發なのはのだゝぬ、けれどもふうけよりはまし

原文

一、湛然和尚御申し候。奉公人の利發なるは、のだたぬもの也。されども、ふうけの、人に成りたる事はなしと。

現代語訳

一、湛然和尚が言った話。奉公人が利発なのは、出世しないだろう。しかしながら、馬鹿者になることは無い。

聞書第一 〇一八〇〜衆道の情も一生一人、武人は二道せずに武道に勵め

原文

一、式部に意見あり。若年の時、衆道にて多分一生の耻になる事あり。心得なくしては危なき也。言ひ聞かする人が無きもの也。大意を申すべし。貞女兩夫にまみえずと心得べし。情は一生一人のもの也。さなければ野郎かげまに同じく、へらはり女にひとし。是は武士の耻也。「念友のなき前髪は縁夫もたぬ女にひとし。」と西鶴が書きしは名文也。人がなぶりたがるもの也。念友は五年程試みて志を見届けたらば、此方よりも賴むべし。浮氣者は根に入らず、後は見はなすもの也。互いに命を捨つる後見なれば、よくよく性根を見届くべき也。くねる者あらば「障あり」と云うて、手強く振り切るべし。「障は」とあらば、「それは命の内に申すべしや。」と云ひ、むたいに申さば腹立て、無理ならば切り捨つべし。又男の方は、若衆の心底を見届くること前に同じ。命を擲ちて五六年はまれば、叶はぬと云ふ事なし。尤も二道すべからず。武道を勵むべし。爰にて武士道となる也。

現代語訳

一、式部に意見があった。若い時には、男色では多くの場合一生分の恥となる事がある。心得がないと危ない。言い聞かせる人はいないものだ。大筋を話そう。貞節を固く守る女性は、複数の男と交わらない物だと心得よ。愛情は一生に一人にささげるものだ。そうでなければ男娼と同じく、淫乱女と等しい。これは武士の恥だ。「兄貴分のいない元服前の若衆は、婚約者の居ない女と等しい。」と井原西鶴が書いたのは名文だ。人が馬鹿にしたがるものだ。兄貴分は五年程様子を見て志しを見届けたら、こちらから声をかける。浮気者は根気がなく、後になって見放すものだ。お互いに命を捨てる覚悟ならば、よくよう根性を見届けるべきだ。ひねくれた者ならば、「障りあり」と言って、手強く振り切るべきだ。「障りとは何だ」と聞かれれば、「それは命ある内に言う事か。」と言って、むたいに言うならば腹を立てて見せ、無理を言うなら切り捨てる。又男の方は、若衆の心底を見届ける事は前と同じ。命を擲って五、六年はまれば、叶わない事はない。もっとも、二つの道を追い求めてはいけない。武道に励むべきだ。ここに武士道となる。

聞書第一 〇一八一〜衆道の心得は「好いて好かぬもの」、命は主君に奉るもの

原文

一、星野了哲は、御國衆道の元祖也。弟子多しと雖も、皆一つづゝを傳へたり。枝吉氏は理を得られ候。江戸の御供の時、了哲暇乞に、「若衆好きの得心いかゞ。」と申し候へば枝吉答に、「すいてすかぬもの。」と申され候。了哲悦び、「其方を夫れだけになさんとて、多年骨を折りたり。」と申され候。後年、枝吉に其の心を問う人あり。枝吉孟され候は、「命を捨つるが衆道の至極也。さなければ耻になる也。然れば主に奉る命なし。それ故、好きて好かぬものと覺え候」由。

現代語訳

一、星野了哲は、御国衆道の元祖である。弟子が多いと言っても、皆に一つづつ伝授した。枝吉氏は理を会得した。江戸へ御供で出向くため、了哲へ暇を頼みに行ったとき、「衆道好きの心得とは」と聞かれたので枝吉が答えて、「好いて好かぬもの」と言った。了哲は喜んで、「その方をそれだけのものにするために、長年骨を折ったかいがあった。」と言った。後年、枝吉にその意味を問うた人がいた。枝吉は、「命を捨てるのが衆道の至極である。しかしそうすれば恥になる。主君に奉る命がなくなってしまうからだ。それ故、好いて好かぬものと考ている。」と言ったとの事。

聞書第一 〇一八二〜御小姓中島山三、百式次郎兵衛方に駆込み心底を見て契る

原文

一、中島山三殿は、政家公の御小姓也。船中にて死去、高尾竈王院に墓あり。中島甚五左衛門の先祖也。或者戀いの叶はぬを遺恨に存じ、「七つ過ぎれば、二合半戀し。」と云ふ小歌を教え申し候。御座にて諷し申され候。古今無雙の少人と譽め申し候由。勝茂公も御執心御座候由。御出仕の時分、山三殿通りがけに御膝に足さわる。則ち居さがり、御膝を押へ、御斷申上げられ候となり。或夜、百式次郎兵衛辻の堂屋敷に山三殿參られ、申し入れられ候に付て、次郎兵衛驚き駈け出で、外に出合ひ、「御前の憚り、外見共に宜しからず、則ち御歸り候様。」と申し候。山三殿申され候は、「唯今遁れぬ行懸りにて、三人切捨て、即座の切腹は残念の事に候故仔細を申上げてよりと存じ、其の間の命、御自分を見立て、御近附にてもなく候へども、御頼み致す。」と也。次郎兵衛胸をさまり、「私を人と思召し御頼み、過分至極に候。御心安く候へ。内に入り身支度も少しのおくれ、直ちに。」とこれ有り、けなりにて伴なひ、先づ筑前の方へと志し、都渡城迄、手を引いたり負うたりして、夜明けに山中に入りて隠す。其の時、「此の僞にて、御心底見届け申し候。」と、契りせられし也。其の前二年の間、次郎兵衛懈怠なく、山三殿登城の道筋の橋に通り合はせ、下城にも通り合はせ、毎日見送りしと也。

現代語訳

一、中島山三殿は、政家公の御小姓であった。船中で死去し、高尾竈王院に墓がある。中島甚五左衛門の先祖である。或る者が恋の叶わぬ事を遺恨に感じて、「七つ過ぎれば、二合半恋しい。」と言う小歌を教えた。御座にて諷した。古今無双の美少年と褒めたとの事。勝茂公も御執心であったそうだ。御出仕の時、山三殿が通りがけに殿の御膝に足が当たってしまった。すぐに下がり、御足を押え、謝罪の言葉を申上げられた。或る夜、百式次郎兵衛の、辻の堂屋敷に山三殿が参られ、申し入れなさったので、次郎兵衛は驚いて駆け出て、外に出合い、「御前に憚られる上に、よそに見られるのもよくないので、すぐにお帰りなさいます様に。」と言った。山三殿は「ただ今、逃れられない行き掛かりで、三人切り捨てたので、即座に切腹になるだろうが、心残りがあり、事の詳細を申上げてからと思い、その間の命を、貴殿を見立てて、親しいわけではないが、御頼み申す。」と言う。次郎兵衛は胸が落ち着いて、「私を見込んでの御頼みごと、過ぎたことです。御安心なさい。中に入り身支度をしている暇はない、直ちに。」と言って、普段着のまま伴って、まず筑前の方へと向かい、都渡城まで、手を引いたり負ぶったりして、夜明けに山中に入って隠れさせた。その時、「この嘘で、あなたの心底を見届けました。」といって契りを交わした。その前二年の間、次郎兵衛は怠ることなく、山三殿の登城の道筋の橋にい合わせて、下城にもい合わせ、毎日見送っていたと言う。

聞書第一 〇一八三〜石田一鼎曰く、「善き事とは一口にいへば苦痛をこらふる事」

原文

一、一鼎申され候は、「善き事をするとは何事ぞといふに、一口にいへば苦痛さこらふる事也。苦をこらへぬは皆悪しき事也。」と。

現代語訳

一、一鼎は、「善い事をするとはどういう事かと言う問いに、一口で答えれば苦痛をこらえる事である。苦をこらえないのは悪い事だ。」と言った。

聞書第一 〇一八四〜大人は詞すくなきもの、日門様返言は只「丹後守へよき様に」

原文

一、大人は詞すくなきもの也。日門様へ、一雲御使者に參られ候時、御面談にて御辺言、只「丹後守へよき様に。」とばかり仰せられ候。

現代語訳

一、大人は言葉少ないものだ。日門様へ、一雲が使者で参った時、御面談でのご答えは、ただ、「丹後守へよき様に。」とだけ仰せになった。

聞書第一 〇一八五〜四十迄は強みが第一、過ぎても強みなければ響きがない

原文

一、四十歳より内は、智慧分別をのけ、強み過ぐる程がよし。人により、身の程により、四十過ぎても、強みなければ響きなきもの也。

現代語訳

一、四十歳までは、知恵分別を差し置いて、力を入れすぎるほどが良い。人により、身の程により、四十過ぎても、力を入れなければ響かない者もいる。

聞書第一 〇一八六〜中野數馬、組衆病氣の時は御城よりの歸途毎日これを見舞ふ

原文

一、物頭などは、組衆に親切にあるべき事也。中野數馬(利明)大役にて、隙これなく候に付て、終に組衆の所へ參り候事これなく候。然れども組衆病氣か、何事ぞこれある時は、御城より歸りに。毎日見舞ひ申し候。それ故、組中思附き候也。

現代語訳

一、物頭などは、組衆に親切であるべきだ。中野数馬(利明)は大役を仰せつかって、暇がなかったので、終に組衆の所へ参る事がなかった。しかし、組衆が病気か、何事かある時は、御城からの帰りに、毎日見舞った。それ故、組中がまとまっていた。

聞書第一 〇一八七〜旅先から細々と手紙、この心入れが人より上の所

原文

一、何某、今度江戸出御一宿より、細書きを差越され候。取紛れの時分は、大方無沙汰をするものなるが、斯様に心の入りはまりたる分が、人より上の所也。

現代語訳

一、何某は、今回の江戸出御一宿から、短い手紙をよこしてきた。忙しいときは、多くの場合、無沙汰をするものだが、この様に心遣いが出来るのが、人より上である所だ。

聞書第一 〇一八八〜武士の意地は過ぐる程に、仕過すと思へば迦れがない

原文

一、古老の評判に、武士の意地を立つることは、過ぐる程にするもの也。よき加減にして置きたることは後日の評判に不足出來るもの也。仕過すと思ひてしたるとき、迦れなしと承り候。斯様の儀失念すまじきこと也。

現代語訳

一、古老の評判で、武士の意地を立てるとことは、やり過ぎる程にするものだ。よい加減にして置くことは後日の評判で不足が出来る。やり過ぎるつもりでやる時は、はずれが無い。この事は忘れてはいけない事だ。

聞書第一 〇一八九〜時機を逸するとだるみが出來る、武道は率忽に無二無三に

原文

一、打果すと、はまりたる事ある時、たとへば直に行きては仕果せがたし、遠けれども此の道を廻りて行くべしなんどと思はぬもの也。手延びになりて、心にだるみ出來る故、大かた仕届けず。或人、川上御經の内、渡船にて小姓酒狂にて船頭とからかひ、向へ上りて、小姓刀を抜き候を、船頭竿にて頭を打ち申し候。その時、あたりの船頭共、櫂を提げ駈集り、打ちひしぎ申すべしと仕り候。然るに、主人は知らぬ振りにて通られ候。小姓一人走り歸り、船頭共へ斷りを言ひ、申し宥め連れ歸り候。その晩、右酒狂者の大小を取拂ひ申され候由承り候。まづ船中にて酒狂者を呵り、船頭を宥めざるところ不足也。又無理にても頭を打たれてからは、斷りどころにてなし。斷り言ふ振りにて近寄り、相手の船頭打捨て、酒狂共も打捨つべき所也。主人はふがひなし也。

現代語訳

一、討ち果たそうと熱中していることがある時、例えば直に行ってはやり遂げるのは難しいので、遠いが回り道をして行こうなどとは思ってはいけない。延び延びになって、心にだるみが出来ため、多くの場合失敗する。ある人が、川上御経へ行く途中、渡し船で小姓達が酒を飲んで騒ぎ、船頭をからかって、向こう岸につくと小姓が刀を抜いたところを、船頭が竿で頭を殴った。その時、辺りの船頭たちが櫂をもって駈け集まって小姓を討ち取ろうとしていた。しかし、小姓の主人は知らん顔で通って行ってしまった。小姓の一人が走って戻ってきて、船頭たちへ謝罪し、言い宥めて刀を抜いた小姓を連れ帰った。その晩、酒に狂った小姓の刀を取り上げたとの旨、承った。まず、船中で酒に狂った小姓を叱り船頭を宥めなかったことが不足である。また、小姓が無理を強いたとは言え、頭を打たれては、謝る所ではない。誤るふりをして近寄り、相手の船頭を切り捨て、酒に狂った小姓も切り捨てるべき所だ。この主人はふがいない。

聞書第一 〇一九〇〜十三から六十までは出陣、それ故古人は年を隠した。

原文

一、古人の覺悟は深き事也。十三以上六十以下出陣と云ふ事あり。それ故に、古老は年をかくすといへり。

現代語訳

一、古人の覚悟は深かった。十三以上六十以下は出陣すると言われていた。それ故に、古老は年を隠したと言われている。

聞書第一 〇一九一〜側近者の様子で主君が知れる、諫言は即時、落魄者を憐め

原文

一、或人覺悟の體覺書きに、主君の身邊勤むる者は別けて身持ち覺悟愼むべきこと也。御側の者の様子を見て、主人のたけを人が積るもの也。又諫言は時を移さず申上ぐべきこと也。今は御機嫌悪し、序でになどと思うて居る内に、不圖御誤もあるべきこと也。又科人をわろく云ふは不義理の事也。仰出で濟みて後も、其の者に理を附け、少しづゝもよき様に云ひなせば、歸参も早きもの也。又仕合せよき人には、無音しても苦しからず、落ちぶれたる者には随分不憫を加へ、何とぞ立直す様に致すべきこと、侍の義理也と、これあり候也。

現代語訳

一、ある人の覚悟の覚書に、主人の身辺で勤める者は、とりわけ身持ちを覚悟し慎む事、とあった。御側の者の様子を見て、主人の人物の大きさを人は見積もるものだ。また諫言は後に回さずにすぐ申上げるべきである。今は機嫌が悪い、他の用のついでになどと思っている内に、ふと御誤りもあるかもしれない。また罪人を悪く言うのは不義理である。処分が済んだ後でも、その者をかばって、少しずつ良い様に言えば、帰参も早く叶うだろう。また、順調な人には、御無沙汰してもかまわないが、落ちぶれた者には十分に不憫に思い、何とか立て直すようにするべきであることは、侍の義理である、と書いてあった。

聞書第一 〇一九二〜清廉も眞の志からせねば初心に見える、踏張れば名を取る

原文

一、何某、今の役にて音物を受けず、其の上返したる時、據所無くして家來共が潜かに留置くも心許なしとて、時々に手形をとらせ候由。其の外、一惣取入、云入、賴事ならず、今、日の出のきけ役と、佐嘉中取沙汰の由に候。初心なる事にて候。欲深にはましなれども、眞の志にはあらず、我が身立ち候仕方也。今時、此の分する衆もなき故、沙汰をすると見えたり。少し踏張れば、名を取る事などは安きもの也。欲は内心に離れ、目立たぬ様にするが、ならぬもの也。

現代語訳

一、何某が、今の役職についてからは、贈り物を受け取らず、その上に返す時にも、やむを得ない事情で家来が留め置いてしまう事も心配して、時々受け取りの証文などを取らせた。そのほか、一切の取り入り、言い入り、頼み事を受け付けず、今では、のぼり調子の敏腕として、佐賀中で取り沙汰されている。しかし、うぶである。欲深よりはましだが、真の志ではなく、自分の身を立てるやり方だ。今時、この様な事をする者達も居ないので、取りざたされていると見える。少し踏ん張れば、名を上げる事などたやすい。欲を内心から遠ざけ、目立たないようにする事こそが、なかなかできない事だ、

聞書第一 〇一九三〜大事には身を捨てゝ懸れ、よく仕ようと思へば仕損ずる

原文

一、我が身にかゝりたる重きことは、一分の分別にて地盤をすゑ、無二無三に踏破りて、仕てのかねば、埒明かぬもの也。大事の場を人に談合しては、見限らるゝ事多く、人が有體には云はぬもの也。斯様の時が、我が分別入るもの也。兎角氣違ひと極めて、身を捨つるに片附くれば濟む也。此の節、よく仕ようと思へば、早迷ひが出來て、多分仕損ずる也。多くは味方の人の此方の爲を思ふ人より轉ぜられ、引きくさらかさるゝ事あり。出家願の時の様なる事に候也。

現代語訳

一、自分の身に降りかかる重大な事は、一つの判断で地盤を据えて、無二無三で踏み破って、やってのけなければ、埒が明かない。大事の場面で人に相談しては、見限られることが多く、人が親身には話してくれないものだ。この様な時が、自分の判断が必要な時だ。とかく気違いになる時と見究めて、身を捨てるように片を付ければ済む。この時に、上手くやろうと思えば、すぐに迷いが出て、たいていは失敗する。多くの場合には味方の人のこちらの為を思ってくれる人によって転ばされ、引き留められる事がある。出家願いを出す時の様な事だ。

聞書第一 〇一九四〜殿様を大拙に思ふ事は、我に續くものはあるまい

原文

一、當春権之承處へ、初入り致し候時、「去る暮れより出米休息にて、八月迄は隙を持ち申し候間、此の間、此の間一字一石など書き申すべし。」と申し候に付、意見申し候は、「第一隙なき時節にてこそあれ、當九月に人並に勤めに出ては本望にてなし。出米休息の内に、選びだされてこそ嬉しかるべけれ。然れば唯今が一チ隙なき時也。有無、出米の内に選び出さるべきと、粉骨相はまり候へば、其の儘叶ひ申すもの也。これは我等覺えある事也。十二歳より髪を立て候様にと仰せ付けられ引入り、十四歳迄無奉公にて居り申し候。然る處、御兩殿様御下國御行列を拜し奉り、頻りに奉公仕り度く存じ候に付、巨勢宮に參詣致し、當年五月朔日に召出され候様にと、願を懸け申し候。誠に不思議の事にて、四月晦日に、明朔日より相勤め候様にと仰付けられ候。其の後若殿様御前に罷出度く、いつそ御出での折懸合ひ申すべしと、夜晝心懸け居り申し候處、或夜若殿様御出成され候間、小々姓罷出で候様にと申し來り、早速罷出で候へば、さても早く罷出で候。外に出会ひ候者一人もなく候。よく罷出で候と、呉れ呉れ御意成され候。此の時の有難さ今に忘れず候。一念志し候へば、叶はぬと云ふ事なきもの也。」と申し候處、今度權之丞出米内に御使者仰付けられ、一家の者不思議と申す事に候。若年の頃より見罷りの拙者に候へば、御用に立つ事もなく、出頭人などを見て羨ましき時も候へども、殿様を大切に思ふ事は、我には續き申すまじと存じ出し、これ一つにて心を慰め、小身無束をも打忘れ、勤め申し候。案の如く、御卒去の時我等一人にて御外聞取りたり。

現代語訳

一、この春に権之丞の所へ、初入りした時、「去る暮れから待命休職となり、八月までは暇になったので、その間に一石に一字づつ経文を書いて過ごすだろう。」と言っていたので、意見したのは、「第一忙しい時節であっても、今年九月に人並に勤めるのは本望ではない。休職期間のうちに選び出されてこそ嬉しいはず。そうであれば、ただ今が最も忙しい時だ。うむ、休職期間の内に選びだされようと、粉骨しのめり込めば、そのまま叶うものだ。これは私に経験がある事だ。十二歳より髪を立てるようにと仰せ付けられて引き入り、十四歳まで奉公の機会がないままだった。そうしていた所、光茂公、綱茂公、両殿様の御下国の御行列の拝見いたし、奉公したいとしきりに思うようになったので、巨勢宮に参詣し、その年の五月一日に召し出されます様にと、願を懸けた。するとまことに不思議な事に、四月の最終日に、明一日より勤めるようにと仰せ付けられた。その後、若殿様の御前に出たいと、いっそのこと御出での折に掛け合ってみようと、昼も夜も心掛けていた所、ある夜、若殿様が御出で成されたときに、小姓たちは来るようにと指示があり、早速行ったところ、さても早く来たものだ。他にまだ来た者は一人もいない。よく来たなと、かえすがえす感心してくださった。その時の有難さは今でも忘れない。一念志せば、叶わない物は無い。」と言ったところ、このたび権之丞は休職期間のうちに使者を仰せ付けられ、一家の者は不思議がった。若年の頃から見てきた拙者にしてみれば、御用に立つ事もなく、出頭人などを見て羨ましいときもあったが、殿様を大切に思う事は、自分に続く者は居ないと思い、これ一つで心を慰め、小身無束もわすれて、勤め上げた。案の定、御卒去の時は自分ひとりで藩の面目を保った。

聞書第一 〇一九五〜奉公は好き過ぎて過有るが本望、忠の義のと理窟は入らぬ

原文

一、山崎蔵人の、見え過ぐる奉公人はわろしと申されたるは名言也。忠の不忠の、義の不義の、當介の不當介のと理非邪正の當りに、心の附くが嫌也。無理無體に奉公に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて濟む事也。これはよき御被官也。奉公に好き過ごし、主人を歎き過して、過あることもあるべく候へども、それが本望也。萬事は過ぎたるは悪しきと申し候へども、奉公ばかりは奉公人ならば好き過し、過あるが本望也。理の見ゆる人は、多分少しの所に滞り、一生を無駄に暮らし、残念の事也。誠に僅かの一生也。只々無二無三がよき也。二つになるが嫌也。萬事を捨てゝ、奉公三昧に極りたり。忠の義のといふ、立上がりたる理窟が返す返す嫌也。

現代語訳

一、山崎蔵人が、見え過ぎる奉公人は悪いと言ったのは名言だ。忠だの不忠だの、義だの不義だの、当介だの不当介だのと理非正邪のあたりに、気を取られるのが嫌なのだ。無理無体に奉公を好み、無二無三に主人を大切に思へば、それで済む事なのだ。これは良き被官だ。奉公を好んで過ごし、主人を憂いて過ごして、過ぎる事などもあるだろうが、それが本望だ。万事はやり過ぎは悪い事だと言うが、奉公ばかりは奉公人ならば好んで過ごし、過ぎるのが本望だ。理の見える人は、多くの場合少しの所にとどまり、一生を無駄に暮らしてしまい、残念な事だ。誠に僅かな一生である。ただただ、無二無三がよい。二つになるのが嫌なのだ。全てを捨てて、奉公三昧に極まる。忠だの義だのという、思い上がった理窟が返す返す嫌なのだ。

聞書第一 〇一九六〜先祖の善悪は子孫の請取人次第、悪事をも善くなすが孝行

原文

一、「先祖の善悪は子孫の請取人次第」と遊ばされ候。先祖の悪事を顕さず、善事に成り行く様に、子孫として仕様あるべき事也。これ孝行にて候。

現代語訳

一、「先祖の善悪は子孫の受け取り人次第」と仰られた。先祖の悪事を表に出さず、善い事になっていくように、子孫としてはやり方がある。これは孝行なのだ。

聞書第一 〇一九七〜縁組に金銀沙汰は浅ましい、理を附けては道は立たぬ

原文

一、養子縁組に金銀の沙汰ばかりにて、氏素性のわけもなくなり行き、あさましき事也。斯様の事も先ず不義ながら今日が立たぬと理を附けて、不義を行ふは重々の悪行也。理を附けては道は立たざる也。

現代語訳

一、養子縁組は金銭沙汰ばかりで、氏素性の別け隔てもなく成り行き、浅ましい事だ。この様な事もまず不義ではあるが今日の生活が成り行かないなどと言って、不義を行うのは重い悪行だ。理屈をつけては、道を立てることはできない。

聞書第一 〇一九八〜科人は不憫な者、亡き後には少しなりともよき様に云ひなせ

原文

一、或人、「何某は惜しき者、早死したる。」と申され候。「惜しき者の内にて候。」と答へ申し候。又、「世が末になりて、義理は絶え申し候。」と申され候に付、「窮すれば變ずと申し候へば、追附よくなるべき時節にて候。」と答へ申し候。斯様の越度大事也。中野將監切腹の脇、大木前兵部所にて組中參會に、將監事を様々悪口仕られ候。兵部申し候は、「人の亡き後にて悪口をせぬもの也。殊に科仰付けられ候衆は、不憫の事にて候へば、よき様に少しなりとも云ひなしてこそ侍の義理にて候へ。二十年過ぎ候はば、將監は忠臣と取沙汰有るべし。」と申され候由。誠に老功の申分にて候由。

現代語訳

一、或る人が、「何某は惜しい者だったが、早死にしてしまった。」と言った。「惜しき者のうちの一人だった。」と答えた。また、「世も末になって、義理は絶えてしまった。」と言われたので、「窮すれば変わると言うので、おいおい良くなる時節なのだ。」と答えた。この様な機転は大事だ。中野将監が切腹した場所の脇にある大木前兵部の所での組中参会にて、将監の事について様々に悪口を言われた。兵部は、「人の亡き後で悪口は言わないものだ。特に罪を仰せ付けられた衆は、不憫であり、少しでも良い様に言ってこその侍の義理であろう。二十年過ぎれば、将監は忠臣であったと取りざたされているだろう。」と言ったと事。誠に老功にふさわしい申し分である。

聞書第一 〇一九九〜御用に立ち度いといふ眞實さへ強ければ不調法者程がよい

原文

一、古川六郎左衛門申し候は、「主人をして用に立つ者をほしがらぬ主人はこれなく候。我々式さへほしく候へば大人程御大望の事に候。然る處に、何卒御用に立ち度しと思へば、其の儘一致して御用に立つもの也。我がほしきと兼々存ずるものを人が呉れ申すべしと申し候はば、飛懸り取るべき也。此のあたりを諸人氣が附き申さず、一生むだに暮すことと、老後に漸く存じ附き候。若き衆、油斷あるまじ。」と申され候。耳に留めて覺え居り候。何角の分別を止めて、唯御用に立ち度しと思ふ迄の事也。此くの如く思ふまじき事にてはなけれども、色々阻てものが有りて、打破らぬ故、あたら一生をむだに暮すは、返す返す残念の事也。我等式は何として御用に立つべきと、卑下の心にて暮らすもあり。御用に立ち度き眞實さへ強ければ、不調法者程がよき也。智慧利口などは多分害になる事あり。小身にして田舎などに居る者は、家老年寄などと云ふは、神變不思議にてもある様に、思ひのぼせて寄りも附き得ず、親しくなりて心安話などして見るに、不斷御用の事を忘れず、歎かるゝより外に替りたること少しもなし。御用の筋に、左様程奇妙の智慧は入らぬもの也。何卒、殿の御爲に、御家中、民百姓迄の爲になる事をと思ふことは、愚鈍の我々式にても濟むもの也。されども、御用に立ち度しと思ふことが、いかう成りにくきもの也。

現代語訳

一、古川六郎左衛門が言ったことには、「主人として用に立つものを欲しがらない主人は居ない。我々程度の者でさえ欲しいのだから、上の身分の方々は大望しているであろう。そうである所に、なにとぞ御用に立ちたいと思えば、そのまま一致して御用に立つものだ。自分がほしいと普段から思っているものを人がくれると言うのであれば、飛び掛かって取るべきだ。このあたりに、皆気づかず、一生を無駄に暮らすと、老後しばらくしてから悟った。若い衆は油断しない様に。」と申された。耳にとどめて覚えている。何でもかんでも分別するのを止めて、ただ御用に立ちたいと思うだけの事だ。この様に思ってはいけないと言う事ではないが、色々な障害があって、打ち破らないので、やたらと一生を無駄に暮らすのは、返す返す残念な事である。我等程度の者がどのようにして役に立てるのかと、卑下の心で暮す者もいる。御用に立ちたいと思う真実さえ強ければ、不調法者程度で良い。知恵や利口などは多くの場合害になる事がある。小身で田舎などに居る者は、家老、家中などと言えば、神や人智を超えた者であるかのように、思い違いをして寄りつくことも出来ないが、親しくなって打ち解けて話などをしてみると、普段から御用の事を忘れず、主君を嘆いている事は他と少しも変わらない。御用の筋に、その様な奇妙な知恵は要らないものだ。なにとぞ、殿の御為に、御家中、百姓までの為になる事を思う事は、愚鈍な我々ごときでも済むものだ。しかし、御用に立ちたいと思う事が、いかにも成りにくいものだ。

聞書第一 〇二〇〇〜仕合せよき時の用心は自慢と奢り、常一倍に用心せよ

原文

一、仕合せよき時分の、第一の用心は、自慢奢り也。常の一倍せでは、危なき也。

現代語訳

一、調子の良い時の、第一の用心は、自慢と奢りだ。普段の倍しなくては危ない。

聞書第一 〇二〇一〜兼々寄親に入魂せよ、身體一つで駈出しさへすれば濟む

原文

一、武具を立派にして置くは、よき嗜みなれども、何にても數にさへ合へば濟む事也。深堀猪之助が物具の様なもの也。用意銀なども、大身の人持などは入る事也。岡部宮内は、組中の人數程袋を作り、名を書附け、銘々相應の軍用銀入れ置き申され候由。斯様に嗜み候事、奥深き事也。小身者などは、その期に用意なくば、寄親に頼みはごくまれも濟むべし。さる程に、兼々寄親に入魂して置くべし。御側の者は、殿に附きてさへ居たらば、用意などなくとも濟むべき事也。何某は大阪夏陣の時、灰吹十二匁持ちて多久圖書殿に附きて罷立たれ候。唯早々駈出しさへすれば濟む事也。斯様の世話も、のけたるがよきと覺えたり。

現代語訳

一、武具を立派にしておくことは、良い嗜みであるが、何でも数さえ合えば済む。深堀猪之助の物具の様なものだ。用意銀なども、出世して家来を持っている者にとっては必要だ。岡部宮内は、組中の人数分の袋を作って、名前を書き付け、銘々に相応の軍用銀を入れて置いているとの事だ。この様に嗜むことは、奥の深い事だ。小身者などは、その時に用意がなければ、寄り親に頼めばごく稀になら済ます事が出来る。そのような程に、普段から寄り親と親しくして置くべきだ。御側の者は、殿に付いて居たら、用意などは無くても済むだろう。何某は大阪夏の陣の時、灰吹銀を十二匁も持って多久図書殿について戦場に立った。ただ早々に駆け出しさえすれば済む事だ。この様な世話も、しない方が良い。

聞書第一 〇二〇二〜知れぬ事は知れぬまゝに、たやすく知れるのは浅い事

原文

一、昔の事を改めて見るに、説々これあり、決定されぬ事あり。それは知れぬ分にて置きたるがよき也。實教卿御話に、「知れぬ事は知るゝ様に仕たるものがあり、又自得して知るゝ事もあり、又何としても知れぬ事もあり、是が面白き事也。」と仰せられ候。奥深き事也。甚秘廣大の事は知れぬ筈也。たやすく知るゝは浅き事也。

現代語訳

一、昔の事を改めて見ると、諸説があり、決定できない事がある。それは知る事が出来ない事として置いておくのが良い。実教卿の御話に、「知る事が出来ない事は、知れるように出来るものがあり、また自分で悟る事が出来るものもあり、またどうしても知る事が出来ない事もあり、これが面白いのだ。」と仰せられた。奥の深い事だ。甚秘広大な事は知る事が出来ないはずだ。簡単に知る事が出来るのは浅い事だ。

聞書第二 〇二〇三〜苦勞を見た者でないと根性が据わらぬ、若い中に苦勞せよ

原文

一、「奉公人の禁物は、何事にて候はんや。」と尋ね候へば、大酒 自慢 奢りなるべし。不仕合せの時は氣遣ひなし。ちと仕合せよき時分、此の三箇絛あぶなきもの也。人の上を見給へ、やがて乗氣さし、自慢 奢りが附きて散々見苦しく候。それゆゑ、人は苦を見たるものならでは根性すわらず、若き中には随分不仕合せなるがよし。不仕合せの時草臥るゝ者は、益に立たざる也と。

現代語訳

一、「奉公人がしてはならない事とは、どんな事か。」と尋ねたところ、「大酒、自慢、奢りだろう。不幸せの時は気遣いは要らない。ちょっと調子が良い時分に、この三つが危ない。人の様子を見れば、やがて調子に乗り、自慢、奢りが出てきて散々見苦しくなる。それ故、人は苦労した者で無ければ根性が据わらず、若い内に大いに不幸せになるがいい。不幸せになってくたびれる者は、役に立たない。」との事。

聞書第二 〇二〇四〜組討やはら角藏流、端的當用に立つのが流儀、戀は忍戀

原文

一、「角藏流とは如何様の心に候や。」と申し候へば、鍋島喜雲草履取角藏と申す者、力量の者に候故、喜雲劍術者にて取手一流仕立て、角藏流と名附け、方々指南致し、今に手形残り居り申し候。組討やはらなどと申し、打上りたる流にてはこれなく候。我等が流儀も其の如く上びたる事は知らず、げす流にて草履取角藏が取手の様に、端的の當用に立ち申す故、此の前から我等が角藏流と申し候。又この前、寄合ひ申す衆へ話し申し候は、戀の至極は忍戀と見立て候。逢うてからは戀のたけが低し。一生忍んで思死にする事こそ戀の本意なれ。歌に 戀死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思ひを 是こそ長高き戀なれと申し候へば、感心の衆四五人ありて、煙仲間と申され候。

現代語訳

一、「角藏流とはどのような教えなのだろうか。」と尋ねた時に聞いた話、鍋島喜雲の草履取をしていた角藏と言う者が、力量のある者だったので、喜雲が剣術者として一流の技の巧みな者に仕立てて、角藏流と名付け、方々に指南して、今に手形が残っているとの事。組討や柔などと言った、思い上がった流派ではない。我等の流儀もその様に高級な事は知らず、下司流であり、草履取の角藏の技の様に、端的に実際の役に立つので、この前から我等の角藏流だと話している。また、この前、集まった衆に言ったのは、「恋の究極は忍ぶ恋と見立てた。逢ってしまうと恋の丈が低い。一生忍んで思い死ぬ事こそ恋の本意となれ。以下のような歌がある

恋死なむ 後の煙にそれと知れ 終にもらさぬ 中の思ひを

これこそ丈が高い恋だ。」と申したところ、感心した衆が、四、五人いて、煙仲間と称していた。

聞書第二 〇二〇五〜多久美作、嫡子長門を慕はする爲、熊と無理無情に家中に當る

原文

一、多久美作殿老後に、家中の者へ無情無理の御仕方どもこれあり候故、誰か意見申し候へば、「長門が爲也。我が死後に枕を高くして緩りと休み申さるべし。」と答への由。總じて家中を憐愍し、隠居前に無理の事共あれば、嫡子に家を譲り候時、家中の者、早く直代に思附くものにて候。これ秘説の由、或人の話也。

現代語訳

一、多久美作殿が老後に、家中の者へ無情で無理な事を言うので、誰かが意見したところ、「長門の為だ。我が死後に枕を高くしてゆっくりと休んでいられるだろう。」と答えたとの事。総じて家中を憐れんで、隠居前に無理な事等があれば、嫡子に家を譲ったとき、家中の者たちは、早く嫡子の代に心が付く。これは秘密だとの事、或人の話だ。

聞書第二 〇二〇六〜相手の氣質を呑込んで會釋し、議論しても遺恨を残すな

原文

一、人に出會ひ候時は、その人の氣質を早く呑込み、それぞれに應じて會釋あるべき事也。その内、理堅く強勢の人には隨分折れて取合ひ、角立たぬ様にして、間に相手になる上手の理を以て言ひ伏せ、その後は少しも遺恨を残さぬやうにあるべし。これは胸の働き、詞の働き也。何某へ和尚出會ひの意見、口達あり。

現代語訳

一、人に出会った時は、その人の気質を早く飲み込み、それぞれに応じて対応するべきだ。その内、理屈っぽく強情な人には随分と折れて取り合い、角が立たない様にして、その間に相手になる様な、うわての理屈で言い伏せて、その後に少しも遺恨を残さぬ様にするべきだ。これは心の働き、言葉の働きだ。何某が和尚に初対面の前に意見した事、口達であった。

聞書第二 〇二〇七〜北山朝陽軒と宗壽庵─了為、行寂、雪門、海音、岩水、各和尚

原文

一、加州大乗寺隠居了爲和尚下国の前、北山宗壽庵普請掃除これある時分、行寂和尚上堂の掃除は自身なされ候。又天祐寺雪門和尚隠居、海音和尚へ夏衣持參候處、新物良く過ぎ不似合とて返進、雪門の古衣所望にて候。又宗壽庵へ水岩和尚御越し前、新しく上堂立ち申し候。御待設けにとて、壁は了爲和尚御塗り候。冥加に叶はるゝ所也と。北山黑土原了爲和尚隠居所長陽軒と申し候。正徳二年四月十九日寺號引相濟み、宗壽庵と申し候。

現代語訳

一、加州の大乗寺隠居の了為和尚が下国する前、北山の宗壽庵を修繕し掃除していた時、行寂和尚が上堂の掃除をご自身でなされた。また、天祐寺の雪門和尚が隠居した時、海音和尚へ夏衣を持参した所、新しいもので上等過ぎ、自分には不似合いであるとして返し、雪門の古着を所望した。また、宗壽庵へ水岩和尚が御越しの前に、新しく上堂が建った。御待ち請けにと、壁は了為和尚が塗った。冥加に叶うことだと言う。北山の黒土原の了為和尚の隠居所は長陽軒と言い、正徳二年四月十九日に寺の号が引かれ、宗壽庵と言われる事になった。

聞書第二 〇二〇八〜夢が正直のためし、勇氣がすわると夢中の心持が替わる

原文

一、夢が正直のためしなり。切死、切腹の夢折々見候が、勇氣すわり候へば、段々夢中の心持替り申し候由。閏五月二十七日夜の夢の事。

現代語訳

一、夢が正直な心の予行演習をする場所だ、切られて死んだり、切腹する夢を時々見るが、勇気が据わっていれば、段々と夢の中の心持ちが変わってくるものだ。閏五月二十七日夜の夢の事。

聞書第二 〇二〇九〜先づ篤と身命を主人に奉り、内に智仁勇の三得を備えよ

原文

一、武士の大括りの次第を申さば、先づ身命を主人に篤と奉るが根源也。斯くの如くの上は何事をするそといへば、内には智仁勇を備ふる事也。三徳兼備などと云へば、凡人の及びなき事の様なれども、易きこと也。智は人に談合するばかり也。量もなき智也。仁は人の爲になる事也。我と人と比べて、人のよき様にするまで也。勇は歯噛み也。前後に心附けず、歯噛みして踏破るまで也。此の上の立ち上りたることは知らぬ事也。さて、外には風體口上手跡也。これは何れも當住の事なれば、當住の稽古にて成る事也。大意は閑かに強みある様にと心得べし。此の分、手にに入りたらば、國学を心懸け、其の後気晴らしに諸藝能も習ふべし。よく思へば、奉公などは易き事也。今時、少し御用に立つ人を見れば、外の三箇絛迄也と。

現代語訳

一、武士の大まかな次第を言えば、まず身命を主人に篤と捧げるのが根源である。その上で何をするのかと言えば、心の内には智仁勇を備える事だ。三徳兼備などと言えば、凡人には及びもつかない事の様だが、た易いことだ。智は人に相談するだけだ。無尽蔵の智恵になる。仁は人の為に成る事だ。自分と人を比べて、人が良くなる様にするだけだ。勇は歯を噛み締める事だ。前後の事に気を取られず、歯を食いしばって踏み破るだけの事だ。それ以上の事など知らぬ。さて、外側では風体、口上、手跡だ。これは何も、普段の事なので、普段の稽古で成る事だ。大意は静かに強みある様にと心得るべきだ。この事が、自分の物に成ったら、国学を心がけ、そのあと、気晴らしに諸々の芸能も成らうといい。よく考えれば、奉公などは単純な事だ。今時、少し用に立つ人を見れば、外側の三箇条だけだ。

聞書第二 〇二一〇〜淵瀬を心得て渡れ、御意に入りたいと努むるのは見苦しい

原文

一、或出家申され候は、淵瀬も知らぬ川をうかと渡り候ては向へも届かず、用事は濟まず、流れ死も仕る事に候。時代の風俗、主君の好嫌いをも合點なく、無分別に奉公に乗氣などさし候はゞ御用にも立たず、身を亡し候事これあるべく候。御意に入るべくと仕るは、見苦しきものに候。先づ引取りて、ちと淵瀬をも心得候て、御嫌ひなさるゝ事を仕らざる様、仕るべき事と存じ候由。

現代語訳

一、或る出家した人の話では、深さの分からない川をうっかり渡っては向こう岸にも届かず、用事を済ます事も出来ず、流れ死んでしまう。時代の風俗、主君の好き嫌いをも了解せずに、無分別に奉公にやる気を出して御用にも立たず、身を亡ぼす事もあるだろう。主君に気に入られようとするのは、見苦しいものだ。まず一歩引いて、ちょと深さを心得て、御嫌いなさる事をしない様に、するべきだと思うとの事。

聞書第二 〇二一一〜武士は草鞋作り習へ、一理外へは一人一升の兵糧を持て

原文

一、前神右衛門(法名善忠)は沓草鞋作り候事上手にて候。組被官抱へ候時も、「草鞋作り候や、この細工成らざる者は足もたず也。」と申し候。又一理外へは、一人一升宛の兵糧を袋に入れ、附けさせ候。向より直ちに出陣の仕組也。まづ、一升宛さへあれば、その内に才覺成り申し候。それ故、浅黄木綿の袋數多作り置き候。太閤様名護屋御下向の時、朱鞘の御大小に足半を御懸け候て、高木上道御通り候。又家康公の御家中の騎馬を太閤様へ御目に懸けられ候時、成瀬小吉紅の沓を鞘にかけ候由也。軍中にて第一の用意也。今にても長崎立と申し候時、上下の數萬人の用に立ち候に付て、沓草鞋一束もあるまじく候。されば、兼て心にかけ用意あるべき事也。尤も作り習ひ候はで叶はざる儀也。芝原山道川中などにて、草鞋はすべり候。足半よく候と也。

現代語訳

一、前神右衛門(法名善忠)は靴、草鞋作りが上手だった。組彼岸を抱えた時も、「草履を作れ、この細工が出来ない物は足が持たないぞ。」と言った。また、一理外へ行くには、一人一升の兵糧を袋に入れて持たせた。出先から直ちに出陣するための仕組みである。まず、一升さえあれば、それを消費するうちに良い考えが出るだろう。それ故、浅黄木綿の袋をたくさん作り置きしていた。太閤様が名古屋へ出向かれた際、朱鞘の二本差しに足半をお掛けになって、高木上道をお通りになった。また、家康公の御家中の騎馬を太閤様にお目にかける時、成瀬小吉は紅の靴を鞘にかけたとの事。軍中で第一に用意する物だ。今でも長崎を発つと言う時には、上下の数万人が用意しようとするので、靴、草鞋は一足もなくなるだろう。そうであれば、普段から気にかけて用意しておくべきだ。もっとも、作り方を習っていなければ出来ない事だ。芝原山道の川の中などでは、草履では滑る。足半が良いとの事だ。

聞書第二 〇二一二〜丁子袋を身に附けると寒氣に當らぬ、血留には芦毛馬の糞

原文

一、丁子數袋身に附け候へば、寒氣風氣に當らず。先年、前數馬寒中早打にて罷下り、老人少しも痛み申さず。右傳授と申され候。又落馬血留の法、芦毛馬の糞煎じ呑むと也。

現代語訳

一、丁子袋を数袋身に付ければ、寒気や風気に当たらない。先年、数馬が寒中の早打ちで下ったが、老体が少しも痛まなかった。その理由として伝授された事だ。また、落馬して止血する方法は、芦馬の糞を煎じて呑むとの事だ。

聞書第二 〇二一三〜結構者はずり下る、強みにてはければならぬもの

原文

一、結構者はずり下り候。強みにてなけらばならぬもの也。

現代語訳

一、お人好しはずり下がってしまう。強めなければならない。

聞書第二 〇二一四〜主人に心置かるヽ様にするが忠節、十年骨を碎けば確となる

原文

一、内氣に陽気なる御主人は隨分譽め候て、御用に落度なき様に調へて上げ申す筈也。御氣を育て申す所也。さて又、御氣勝御發明なる御主人は、ちと、御心置かれ候様に仕掛け、此の事を彼者承り候はゞ何とか存ずべしと思召さるゝものになり候事、大忠節也。斯様の者一人もこれなき時は、御家中御見こなし、皆手揉みと思召され、御高慢出來申し候。上下に依らず、何程善事をなし候ても、高慢にて打崩し候也。右のあたりに眼の着く人、無きもの也。求馬吉右衛門などは確かに見知らせ申して置きたる者共也。吉右衛門は病中にも隠居後も、事により御相談なされ候由に候。有難き御事に候。成りにくき事とばかり存ずる故成らず候。十年骨を碎き候へば、しかと成る事に候。覺えある事に候。一國一人の重寶なれば、成り度く思はぬは腑甲斐なき事也。先づ仕寄は信方喬朝の如きもの也。疎まれては忠を竭す事叶はず。此處が大事也。大かたの人見附かぬ所也。其の後少しづゝ、ずめかせ申して置く迄也と。

現代語訳

一、内気で陽気な御主人には、随分と褒めて、御用に落ち度が無い様に整えて差し上げるのが良い。御気を育てて差し上げるのだ。さてまた、気が強くなりがちで、聡明な御主人は、ちょっと、気に懸けられるように仕掛けをしておいて、この事をかの者が承ったら何と思うだろうか、と思われる者に成る事が、大忠節である。この様な者が一人も居ない時は、御家中を見渡して、皆揉み手をしてへつらう者ばかりだと思召されて、高慢になってしまわれる。身分の上下に依らず、どれほど善い行いをしても、高慢であれば台無しだ。右の様な事に気が付く人は、なかなか居ないものだ。相良求馬、吉右衛門等は確かに主人に気に懸けられている者たちだ。吉右衛門は病中にも、隠居後にも、事あるごとにご相談を受けたそうだ。有難き事だ。なかなか出来ない事だとばかり思っているから、出来ないのだ。十年骨を砕けば、たしかにできる事なのだ。経験がある。一国に一人の重宝に、成りたいと思わないのは不甲斐ない。まずは、信方、喬朝の様にと近づけることだ。疎まれていては、忠を尽くすことは出来ない。ココが大事なところだ。大方の人が見つけられない所だ。その後少しずつ、勘付かせておくだけだ、との事。

聞書第二 〇二一五〜火事場掛合は敵方や逆心者警戒の爲、御法事堪忍番の心得も同様

原文

一、火事の節、請取の場へ駈附くる事は火消の爲ばかりにはあらず、敵方又は逆心の者共は火附けをして其の騒ぎの紛れに取りかくる事あり。其の心持を仕るべき事也。されば、火事の不掛合は不覺悟也。常々心掛あるべき事也。御門々々の固めも其の爲也。又、御法事の節の堪忍番は、非常を禁むる爲也。寸善尺魔にて、法會には必ず邪魔入り來るもの也。喧嘩口論其の外不意の事これある節、御法事の障りにならざる様に、早速取鎭むる役と心得て、堪忍番仕るべき事也。斯様のこと我人能く存じたる事なれども、多分うかと罷出づる故、事に臨みて仕後れ申すと相見え候。證據の話など承り置くべき由。助右衛門殿御話也。

現代語訳

一、火事の時、報告があった現場へ駆けつける事は火消しの為だけでは無く、敵方または、逆心の者が放火してその騒ぎに紛れて取り掛かる事があるからだ。そのつもりで駈けつけるべきだ。だから、火事の時、掛け合わないのは不覚悟である。常々、心掛けておくべき事だ。各々の御門の守りを固めるのもその為だ。また、法事の時の自主的に当番をするのは、非常の事態を防ぐ為だ。寸善尺魔で、法会には必ず邪魔が入るものだ。口喧嘩、口論、その他の不意の事があった時、法事に障りとならない様に、すばやく取り鎮める役と心得て、自主的な当番をするべきだ。この様なことは、我々はよく知っていることだが、よくうっかりとしてしまうので、事に臨んで後れを取ってしまうと見える。過去の実績のある話などをよく聞いておべきだとの事。助右衛門殿の御話。

聞書第二 〇二一六〜豫て養生すれば病氣は出ぬ、慈悲の諫言意見も平素にせよ

原文

一、諫言意見など、悪事の出來てよりしては其の驗あり兼ね、却つて悪事を広げ申す様なるもの也。病氣出來てより藥を用ふるが如し。豫て養生をよくすれば、終に病氣出でず、病氣出でゝより養生するよりは、かねての養生は手間も入らず、仕よきもの也。未だ惡事思ひ立たざる前に、兼々心持になる事を、何となく諫言意見仕り候はゞ兼て養生の如くなるべく候。

現代語訳

一、諫言、意見など、悪事が起こってからではその効果は無く、却って悪事を広げるものだ。病気になってから薬を用いる様な物だ。かねてからよく養生していれば、最期まで病気にならず、病気になってから養生するよりも、かねてからの養生は手間もかからず、やりやすいものだ。まだ、悪事が思い立つ前に、かねがね気になる事を、何もなくても諫言、意見することは、兼ねてから養生するようなものであるだろう。

聞書第二 〇二一七〜御用に立ち度しと思ふ奉公人は其の儘引上げ召使はれる

原文

一、御用に立ち度しと思ふ奉公人は、其の儘引上げ召使はるゝ儀疑ひもなき事也。上よりは御用に立つ者がなと、兼々御探促なさるゝ事に候。たとへば能囃子に御好き候御主人は、藝のある者を御探促なさるゝ處に、百姓町人にても、笛なりとも太鼓なりとも得方の者に候へば、其の儘召出さるゝと同じこと也。能役者よりは、御國家の御用に立つ奉公に心掛け候ものは、何時の御時代にも御探促の事に候、又上の御好きなさるゝ事に其の道其の道の者出來申す事に候へば、御用に立つ者を御好き遊ばさるべき事也。昔より其の位々には出來兼ね候。下より登り大功を遂げ、御用に立ちたる人、御代々數人これありたる事に候由。

現代語訳

一、御用に立ちたいと思う奉公人は、そのまま引き上げられて召し使われるという事は疑いもない事だ。上からは御用に立つ者が居ないか探索なされている。たとえば、能囃子を好まれる主人が、芸のある者を探している所に、百姓、町人でも笛なり太鼓なりが得意な者がいれば、そのまま召し出されるのと同じ事だ。能役者よりは、御国家の御用にたつ奉公人であろうと心掛けている者は、いつの時代にも求められている。また、上の方々が好まれる事にその道その道の者が出て来るのであれば、御用に立つ者を好まれるはずだ。むかしより、各々の位には能力のある者は出てこない。下から登って大きな手柄を上げて、御用に立つ人が、代々数人いるとの事だ。

聞書第二 〇二一八〜悪事は我が身にかぶり、上の批判は申出でぬと覺悟せよ

原文

一、御位牌釋迦堂より御移しなされ候を、何某見附け候て、申し達すべきやと相談申され候に付て、「尤もの事に候。斯様の儀存じ寄り候人、今時、御手前ならではこれなき事に候。然れども仰達せらるゝ儀は御無用に候。右申分尤もに候とて、元の如く相成り候時、世上に相知れ、御手前御外聞よくなり申す事に候。若し相濟まざる時は、いよいよよろしからざる儀と取沙汰仕り、御手前御外聞ばかりよく候。悪事は我が身にかぶり申すこそ當介にて候。今の如くして先づ召置かれ候時は、誰ぞ氣の附き申すもこれなく、何の沙汰もなく相濟み申す事に候。さ候とて、何時ぞ、時節次第沙汰なしに、元の如く御直り候様に致す様これあるべく候。」と申し候て、差留め置き申し候。斯様の事にて、上の御不調法、世間に知れ申す事これある儀に候。心を附け罷在り候へば、しかと、よき時節がふり來るものに候。大方、悪事は内輪から言崩すもの也。上の批判などは、一向申出でざるものと覺悟仕るべき事に候。親子兄弟入魂の間などは格別と存じ、隠密沙汰なしなどと申し候て話し候へば、やがてひろがり、後には自國他國日本國に洩れ聞え申す事、間もなきものに候。又下人あたり其の外、内證にて仕方悪しき人は、やがて世上に悪名唱へ申し候。内輪ほど愼み申すべき事也。

現代語訳

一、御位牌を釈迦堂から御移しなされたのを、何某が見つけて、報告すべきかと相談されたので、「もっともな事だ。この様な事に気が付くのは、今時では、お手前ならではの事である。しかし、御報告の件は無用だ。右の事は申し分はもっともであるが、元に戻したとき、世間に知れ渡り、お手前の評判は良くなるだろう。もし、それで済まなかった場合、いよいよ良くない事だと取り沙汰されて、お手前の評判だけが良くなるだろう。悪事は自分の身にかぶる事こそ当然の行いである。今の様にまず召し置かれている時は、誰が気づくこともなく、なんの騒動にもなずに済む。そうであっても、いつか、良い時節を見計らって騒動に成らない様に、元の様に直して置く様にするべきだ。」と言って差し止めておいた。この様な事で、上の御不調法を世間に知れ渡る事がある。気を付けていれば、確かに、良い時節が降ってくるものだ。大方、悪事は内輪の者から漏れる。上の批判などは、一向に申し出る事などしないと覚悟するべき事だ。親子、兄弟や親しい間柄などとは別格であると思い、秘密事が無いのが良いなどいって話してしまうと、やがて広がり、後には自国、他国、日本国に洩れ広まってしまうのに、そう時間はかからない。また、下人やその他は、内緒で悪い行いをする者は、やがて世間に悪名が広まるだろう。内緒ごとは慎むべき事だ。

聞書第二 〇二一九〜端的只今の一念より外はない、「この一念」に忠節備る

原文

一、端的只今の一念より外これなく候。一念一念と重ねて一生也。此所に覺え附き候へば外に忙しき事もなく、求むることもなし。此所の一念を守りて暮すまで也。皆人、此所を取失ひ、別に有る様にばかり存じて探促いたし、こゝを見附け候人なきもの也。守り詰めて抜けぬ様になることは、功を積まねばなるまじく候。されども、一度たづり附き候へば、常住になくても、最早別の物にてはなし。この一念に極り候事を、よくよく合點候へば、、事少なくなる事あり。この一念に忠節備り候也と。

現代語訳

十七 端的只今の一念より外はない、「この一念」に忠節備る

一、端的に、ただ今の一念より外の事は無い。一念一念と重ねて一生となる。ここが理解できれば他に忙しい事も無く、求める事も無い、ここの一念を守って暮らすまでだ。皆はここを忘れて、別の事があるかの様に思って探索し、ここを見つける人が居ない。守り詰めて、抜けない様に成る事は、功績を積まなければ出来ない。しかし、一度たどり着いたら、常に意識していなくても、最早別の事は考えない。この一念に極まる事を、よくよく納得すれば、やらなければならない事は少なくなる。この一念に忠節が備わっているとの事だ。

聞書第二 〇二二〇〜時代の風がある、昔風や當世風のみではいかぬ、時代に順應せよ

原文

一、時代の風と云ふものは、かへられぬ事也。段々と落ちさがり候は、世の末になりたる所也。一年の内、春計りにても夏計りにても同様にはなし。一日も同然也。されば、今の世を、百年も以前の良き風になしたくても成らざること也。されば、その時代時代にて、よき様にするが肝要也。昔風を慕ひ候人に誤あるは此處也。合點これなき故也。又當世風計りと存じ候て、昔風を嫌ひ候人は、かへりまちもなくなる也と。

現代語訳

一、時代の風というものは、変えられない。段々と落ちて下がっているのは、世も末になってきた証拠だ。一年の内、春が何度来ても、夏が何度来ても、同じ物は無い。一日も同じことだ。だから、今の世を、百年も以前の良い風にしたくても出来ない。そうであれば、その時代で、良い様にすることが肝要だ。昔風を慕う人が間違っているのはここだ。納得していないからだ。また、今風ばかりで、昔風を嫌う人は思慮が浅くなるとの事だ。

聞書第二 〇二二一〜工夫修業を超越し、世間並に主を歎き奉公に身を入れよ

原文

一、奉公に志有りて工夫修行など致し候時、多分高上りに成り至り過ぎ、本を唱へ失ひ候。唯、何の合點も入らず、世間並にして主を歎き、奉公に好くまで也。本に立歸り勤めたるがよし。尤も初めより此の心入にては役に立たず、一通り工夫修行して、それをさらりと捨て、此の如く心得候事也と。

現代語訳

一、奉公に志があって、工夫、修行などをする時、多くの場合、高みに至り過ぎて、本分を忘れてしまう。ただ、なんの納得も必要なく、世間並にして主人を嘆いて、奉公好きになるまでだ。本分にたち帰って勤めると良い。もっとも初めからこの考えでは役に立たず、一通り工夫、修行して、それをさらりと捨てて、この様に心得るのだ、との事だ。

聞書第二 〇二二二〜當念を守つて氣を抜かず勤め一念々々と過ごすまで

原文

一、當念を守りて氣を抜かさず、勤めて行くより外に何も入らず、一念々々と過す迄也と。

現代語訳

一、当念を守って気を抜かず、勤めて行くより外には何も要らず、一念一念と過ごすまでだ、との事。

聞書第二 〇二二三〜附紙の仕様、弔状其の外凶事包物折方のいろいろ

原文

一、附紙の仕様は、端を劍先に切り、尖りに糊を薄く附けて、書物の裏に附け候。又弔状其の外凶事の包物は、兩の折返しを一度にする也。それ故、常には片々づゝ折り候。其の時は、左の方を初に折返し申すべきか。

現代語訳

一、附け紙のやり方は、端を剣先にきって、尖ったところに糊を薄く付けて、書物の裏につける。また、弔状やその他の凶事の包み物は、両側の一度に折り返す。それ故、普段は片方づつ折るのだ。その時は、左の方を先に折り返すだろうか。

聞書第二 〇二二四〜氣力強き者はそげ廻る、勇氣は別事、死狂ひに氣力は入らぬ

原文

一、古來の勇士は、大かたそげもの也。そげ廻り候氣性ゆゑ、氣力強くして勇氣あり。このあたり不審に候て、尋ね候へば、「氣力強きゆゑ、平生手荒く、そげ廻り申すと相見え候。此方は氣力弱く候ゆゑ、そげ候事は成らざる也。氣力は劣り候、人柄は増しに候。勇氣は別事也。此方は無氣力ゆゑ、おとなしくして、死狂ひに劣るべき謂はれなし。氣力の入る事にてはなき也。」と。

現代語訳

一、古来の勇士は、おおかた奇行者である。奇行ばかり行う気性なので、気力が強くて勇気があった。このあたりを不審に思って、尋ねた所、「気力が強いので、普段から荒々しく、奇行ばかり行うのだと見受けられる。最近の者は気力が弱いので、奇行は行えないのだ。気力は劣ったが、人柄は増した。勇気は別の話だ。最近の者は無気力なので、おとなしいからと言って、死狂いで劣っているという言われはない。気力が必要な事ではない。」との事だ。

聞書第二 〇二二五〜下々迄の爲になる様にするが上への奉公、磔も御慈悲

原文

一、「奉公は、色々心持これありと相見え、大體にては成り兼ね申すべし。」と申し候へば、「左様にてなし、生附の分別にて濟むもの也。勝茂公よく御撰みなされたる御掟に合はせて行く迄也。安き事也。其の中、御家中下々迄の爲になる様にと思うてするが、上への奉公也。不了簡の出頭人などは、上の御爲になるとて、新儀を企て、下の爲にならぬ事は構はず、下に愁ひ出來候様に致し候。これは第一の不忠也。御家中下々、皆殿様のものにて候。又上よりは御慈悲にて濟むもの也。其の時は磔も御慈悲になる也。」

現代語訳

一、「奉公は、色々な心掛けが有ると見えて、大体では上手く行かない。」と言ったところ、「そうではなく、生まれつきの分別で済むものである。勝茂公がよく選別なされた掟に合わせていくだけだ。簡単な事だ。その内に、御家中や下々までの為に成る様にと思ってするのが、上への奉公だ。了見のない出頭人などは、上の為に成ると言って、新義を企て、下の為に成らないと言う事には構わず、下々が悲しむ様な事をする。これは第一の不忠である。家中、下々、皆、殿様のものである。また、上からは慈悲を掛けるだけでいい。その時は、磔も慈悲になるのだ。」

聞書第二 〇二二六〜殿様の御供も唯不斷の枕一つ、殿様と一所に居れば濟む

原文

一、權之允殿參られ、長崎仕組の事尋ねられ候返答に、我等は御側に居り候故、其の方の今のかねには合はず、その時分皆人御供の仕組仕られ候に、我等は唯不斷の枕一つにて濟まし候。その仔細は殿様御發足の時御供にて罷立つ迄に候。武具も金銀も兵糧も、御傍に居り候へば、上の物にて濟ます合點也。御納戸物置の事、口達。その折は御前へも申し上ぐべき事に候。御側役人もその期に何と異議申さるべきや。仕組斯くの如くにて相濟まし候。尤も夫丸荷附馬等の引合は張紙仕り置き候へども、大根は殿様と一所に居り候へば、相濟むものと存じ罷在り候由。

現代語訳

一、権之允殿が参られて、長崎でのお役目の事を尋ねられた返答で、我等は殿の御側に居るので、その方の今の状況には合わず、その時分は皆、御供のお役目をしていたが、私たちの準備はただ、普段の枕一つで済ませた。その詳細は、殿様がご出発の時に御供に立つだけである。武具も金銀も兵糧も。御傍に居れば、支給される物で済ませる事が出来ると理解していた。納戸、物置の事、口達。物が必要になったその折は御前へ申し上げるべきである。御側役人もその期に及んで何とも異議を言うだろうか。お役目はこの様に済ませた。もっとも、夫丸、荷附馬等の手配は張り紙を作っておいたが、大本は殿様と一緒に居れば済むものと思っていたとの事。

聞書第二 〇二二七〜山本常朝、内證支へ有りのまゝ曝け出して銀子拜領

原文

一、奉公仕り候時分は、内證事支への事共何とも存ぜず候。若し飢ゑ申し候時節は御側の衆へも御前へも申上げ、江副兵部左衛門が如く、拜領仕るべくと存じ居り候。去年、京都より罷下り、又罷登り候時分、年寄り衆へ、「拙者事久しく在京仕り候に付て、内證差支へ申し候。上方罷立ち候時分、引懸りなど候ては御外聞宜しからざる事に候。御詮議なされ下さるべく候。全く私慾にてこれなく、御用にて在京仕る事に候故申上げ候」由申し候に付て、則ち御前へも申上げられ、銀子拜領致し候。又病氣にて服藥仕りながら相詰め居り候時分、醫師より、「人參用ひ候様に。」と申され候へども、手支へゆゑ相叶わず候處、諸岡彦右衛門聞附け、「神右衛門殿用の人參は、御用の内より何程にても相渡すべく候間、用捨なく御用ひ候様に。」と申され、少しも遠慮仕らず請取り申し候。彦右衛門申され候は、「御自分方は、殿様御精に入られ候御用、相調へ申す人に候へば、人參など何程遣はし候ても苦しからず。」と申され候。總じて奉公人は、何もかも、根から、ぐわらりと主人に打任かすれば濟むもの也。隔て候故、むつかしくなる也と。

現代語訳

一、奉公をしていた時分は、自分の家計の事など気にもしなかった。もし、飢える事があれば御側の衆へも御前へも申し上げ、江副兵部左衛門の様に、拝領仕ればよいと考えていた。去年、京都よりくだって、また登った時、年寄り衆へ、「拙者は長く京に居りましたので、家計が苦しくなっております。上方へ発つ時、引っ掛かりなどがあっては外聞が宜しくありません。御詮議ください。全く私欲ではなく、お役目で京に行くために申上げているのです。」との旨伝えたところ、御前へも伝えられ、銀子を拝領した。また病気にて薬を飲みながら詰めていた時分には、医師から、「人参を飲むように。」と言われたが、手持ちが足らず入手できずに居た所、諸岡彦右衛門がそれを聞き付けて、「神右衛門殿用の人参は、御用の内からどれ程でもお渡しするので、用捨なくお使い下さる様に。」と言われ、少しも遠慮せずに受け取った。彦右衛門は、「あなた方は、殿様が力を入れている御用を調える役目であるので、人参などはどれだけ使わせても苦にはならない。」と言われた。総じて奉公人は、何もかも、根から、がっしりと主人に任せれば済むものだ。隔ててしまうから難しくなるのだとの事だ。

聞書第二 〇二二八〜鍋島直茂一流の軍法、その場に臨んで一言で埒明く

原文

一、「直茂公御軍法は、かねがね御家中の者何とも存ぜず、その場に臨み、御一言にて萬事はらりと埒明き申す處が、御一流にて候。」と内田正右衛門話し申され候。既に御他界の時分、御家老衆御尋ね申上げられ候にさへ、仰聞けられず候と也。

現代語訳

一、「直茂公の御軍法は、かねがね家中の者は何も知らず、その場に臨んだ時に、御一言で万事がはらりと片付くところが、御一流であった。」と内田正右衛門が話していた。既に御他界の時に至っていても、御家老衆が尋ねたことにさえ、なにも仰せにならなかったと言う事だ。

聞書第二 〇二二九〜家康は大勇氣の大將、討死の士卒一人も後向かず

原文

一、家康公、或時、御軍利あらず、後の評判に、「家康は大勇氣の大將也。討死の士卒一人も後向きて死にたるものなし。皆敵陣の方を枕にして死にて居り候。」と沙汰これあり

現代語訳

一、家康公が、或る時、御軍利がなかったが、後の評判に、「家康は大勇気の大将だ。討死の士が一人も後ろ向きで死んでいる者はいない。皆敵陣の方を枕にして死んでいた。」と取り沙汰された。

聞書第二 〇二三〇〜今時の者無氣力なのは無事故、何事かあれば骨々となる

原文

一、「今時の衆、『陣立てなどこれなく候て仕合せ。』と申され候。無嗜の申分にて候。纔かの一生の内、その手に會ひたき事に候。寝茣蓙の上にて息を引切り候は、まづ苦痛堪へがたく、武士の本意にあらず。古人は別して歎き申したる由に候。討死ほど死によき事はあるまじく候。」右體の事申す衆に一言申すも事々しき老人など申され候時は、まぎらかし候て居り申す事も候が、脇より心ある人聞き候はゞ同意のよう存ずべく候へば、障らぬやうに一言すべきは、「左様にてもこれなく候。今時分の者、無氣力に候は無事ゆゑにて候。何事ぞ出來候はゞ、ちと骨々となり申すべく候。昔の人とて替る筈にてこれなく候。よしよし替り候ても昔は昔にて候。今時の人は、世間おしなべて落ち下がり候へば、御取り申すべき謂はれこれなく候。」などと、一座を見量り申すべき事に候。誠に一言が大事の物と也。

現代語訳

一、「今時の衆は『陣立てなどがなくて仕合せだ。』などと言う。無嗜者の言い分だ。僅か一生の内に、陣立てするような事態に出会いたい。布団の上で息を引き取るのは、苦痛で耐えがたく武士の本意ではない。古人は特に歎いたと言う事だ。討死ほど良い死に方はない。」と、今時の衆に一言申すにも口うるさい老人などが申される時は、紛わせてしまう事もあるだろうが、脇から心ある人が耳にして同意するならば、老人の気に障らぬ様に一言して、「そうでもないですよ。今時分の者が無気力なのは、何事もないからだ。何事かが起これば、ちょっとは骨のある者になるでしょう。昔の人だって替わらないはずだ。若し違っても、昔は昔だ。今時の人は、世間がおしなべて落ち下がっているので、取り立てて言うべき謂れはない。」などと、一座を見て雰囲気を量るべきである。誠に一言が大事である、との事だ。

聞書第二 〇二三一〜仕舞口が大事、客人の歸る自分など名残盡きぬ心得が肝要

原文

一、安田右京が、盃のをさめばの事を申したるごとく、只仕舞口が大事にて候。一生も斯くの如くにてあるべく候。客人歸り候時分など、名残盡きぬ心持肝要也。さなく候へば、早飽きて居たる様にて、終日終夜の話も無きになる也。すべて人の交りは、飽く心の出來ぬが肝要也。何時も何時も珍らしき様にするべき也。これは少しの心得にて替るものと也。

現代語訳

一、安田右京が、盃の収め方の事を言ったように、ただお開きの仕方が大事だ。一生もこのようにあるべきだ。客人の帰り時など、名残が尽きない気持ちも肝要だ。そうでなければ、早々に飽きてしまった様に見えて、終日終夜に話す事も無くなる。全ての人の交流は、飽きさせない事が肝要だ。何時も何時も珍しい様にするべきだ。これは少しの心得で変わってくるものだ、との事。

聞書第二 〇二三二〜萬事眞實一つで行けば濟む、奉公は差出た事が第一に悪い

原文

一、萬事、實一つにて仕て行けば濟むもの也。其の中に奉公人は御側外様大身小身古家取立などに付て、それぞれに、少しづゝの心入は替るべし。御前近き奉公などは、差出でたること第一わろき也。大人の御嫌ひ候もの也。御前の仕事は成程引取りて、あれにては埒が明きかねるが、されども別に人がなければと思召さるゝ位がよき也。さて、先役はもとより、同役を成程御用に立つ様に仕なし、若し病氣差支役替りなどの時、御事缺き候に付て、我が身勤め候様に心得たるがよし。これが道にてもあるべし。兎角忠節を根にして見ればよく知れ候也。早出頭、のうぢなきもの也。古來例多し。幼少より御前に相勤め候へども、一言を尖に申上げたる事なし。茲には、いかう心得ある事に候と也。

現代語訳

一、万事、真実一つでやて行けば済む事だ。その中で奉公人は御側、外様、大身、小身、古家、取立などについて、それぞれに、少しづつ心入れが違ってくる。御前に近い奉公人などは、差し出がましい事が一番悪い。上の方々のお嫌いなさる事だ。御前の仕事は充分に控えめにしていて、あれでは埒が明かないが、それでも特に人が居ないのかと思われる位が良い。さて、先役はもとより、同役を十分に御用に立つように仕立てて、もし病気、差支え、役替りなどの時に、人が足りなくなったら、自分が勤めて穴を埋めるように心得るが良い。これが道でもあるだろう。とにかく忠節を根にして見れば良く分かる。若くして出世してもやるべき事が出来ない。古来より先例が多くある。幼少より御前に勤めたが、一言をとがらせてきつく申上げた事は無い。きつく申上げる事に、どうして心得があるといえるか、との事である。

聞書第二 〇二三三〜何もなき所が色即是空、そこに萬事を備ふるが空即是色

原文

一、身は、無相の中より生を享くとあり。何もなき所に居るが、色即是空也。其の何もなき所にて萬事を備ふるが、色即是空也。二つにならぬ様にと也。

現代語訳

一、身は、無相の中から生を授かると言う。何もない所に居るのが、色即是空である。その何もないところですべてを備えるのが、空即是色。二つに別けてはならない、との事だ。

聞書第二 〇二三四〜武勇と少人は我は日本一と大高慢でなければならぬ

原文

一、武勇と少人は、我は日本一と大高慢にてなければならず。道を修行する今日の事は「知非便捨」に若くはなし。斯様にわけて心得ねば、埒明かずと也。

現代語訳

一、武勇と少年は、我は日本一と大高慢でなければならない。道を修行する今日の事は、「知非便捨」の他にはない。この様に理解して心得なければ埒が明かぬ、との事だ。

聞書第二 〇二三五〜思死に極むるが戀の極至、主従の間もこの心で濟む

原文

一、此の事此の中も承り候。此の節御話斯くの如き也。戀の部りの至極は忍戀也。 戀死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思ひは かくの如き也。命の内に、それと知らするは深き戀にあらず、思死の、長けの高き事限りなし。たとへ、向より、「斯様にてはなきか。」と問はれても、「全く思ひもよらず。」と云ひて、唯思死に極むるが至極也。廻り遠き事にてはなく候や。此の前語り候へば請合ふ者共ありしが、其の家中を煙仲間と申し候也。此の事、萬づの心得にわたるべし。主従の間など、此の心にて濟む也。又人の陰にて嗜むが即ち公界也。獨り居るくらがりにて、賤しき擧動をなさず、人の目かゝらぬ胸の内に、賤しき事を思はぬ様に、心がけねば公界にて綺麗には見えず、俄に嗜みては垢が見ゆるものと也。

現代語訳

一、この事は、この前にもうかがった。その時の話は以下の通りだ。恋の至極は忍ぶ恋である。

恋しなむ 後の煙にそれと知れ 終にもらさぬ 中の思ひは

この様な事だ。生きている内に、それと知らせるのは深い恋ではなく、思ったまま死ぬ事が、丈の高い事限りなし。たとえ、向こうから、「そうでは無いのか。」と問われても、「全く思いもよらない。」と言って、ただ思ったまま死に極まるのが至極である。回りくどい事ではないか。この前語ったところ、納得した者共がいて、その家中を煙仲間と称した。この事、全ての事の心得にわたるだろう。主従の間など、この心で済む。また、人に隠れて身を嗜んだ時点で公になったと同義である。一人でいる暗がりで卑しい挙動をせずに、人の目にかからない胸の内に、賤しい心を思わない様に、心掛けなければ、公の場で綺麗には見えず、にわかに嗜んだ程度では垢が見えるものだ、との事。

聞書第二 〇二三六〜慰みにも心を附けよ、腰折とは武家にては言ふまじき事

原文

一、照庵は連歌好き、素法は俳諧好き、たけがあれ程違ふ也。常々の慰み方にも心を附けて、長の高き所に眼を著くべき事かと、我が見立也。連俳よりは狂歌也とも讀み習ひ度き事也と。

私に云ふ、腰折れとは武家にては言ふまじき事也。口傳。

現代語訳

一、照庵は連歌好きで、素法は俳諧好き、風格があれほど違う。常々の気晴らし方にも気を付けて、風格の高い所に眼を付けるべき事ではないかと、我は見立てた。連歌よりは狂歌などを読み習いたい、との事。

私見として言うと、腰折れなどとは武家であれば言うべきでは無い事だ。口伝。

聞書第二 〇二三七〜その場をはづしては口は利けず、當座々々の働きが肝要

原文

一、「謙信の始終の勝などといふ事は知らず、場を迦さぬ所ばかりを仕覺えたり。」と申され候由。これが面白き事也。奉公人など、その場を迦しては、口は利けずと也。右の如く、當座當座の働き、挨拶、感心浅からず候也。

現代語訳

一、「謙信は、始めから終わりまで勝つなどと言う事は知らず、場をはずさない所ばかりに注意を払った。」と言われたとの事。これが面白い。奉公人などは、その場をはずしては、口は利けない。右の様に、当座当座の働き、挨拶、で浅からず感心する。

聞書第二 〇二三八〜山本常朝、健康の爲、廿歳前後七年間不婬、遂に藥を飲まず

原文

一、病氣を養生するといふは、第二段に落つる也。むつかしき也。佛家にて、有相について沙汰するが如く、病氣以前に病氣を切斷することを、醫師も知らぬと見えたり。これは、我確と仕覺えたり。その仕様は、飲食、婬慾を斷つて、灸治間もなくする、この分也。我は老人の子なる故、水少なしと覺え候。若年の時、醫師などは、「二十歳を越すまじく。」と申され候に付、「適々生れ出で、御奉公も仕届けず相果て候ては、無念の事に候、さらば生きて見るべし。」と思ひ立ち、七年不婬したるが、病氣遂終に發らず、今迄存命仕り候。藥飲みたる事なし。又小煩ひなどは、氣情にて押したくり候。今時の人、生附弱く候處に婬事を過す故、皆若死をすると見えたり。たはけたる事也。醫師にも聞かせて置き度きは、今時の病人を、半年か、一二年か、不婬させ候はゞ自然と煩ひは直るべし。大方虚弱の性也。これを切り得ぬは腑甲斐なき事也。

現代語訳

一、病気を養生すると言うのは、第二段階に落ちる。難しい。仏家にて、形あるものについて判断する様に、病気になる前に、病気を断ち切る事を、医師もしらないようだ。これは、私は確かに経験がある。そのやり方は、飲食、SEXを断って、間をおかずに灸冶する、と言う事だ。私は老人の子であるから、水が少ないのだと考えている。若年の時、医師などからは、「二十歳を超えることはできないだろう。」と言われたので、「たまたま生まれ出て、御奉公もする事が出来ずに果ててしまうのは無念、そうであれば生きてみよう。」と思い立って、七年SEXをしなかったが、終に病気を患う事がなく、今まで、存命している。薬を飲んだ事も無い。また、小さい煩いなどは、気力で押しのけた。今時の人は、生まれつき弱い上に、SEXし過ぎるので、皆若死にをするようだ。たわけている。医師にも聞かせて置きたいのは、今時の病人を、半年か、一、二年か、SEXを禁止させれば自然と患いは治るだろう。だいたいは虚弱の性だ。これを切ることが出来ないのは不甲斐ない事だ。

聞書第二 〇二三九〜貴人や老人の前で知つたか振りは遠慮せよ、聞きにくい

原文

一、貴人老人などの前にて、左右なく學問かた、道徳の事、昔話等遠慮すべし。聞きにくし。

現代語訳

一、貴人や老人などの前で、右も左もなく学問や、道徳の事や、昔話などをするのはゑ遠慮すべきだ。聞き苦しい。

聞書第二 〇二四〇〜花見提重は歸りには踏み捨てる、萬づ仕舞口が大事

原文

一、上方にて花見提重あり。一日の用事也。歸りには踏み散らして捨て候也。さすが都の心附け也。萬づ仕舞口が大事と也。

現代語訳

一、上方には花見用の包み重箱がある。使いすてとの事だ。帰りには踏み散らして捨てる。さすが都の心意気だ。万事、終わり方が大事との事だ。

聞書第二 〇二四一〜武士は武勇に大高慢で死狂ひの覺悟が肝要、よろづ綺麗に

原文

一、武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂ひの覺悟が肝要也。不斷の心立て物云ひ身の取廻し、よろず綺麗にと心掛け、嗜むべし。奉公方は其の位を落着け、人によく談合し、大事のことは構はぬ人に相談し、一生の仕事は人の爲になるばかりと心得、雑務方を知らぬがよし。

現代語訳

一、武士たる者は、武勇では大高慢となって、死狂いの覚悟が肝要だ。普段の心立て、物言い、身の取り廻し、全て綺麗にと心掛けて、嗜むべきだ。奉公の方は自分の身分を落ち着けて、人に良く相談し、大きな事は相談しても差し支えない人に相談し、一生の仕事は人の為になる様にだけと心得て、雑務などは知らない方が良い。

聞書第二 〇二四二〜朋輩に席を越され、氣にせぬもするも時により事による

原文

一、謂はれ無く朋輩に席を越され、居片下りたる時、少しも心にかけず、奉公する人あり。又それを腑甲斐なきと云ひて愚意を申し、引取などするものもあり。いかがと申し候へば、それは時により事によるべし。

現代語訳

一、謂われなく、友や先輩後輩に先を越され、身分が下位になった時にも、少しも気に掛けず、奉公する人が居る。また、それを不甲斐ないといって、愚かな事を言い隠居する者も居て、どちらが良いかと言えば、それは時と場合によるだろう。

聞書第二 〇二四三〜「水增されば船高し」むつかしき事に出會ふ程一段すゝむ心

原文

一、「水增されば船高し」といふことあり。器量者又は我が得方の事は、むつかしき事に出會ふほど、一段すゝむ心になる也。迷惑がるとは、いかい違ひぞと也。

現代語訳

一、「水かさが増せば、船も高く浮かぶ」と言う。器量のある者、または自分が得意な事は、難しい事に出会うほど、一段進んでやろうという気持ちになる。迷惑がるのとは、偉く違うぞ、との事。

聞書第二 〇二四四〜書物は残るもの、手紙も向ふで掛物になると思ひ、嗜みて書け

原文

一、梁山話に、上方にて指南を受け候。書き物は残る物なれば、手紙一通も則ち向様にては掛物になると思うて、嗜みて書くべき也。大方恥を書き置くばかりと也。

現代語訳

一、梁山の話に、上方で指南を受けた。書き物は残るものなので、手紙一通も、相手方で飾られると思って、謹んで書くべきだ。だいたいは恥になる書ばかりだ、との事。

聞書第二 〇二四五〜風體口上手跡で上手を取る、やすき事を人が油斷する

原文

一、奉公人は、風體口上手跡にて上手を取る也。風體の元は時宜也。見事なるもの也。今時、ちと目に立つ衆は、書き讀みの分也。やすき事を、人が油斷して居る也。

現代語訳

一、奉公人は、風体、口上、手跡で上手を取る。風体の根元はその場にふさわしい事だ。見事なものだ。今時、ちょっと目立つ衆は、読み書きが出来るだけだ。簡単な事を、人は油断している。

聞書第二 〇二四六〜人間は何とよくからくつた人形ではないか、明年の盆には客

原文

一、道すがら、何とよからくつた人形ではなきや。終を附けてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、物迄も言ふは上手の細工也。來年の盆には客にぞなるべき。さても、あだな世界かな、忘れてばかり居るぞと。

現代語訳

一、道すがら、何かと良くできた人形ではないか。糸を付けてもいないのに、歩いたり、飛んだり、跳ねたり、口まで利けるのは上手な細工だ。来年の盆には客にでもなっているかもしれん。さても、はかない世界だ。大事な事を忘れてしまっているぞ、との事。

聞書第二 〇二四七〜牛馬に出會ふ時、牛は常態では突かず、馬は跳ぬるのではない

原文

一、柳生殿傳授に、道にて牛に行合ひて、恐るゝ氣色あるは見苦しき也。牛の人を突く時は、常の形にてその儘突くものにあらず。屹と角構へをしてから突くもの也。斯様に心得候へば、脇を通りても恐るゝ事なし、とこれある由。斯くの如き事迄も、武士は嗜むべき事也と。私に云ふ、馬の跳ぬるを度々見候に、はぬるにてはなし。足を引上げて延べて踏む也。馬にせり附かずは、はねても當るまじ。一足立直りても當るまじき也。

現代語訳

一、柳生殿の御伝授に、道で牛に行き会って、恐れる気配を見せるのは見苦しい。牛が人を突くときは、普通の状態のまま突くのではない。きっと角を構えてから突くのものだ。この様に心得ていれば、脇を通っても恐れる事は無い、とあるそうだ。この様な事までも、武士は嗜むべき事であると。私見を言えば、馬の跳ねるのを度々見ていると、跳ねるのではない。足を引き上げて延ばして踏んでいる。馬に張り付かなければ、跳ねても当たらない。一歩立ち直っても当たる事は無いだろう。

聞書第二 〇二四八〜奉公人には良き手本が入る、若い者が精出さぬのは油斷

原文

一、奉公人は良き手本が入る事に候へども、今時手本がなきもの也。風體口上は石井九郎右衛門などにてあるべく候。律儀なる事は村岡五兵衛にて候。物を書き調べ候事は原田殿以後に見及ばず候。さても人は無きもの也。あれこれ寄せても昔の一人前にもならず候。尤も昔もすくなきなるべし。若き衆は少し精出し候はゞ、上手取る時節なるに、油断ぞ、と也。

現代語訳

一、奉公人には良き手本が必要だが、今時は手本がない。風体、口上は石井九郎右衛門などになるだろう。律儀さでは村岡五兵衛だ。物を書き調べする事においては原田殿以後は見当たらない。さても、良い人が居ないものだ。あれこれ寄せても昔の一人前にもならない。尤も、昔もそのような一人前の人は少なかっただろう。若き衆は少し精を出せば上手を取るチャンスなのに油断しているぞ、との事。

聞書第二 〇二四九〜「只今がその時、その時が只今」二つに合點してはならぬ

原文

一、權之丞殿へ話に、只今がその時、その時が只今也。二つに合點してゐる故、その時の間に合はず。只今御前へ召出され、「これこれの儀を、そこにて云つて見よ。」と仰付けられ候時、多分迷惑なるべし。二つに合點して居る證據也。只今がその時と、一つにして置くといふは、終に御前にて物申上ぐる奉公人にてはなけれども、奉公人となるからは、御前にても家老衆の前にても、公儀の御城にて公様方の御前にても、さつぱりと云つて濟ます様に、寝間の隅にて言い習うて置く事也。萬事斯くの如き也。准じて吟味すべし。槍を突く事も、公儀を勤むる事も同然也。斯様にせり詰めて見れば、日頃の油斷、今日の不覺悟、皆知らるゝかと也。

現代語訳

一、権之丞殿へ話した事だが、只今がその時、その時が只今である。二つに別けて考えるので、その時に間に合わない。只今御前へ召し出され、「これこれの件を、そこそこに言って見よ。」と仰せ付けられた時、たぶん当惑してしまうだろう。二つに分けている証拠だ。只今がその時と、一つにして置くと言うのは、まだ御前で物を申上げる奉公人に成れていないが、奉公人となるからには、御前でも御家老衆の前でも、公儀の御城で公様方の御前でも、さっぱりと言って済ませる様に、寝室の隅で言い習っておくと言う事だ。万事はこのような事だ。准じて吟味すべきだ。槍を突く事も、公儀を勤める事も同じだ。この様に突き詰めて見れば、日頃の油断、今日の不覚悟、皆に知れてしまうのではないか、との事。

聞書第二 〇二五〇〜その時が只今、武士道は毎朝毎朝死習ひ切れきれて置く事

原文

一、公儀方などは仕損じ候ても、無調法不慣れなどと言ひて、濟み申すべく候。今度不慮の座に居合はせ候者の後れは何と言譯仕るべきや。善忠様常に、「武士は曲者一種にて濟む。」と御申し候も、斯様の事に候。若し無念也と思はゞ武運に盡きて即座の働きもせず、悪名となるからには、身の置き所なし。なかなか、生きて恥をさらし、胸を焦がすべきよりはと、腹を切りたらば、せめてなるべし。これも命が惜しくてむだ死などといひて生きる方の分別に仕かへ、今から先、五年か十年か廿年の間生きて後指さゝれ恥をさらしみて死失せ、骸の上に恥をぬりつけ、子々孫々、咎もなきものも、縁によりて生れ來り、恥を受け先祖の名を下し、一門親類にも疵をつけ、無念千萬の次第に候。偏へに日頃心掛なく、武士とは何としたるものやら夢にも存ぜず、うかうかと日を暮らし、罰と云ふものなるべし。出し抜きに切られたる者は力及ばず、武運に盡きたるといふものなるべし。切りたる者は遁れぬ行懸りにて、残らぬと思ふ心にて命を捨つるからは、どこといふ事は見えぬ筈也。短氣にて不當介者といふなるべし。相手向二人はすくたれとはいはず、一座の者は生きて恥をかき、武士にあらず。その時が唯今と、かねて吟味工夫して押直して置かねばならぬ筈にて候。皆人油斷にて大方にも一生を過すは不思議の仕合せ也と申し候へば、武道は毎朝毎朝死習ひ、彼に附け是に附け、死にては見死にては見して、切れ切れて置く一つ也。尤も大儀にてはあれども、すれば成る事也。すまじき事にてはなし。又詞の勢が武邊の大事也。今度も取留むれば上也。手に餘らず打捨て、取遁しては、「何某やらぬぞ、卑怯者遁ぐるか。」などと、時に應じ變に乗じ、詞を掛くる勢にて仕濟ます也。何某目心きゝ候者と、かねて諸人の目にも乗り候が仕留めたり。唯今がその時の證據也。横座の槍もこれ也。かねてが入りたるもの也。とかく、かねて吟味し置くべき事數多有るべき也。殿中殺害人は、若し取遁し、切働き、御次邊まで參るべきも相知れず候へば、切捨て然るべく候。尤も、後の御咎め、同類か、意趣有るかとの御詮議もこれあるべく候へども、「唯仕留め申すばかりの所存、科の儀は顧みず。」と、申すべき事に候。

現代語訳

一、公儀方などは仕損じても、無調法、不慣れなどと言って、済んでしまうだろう。今度、不慮の座に居合わせた者の後れは何と言訳するのか。義忠様が常に、「武士は曲者一極にて済む。」と仰っていたのも、この様な事だ。若し無念だ、と思うならば武運が尽き即座の働きもせず、悪名となるので、身の置き所は無い。なかなか、生き恥を晒し、胸を焦がすよりはと、腹を切るのがせいぜいだ。これも命を惜しんで、無駄死にだなどと言い生きる法の判断に変えてしまい、今から先、五年か十年か二十年もの間、生きて後ろ指刺され恥をさらして死に失せて、骸の上にも恥を塗り付け、子々孫々、罪の無い者も、縁によってその家に生まれ来て、恥を受けて先祖の名を見下し、一門親類にも傷を付けてしまう事になり、無念千万の次第だ。ひとえに、日頃心掛けもなく、武士とはどういうものやら全く知らず、うかうかと日を暮らした事に対する、罰と言うものだろう。出し抜きに斬られた者は力及ばず、武運が尽きたと言うものだろう。斬った者は遁れられない行き当たりで、生き残るつもりはないと思う心にて命を捨てるからには、たいした事には見えない筈だ。短気で不当介者というべきだろう。向かい合った二人は、臆病者とは言えないが、一座の者は生きて恥をかいており、武士ではない。その時が唯今と、かねて吟味、工夫して押直して置かねばならない筈である。皆、油断してだいたいで一生を過ごすのは不思議な仕合せだ、と言うならば、やるべきは、武道は毎朝毎朝、死に習い、あれに付けこれに付け、死んで見て、死んで見て、切れきれて置く事一つである。もっとも、大変ではあるが、やれば成る事だ。なにも、すさまじい事ではない。また、言葉の勢いが武辺では大事だ。今度も留める事が出来れば上出来であった。手に余らせずに切り捨て、取り逃がしたら、「何某やるぞ、卑怯者逃げるか。」などと、時に応じ変に乗じて、言葉を掛ける勢いで済ませるのだ。何某は眼心が利く者だ、とかねてより諸人の目に留まっていると仕留めた。唯今がその時の証拠だ。横座の槍もこれだ。かねてから準備が必要だ。とかく、かねてから吟味して置くべき事は数多くあるだろう。殿中殺害人は、もし取り逃がせば、切働き、御次あたりまで参ってしまうかも知れないので、切り捨てて然るべきだ。もっとも、後のお咎めは、同類か、意趣があるかとの御詮議があるだろうが、「唯仕留める事ばかり考えていたので、お咎めの事は顧みなかった。」と、言うべきだ。

聞書第二 〇二五一〜男仕事は日頃の心得で仕果せる、そこに軍神の加護がある

原文

一、日來の心掛程仕果する證據は、此の前、何事ぞ男仕事にてさへあれば、三谷千左衛門てに廻り合ひ、仕果せ申し候。軍神の加護なるべし。

現代語訳

一、日頃から心掛ける程、お役目をやり遂げられる証拠は、この前、何事でも男仕事でさえあれば、三谷千左衛門が廻り合って、やり遂げたことだ。軍神の御加護だろう。

聞書第二 〇二五二〜殿中の堪忍と詞の働き、其の場を忍んで後に埒を明けよ

原文

一、殿中にては、抜き掛けられても手向ひ致さず、其の段、御目付へ斷り候はゞ非議たりとも理に附けらるべしと、承り傳へ候。「後の利運と存じ、當座の恥を堪忍致す事いかが。」と申し候へば、元心師の指南に、詞の働き入る所也。相手を召連れ申すか、我が身ばかりにても御目付へ面談斯くの如きの仕合せ、誠に堪忍仕り難く候へども、殿中憚り多く、御上に對し奉り、當座の恥辱を堪忍仕り候心底御推量下さるべく候。某一命は速に捨て置き候。此の段御届仕り候段、當座の趣次第に申し達すべく候。若し相手御構ひこれなく候はゞ初めに捨て置きたる一命に候へば、何の手もなく打果し申すべく候由。

現代語訳

一、殿中では、刀を抜き切りかかられても、手向かいをしてはならなず、その時、御目付へ断わりを入れれば非議であっても理を付けられるだろう、と伝えられている。「後の利運だと思って、当座の恥を堪忍することはどうか。」と言われれば、元心師の指南にあった、言葉の働きが必要な所である。相手を召し連れるか、自分だけでも御目付へ面談し、この様な成り行きで、誠に堪忍し難かったが、殿中では憚りが多いのでと、お上に対し奉れば、当座の恥辱を堪忍した心の底を推量して下さるだろう。某の一命は速やかに捨て置いた。この段を御届した時、当座の趣、次第を申し伝えるべきである。もし相手に処分がなかった場合は、初めにすてた一命なので、何の手もなく討ち果たすべきである、との事。

聞書第二 〇二五三〜奉公は何卒仕遂げたいと思ふ内がよい、一生仕遂げたいと思へ

原文

一、「武道奉公に付、段々心得打替り申し候。不圖氣に乗り、此の上はあらじと存じ候事も、暫くしていやいや危き事にてありしと、打替り候事ども御座候。時々心相改まり行き申す事ども、若し書附け候はゞ若年より此の方、百度や二百度と申す事はあるまじく候、さてさて埒明き申さゞる事に候。何卒仕届け度く候。」と申し候へば、「其の内がよきなり、仕届け候へば早違ひ候。一生と存じ候へ。」と也。

現代語訳

一、「武道、奉公に付いて、段々心得が変わってきた。ふと調子に乗り、この上は無いと思っても、しばらくしていやいや危ない事があると、心が替わる事などがある。時々心が改まるっていく事を、もし書付けておけば、若年よりこの方、百度や二百度とう程度ではないだろう。さてさて埒が明かない。なにとぞ仕届けたい物だ。」と言ったところ、「その内がよい、仕届けたと思えばそれがは間違いだ。一生続くと思いなされ。」と言う事だ。

聞書第二 〇二五四〜首打落されても一働き、武勇の爲には大悪念を起こせ

原文

一、出し抜きに首打落されても、一働きはしかと成る筈に候。義貞の最後證據也。心かひなく候て、その儘打倒ると相見え候。大野道賢が働きなどは近き事也。これは何かする事と思ふぞ唯一念なる。武勇の爲、怨霊悪鬼とならんと大悪念を起こしたらば、首の落ちたるとて、死ぬ筈にてはなし。

現代語訳

一、出し抜きに首を打ち落とされても、一働きは確かに出来るはずだ。新田義貞の最後が証拠だ。心甲斐が無いから、そのまま打ち倒れると見える。大野道賢の働きなどは、そう昔の話ではない。これは何か事を成し遂げようと思う唯その一念である。武勇の為、怨霊、悪鬼となってやると大悪念を起こしたら、首が落ちたとて、死ぬ筈はない。

聞書第二 〇二五五〜大人は清浄心から名言が出、下々は汚れて詩歌も出來ぬ

原文

一、或人の物語に、大人の名言を仰出さるゝこと、不思議に存じ、不圖存じ當り候。下々は欲得をはじめ、常々きたなき事ばかりを思ひ、胸中を汚し候に付き、俄に思慮をめぐらさんとしても、又詩歌等の作意も出がたく候。大人は元來汚れたる事、御胸中に出來申さず、清浄心に自然と叶はせられ候故と存じ候由。

現代語訳

一、或る人の物語に、身分が高い方々が名言を仰せ出される事を不思議に思ったが、ふと思い当ることがあった。下々は欲得をはじめ、常々汚い事ばかりを考え、胸中を汚しているので、にわかに思慮を巡らそうとしても、詩歌の作意も、出来にくい。身分が高い方々は元来汚れた事は、胸中に出来てこず、清浄心によって自然と叶わせられる為であると思った、との事だ。

聞書第二 〇二五六〜正徳三年八月三日夜、田代又左衛門夢中騒動の場の事

原文

一、正徳三年八月三日夜、夢中騒動の場の事。

現代語訳

一、正徳三年八月三日夜、夢の中での騒動の場の事。

聞書第二 〇二五七〜死は足.許に來る、夢中の戯れと油斷せず精を出して早く仕舞へ

原文

一、貴となく賎となく、老となく少となく、悟りても死に、迷ひても死に、さても死ぬ事かな。我人、死ぬと云ふ事知らぬではなし。爰に奥の手あり。死ぬと知つては居るが、皆人死に果てゝから、我は終りに死ぬ事の様に覺えて、今時分にてはなしと思うて居る也。はかなき事にてはなきや。何もかも役に立たず、夢の中のたはぶれ也。斯様に思ひて油斷してはならず。足許に來る事なるほどに、随分精を出して早く仕舞ふ筈也。

現代語訳

一、貴人も賎人も、老人も少年も、悟っても死に、迷っても死に、なんともまあ、よく死ぬ事か。自分も人も、死ぬと言う事を知らないわけではない。ここに奥の手がある。死ぬと知ってはいるが、皆が死に果ててから、自分は最後に死ぬ様に思って、今はまだ死なないと思っている。「儚い事ではないか。何もかも役に立たず、夢の中の戯れだ。」と、この様に思って油断してはならない。すぐ足許に来る事だとわかっているほど、随分精を出して早く物事を片付けてしまう筈である。

聞書第二 〇二五八〜不慮の災難に逢うた人には却つてよき仕合せと激励せよ

原文

一、不慮の事出來て動轉する人に、笑止なる事などといへば、尚々氣ふさがりて物の理も見えざる也。左様の時、何もなげに、却つてよき仕合せなどといひて、氣を奪ふ位あり。それに取り附いて、格別の理も見ゆるもの也。不定世界の内にて、愁ひも悦びも、心を留むべき様なきこと也。

現代語訳

一、不慮の出来事で動転している人に、笑止だ、などと言えば、尚さら気が塞がって物の理も見えなくなる。そのような時、何もなげに、却って良い成り行きだ、などと言って、気を奪うくらいが良い。それに取り付いて、格別な理が見えるものだ。不安定な世界の内で、憂いも喜びも、心を留めるべき事ではない。

聞書第二 〇二五九〜佞悪の者は人の非を言觸らし陥れて慰む、皆人覺悟すべき事

原文

一、悪逆の者の仕方は、人の上の非を見出し聞き出して。語り廣げ慰む也。「何某こそ斯様の悪事故、御究めにも逢ひ、閉門蟄居仕り候。」などと、無き事までも言ひはやらかし、世上普く取沙汰させて其の者の耳に入れ、さては此の事顯れ候と存じ、まづ病氣分にて引入り候時、「我が身に悪事ある故、手前から引取りたり。その仔細御改めあるべし。」と沙汰して、歴々の耳にも入れ、止む事なく悪事になる様に仕なすもの也。此の手を知らで、うろたふる者を笑ひ、悪事になして面白がり、又我が身のための工みにも仕るものにて候。度々ありし事也。辨財御下り袋酒盛二法師江戸頭人斷り、何れも口達。廣き御家中なれば、斯様の佞悪の者、いつの世にもあるもの也。覺悟すべき事也。

現代語訳

一、悪逆の者のやり方は、人の身の上の非を見出し聞き出して、言いふらして慰みにする。「何某こそこの様な悪事を働いたので、詮議に掛けられ、閉門蟄居の処分を受けた。」などと、無い事までも言い流行らせて、世間にあまねく取り沙汰させて、その者の耳に入れ、さてはあの事がばれてしまったかと思い、仮病で引き籠る時、「自分の身に悪事の覚えがあるから、自分から引き取った。その詳細について改める必要がある。」と騒ぎ立てて、歴々の耳にも入れ、次々と止む事無く悪事と成る様に仕向けるものだ。この手口を知らずに、うろたえる者を笑い、悪事に仕立てて面白がり、また自分の身のための企みにも使うものだ。度々あった事だ。弁財御下りの件、袋酒盛りの件、二法師江戸頭人断りの件、何れも口達されている。広い御家中であるので、この様な悪佞の者は、いつの世にもいるものだ。覚悟すべき事である。

聞書第二 〇二六〇〜欠伸嚏はすまいと思へば一生せぬ、嗜み事は若い内に書き附けよ

原文

一、同座に若輩の人欠伸仕られ候時、欠伸は見苦しきもの也。欠伸、くさめはするまじきと思えば、一生せぬもの也。氣の抜けたる所にて出る也。不圖欠伸出で候はゞ口を隠すべし。くさめは額を押ふると止まる也。又酒を飲む衆はあれども、酒盛りよくする人はなし。公界物也。氣を附くべき事也。斯様の事共、奉公人の嗜み、若き内に一々仕附け度き事也とて、箇条書百ばかり出來申し候。尚々詮議して書き附け候へと也。

現代語訳

一、同座の若い輩が欠伸をしたが、欠伸は見苦しいものだ。欠伸、くしゃみは、すまいと思えば、一生せぬものだ。気が抜けている所に出てくる。ふと欠伸が出たら口を隠すべきだ。くしゃみは額を押えると止まる。また、酒を飲む衆はあれど、酒盛りをうまくやる人は居ない。酒の席は公の場である。気を付けるべき事だ。この様な事は、奉公人の嗜み、若い内に一々しつけたい事なので書きだしたところ、箇条書きが百ばかりできた。なお詮議して書き足しなされ、との事。

聞書第二 〇二六一〜帯の仕様、上下附は鍋島流が第一、帯の結び目をはさむ事

原文

一、「帯の仕様、上下つきは御國の風にましたるはなし。」と、加賀守殿仰せられ候由。皆加州の御仕出也。帯の結び目、はさむ事、他所になし。別してよき也。

現代語訳

一、「帯の締め方は、上下つきは御国のやり方にするに越した事は無い。」と加賀守殿が仰せになったとの事。皆、加州のお仕出しである。帯の結び目を、はさむやり方は他所には無い。特に良い。

聞書第二 〇二六二〜山崎蔵人の金言「見え過ぐる奉公人は悪ろし」─道樂は禁物

原文

一、山崎蔵人申され候は、「見え過ぐる奉公人は悪ろし」と、これ金言にて候。唯奉公に好きたるが當介家職也。或は、理非の穿鑿強く、又は無常を観じ、隠者を好み、濁れる世の中、事繁き都など見なし、佛道修行にて生死を離れ、詩歌の翫び、風雅を好みなどする時事、能き事の様に思ふ也。これは、我が一身を安樂にして心を浄く持つばかり也。隠居人出家人など世外者はよし。奉公人には第一の禁物。斯くの如き者は皆腰抜也。武道奉公は骨を折りて仕にくき事なる故、迯れて安樂を好むもの也。世間に無學文盲にして奉公一偏に精を入れ、又は妻子以下の育てに心掛くる者は、一生見事に暮す也。奉公人にてはありながら、坐禅を勤め、詩歌に心を寄せ、境界を風雅に、異風にする人は、多分身上持ちそこなひ、無力に責められ、俗にも僧にもあらず、公家、隠者にもあらずして、見苦しき有様也。又一偏に傾かず、家職の隙に、氣晴し慰みに餘の事をするは、苦しからずと申す事あり。これは障りまでにはなるまじく候。さりながら、家職一偏に心掛け候へば、曾て少しの隙もなきもの也。隙のあるは未だ打ちはまらざる故也。老功の士の一言は厚きこと也。蔵人年寄役の時分、俳諧はやり、殿中にても俳諧する人多く候へども、蔵人一人終に仕習ひ申されず、「御用濟み候へば、各々は俳諧なされ候へ。」と申し候て、歸り申され候。隠居以後、連歌三昧にて日を暮し申され候由。

現代語訳

一、山崎蔵人が、「目立ちすぎる奉公人は悪い。」と言った。これは金言である。ただ奉公を好むのが、家職の適任者だ。あるいは、非理の詮索が強く、または無常を観じ、隠者を好み、濁った世の中は、物事が煩雑な都の様だなどと見なして、仏道修行で生死を離れ、詩歌を弄び、風雅を好んだりする事を、良い事のように思う。これは、自分の身一つを安楽にして心を清く保つだけの事だ。隠居人、出家人など、世を離れた者ならば良い。奉公人には、第一の禁物だ。この様な者は皆、腰抜けである。武道、奉公は骨を折っても成り難い事であるから、そこから逃げて安楽を好んでいるのだ。世間には無学、文盲でも奉公一偏に精を出して、または妻子以下を育てる事を心掛ける者は、一生見事に暮らすのだ。奉公人でありながら、座禅に勤め、詩歌に心を寄せて、境界を風雅に、異風にする人は、たぶん身の上を崩して、無力に責められ、俗でも僧でもなく、公家、隠者でもないまま、見苦しい有様である。また一偏に傾かず、家職の暇に、気晴らし慰みに余った事をするのは、見苦しくないと言う事もある。これは障りにまではならない。しかしながら、家職一偏に心掛ければ、かつては少しの暇も無いものだった。暇があるのは未だに本領を発揮できていない故だ。老功の士の一言は厚い。蔵人が年寄役の時分には、俳諧が流行り、殿中でも俳諧をする人が多く居たが、蔵人一人は最期までやらず、「仕事が終わったら、各々は俳諧をしなされ。」と言って、帰った。隠居以後は、連歌三昧で日を暮らしなされたと言う。

聞書第二 〇二六三〜君臣の間は忍戀のやうにあれ、奉公の大意は理非の外

原文

一、奉公人は、心入れ一つにてすむこと也。分別藝能にわたれば、事むつかしく、心落着かぬもの也。又業にて御用に立つは下段也。分別もなく、無藝無男にて、何の御用にも立たず、田舎の果にて、一生朽ち果つるものか、我は殿の一人被官也、御懇にあらうも、御情なくあろうも、御存じなさるまいも、それには曾ては構はず、常住御恩の忝なき事を骨髄に徹し、涙を流して大切に存じ奉るまで也。これは易きこと也。これがならぬ生附とてはあるまじ。又此くの如く思ふまい事ではなし。されど斯様の志の衆は稀なるもの也。唯心の内ばかりの事也。長の高き御被官也。戀の心入れなる事也。情けなくつらきほど、思ひ増す也。適にも逢ふ時は、命も捨つる心になり、忍戀などこそよき手本なれ。一生言出す事もなく、思死する心入れは深き事也。又自然偽りに逢ひても、當座は一入悦び、偽りの顯るれば、尚深く思い入る也。君臣の間斯くの如くなるべし。奉公の大意、これにて埒明く也。理非の外なるもの也。私に云ふ君臣の間と戀の心と一致成る事、宗祇註に見當り申し候。

現代語訳

一、奉公人は、心入れ一つで済む事だ。分別、芸能にわたれば、事が難しく、心が落ち着かない物だ。また、技で御用に立つのは下段だ。分別もなく、無芸無男で何の御用にも立たず、田舎の果てで、一生朽ち果てるものか、自分は殿のたった一人の被官であり、気に入られていても、嫌われていても、知られてすらいなくても、そんなことには構わず、常住御恩のかたじけない事を骨髄に徹して、涙を流して大切に思い奉るだけである。これは簡単な事だ。これが生まれつき出来ないと言う事は無いだろう。またこの様に思ってはいけない事ではない。しかしこのような志の衆は稀だ。唯、心の中だけの事だ。長の高いご被官だ。恋の心入れのような事だ。情けなく辛いほど、思いが増すのだ。たまに逢う時も、命を捨てる心となり、忍ぶ恋などこそが良い手本だろう。一生言出す事も無く、思い死にする心入れは深い。また、偶然に偽りを言われても、当座はひとしお喜んで、偽りだと分かっても、なお深く思い入れるのだ。君臣の間もこの様にあるべきだ。奉公の大意は、これだけで埒が明く。理非の外にあるものなのだ。私見を言うと、君臣の間と、恋の心が一致することは、宗祇註にも見当たる。

聞書第二 〇二六四〜御側の奉公はぶらぶらと年を重ね、自然と御用に立つ様に

原文

一、御側の奉公は、成るべく差出でざる様に、ぶらぶらとして年を重ね、自然と御用に立つ様になければ物に成らざる也。一家の内の様なれば也。外様の奉公は、それにては追い附かず、随分迦れなく心掛け、上たる人の目にも附く心持ちある也。

現代語訳

一、御側の方向は、なるべく差し出がましく無い様に、ぶらぶらとして年を重ね、自然と御用に立つ様でなければ物にはならない。一家の中の様である。外様の奉公は、それでは追い付かず、随分と外れが無い様に心掛け、上の人の目に付こうとする気持ちを持つ。

聞書第二 〇二六五〜何よりも唯主君の御一言が忝くて腹を切る志は起こるもの

原文

一、何の徳もなき身にて候へば、させる奉公も仕らず、虎口前仕りたる事もなく候へども、若年の時分より一向に、「殿の一人被官は我也、武勇は我一人也。」と骨髄に徹し、思込み候故が、何たる利発人、御用に立つ人にても押し下げ得申されず候。却つて諸人の取持勿體なく候。唯殿を大切に存じ、何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覺悟仕りたるまでにて候。今こそ申せ、終に人に語り申さず候へども、一念天地を動かす故にて候か、人にゆるされ申し候。御子様方始め、諸人の御懇意誠に痛み入り申す事に候。主人に思ひ附く事は、御譜代の士は、奉公するの、せぬのには、より申さず候へども、勤むる時は又品ある事に候。知行御加増、金銀過分に拜領ほど有り難き事はなく候へども、それよりは唯御一言が忝くて腹を切る志は發るもの也。火事御仕組に、江戸にて御書物心遣と申し上げられ候へば、「若き者に候間、供申附け候へ。」と仰出され候時、忽ち身命を捨つる心になりたり。又大阪にて御夜の物御蒲團拜領の時、「慰方に召使ひ候者に加増とは遠慮故、志までに呉るゝぞ、年寄共へ禮にも及ばぬ。」と仰せられ候時、あれは昔ならば此の蒲團を敷き、此の夜着をかぶり、追腹仕るべきものと、骨髄有難く存じ奉り候也。

現代語訳

一、何の徳もない身であり、さしたる奉公もせず、危険なお役目も勤めたことは無いが、若年の時からひとえに、「我は殿のたった一人の被官だ。武勇は我一人だ。」と骨髄にまで徹して、思い込んできたので、どんな利発な人にも、御用に立つ人にも、先を越されなかった。却って皆様に取り持っていただいた事を勿体なく思う。ただ殿を大事に思い、何事があっても、死狂いは我一人と内心に覚悟を決るだけだ。今だから言える、終に人には話さなかったが、一念天地を動かすからか、人に心を許された。お子様方を始め、皆様に御懇意、誠に痛み入る事だ。主人に思いを寄せる事は、御譜代の士は、奉公するの、しないのにはよらず、勤める時には品がある。知行の増加や、金銀を過分に拝領する事ほど有難いことは無いが、それよりはただ一言がかたじけなくて腹を切る志が湧いてくるものだ。火事御仕組みに、江戸で御書物を遣わすと申し上げられ、「若き者であるから、供を申し付ける」と仰せになったとき、たちまち身命を捨てる心になった。また、大阪にて徹夜の物、御蒲団を拝領した時、「慰み方に召し使う者に、加増は遠慮せねばならぬので、志までにくれてやるのだぞ、年寄り共へ報告の必要は無い。」と仰せられ候時、あれは昔ならば、この布団を敷き、この夜着をかぶり、追い腹するべきものと、骨髄にまで有難く存じ奉るのだ。

聞書第二 〇二六六〜地獄にも落ちよ神罰にも當れ、主人に志立つる外はない

原文

一、歸り新參などは、さても鈍になりたると見ゆる位がよし。しつかりと落着いて動かぬ位がある也。御譜代の忝さ、有難き御國なることは、氣の附くほど御恩が重くなる也。斯様に行當りてよりは、浪人などは何げもなきこと也。この主従の契より外には、何もいらぬこと也。この事はまだなりとて、釋迦孔子天照大神の御出現にて御勧めにても、ぎすともすることにてはなし。地獄にも落ちよ、神罰の、佛道のと云ひ、結構な打上つた道理に轉ぜらるゝもの也。佛神も、これをわるしとは、思召さるまじき也と。

現代語訳

一、帰り新参などは、さても鈍くなったなと見られる位が良い。しっかりと落ち着いて動じない位があるのだ。御譜代のかたじけなさ、有難い御国であることは、気が付くほどに御恩が重くなる。この様に行き当たっては、浪人などは何でもない事だ。この主従の契より他には、なにも要らない。ここまでにはまだ成らなくても、釋迦、孔子、天照大神が出現して御勧めなさっても、すこしも揺らぐことではない。地獄にでも落ちろ、神罰だ、仏道だと言い、結構な思い上がった道理に転ばされるものだ。神仏も、これを悪いとは、思いなさらないだろう、と言う事だ。

聞書第二 〇二六七〜客に行つて差合ひを言はれてから歸るのは追立てられるもの

原文

一、或方に見舞に御同道申し、暫く話ありて罷歸るとあり。亭主、「先づ暫く御話し候へ。晩迄と存じ候へども、客約束。」と申され候。追附罷立ち候。差合ひを言はれてから歸るは、追立てられたるにてこそあれと也。

現代語訳

一、或る方のお見舞いに御同行して、しばらく話して帰ったそうだ。亭主、「まず御話くだされ。晩までと思っていたが、客の約束がある。」といった。それを受けて席を立った。差し合いを言われてから帰るのは、追い立てられた様なものだ、との事。

聞書第二 〇二六八〜寫し紅粉を懐中して酔覺や寝起など顔色悪い時は直すがよい

原文

一、寫し紅粉を懐中したるがよし。自然の時に、酔覺か寝起などは顔の色悪しき事あり。斯様の時、紅粉を引きたるがよき也と。

現代語訳

一、写し紅粉を懐に持っておくと良い。もしもの時に、酔い覚めか、寝起きなどでは顔色が悪い事がある。この様な時、紅粉を引くと良い、との事。

聞書第二 〇二六九〜相良求馬、鍋島光茂の歌道執心は御家長久の基と辯疏

原文

一、相良求馬ほど發明なる人、また出來まじくと思はれ候。打ち見たる所、さても利發なる人と相見え、分別するほど發明顯れ候。光茂公歌道一偏の御執心故、勝茂公より御意見、年寄役は蟄居仰付けられ候。その時、御側の者召出され御叱りにて候。求馬若年の時分にて、末座に罷在り候が、申上げ候は、「丹州様の御氣質を某ならでよく存じ候者御座なく候。御氣質やはらぎ申す爲には、御歌學頂上の儀に候。抜群の御器量にて、御短氣手荒く御座なされ候。されば、御歌御好き遊ばされ候は、御家御長久の基と存じ奉り候。」と申上げ候由也。後迄も斯様に申し候。後日に勝茂公仰せに、「丹後守が側の者呼出し叱り候に、一言も申す者なし。たはけ共にて候。末座に若輩者居り候が、面附き器量に見え候。」と、御意なされ候由。この一段、脇説に承り候が、相違の所あり。尚尋ぬべし。

現代語訳

一、相良求馬ほど發明なる人、また出來まじくと思はれ候。打ち見たる所、さても利發なる人と相見え、分別するほど發明顯れ候。光茂公歌道一偏の御執心故、勝茂公より御意見、年寄役は蟄居仰付けられ候。その時、御側の者召出され御叱りにて候。求馬若年の時分にて、末座に罷在り候が、申上げ候は、「丹州様の御氣質を某ならでよく存じ候者御座なく候。御氣質やはらぎ申す爲には、御歌學頂上の儀に候。抜群の御器量にて、御短氣手荒く御座なされ候。されば、御歌御好き遊ばされ候は、御家御長久の基と存じ奉り候。」と申上げ候由也。後迄も斯様に申し候。後日に勝茂公仰せに、「丹後守が側の者呼出し叱り候に、一言も申す者なし。たはけ共にて候。末座に若輩者居り候が、面附き器量に見え候。」と、御意なされ候由。この一段、脇説に承り候が、相違の所あり。尚尋ぬべし。

聞書第二 〇二七〇〜中野又兵衛先祖の物語、下情が上達せぬと不和が出來る

原文

一、新儀は、たとへ良き事にても、いかゞと也。中野又兵衛元祖の者申し候は、「旦那様御苦勞なされ、我々弓二十五人御仕立て召置かれ候處、散り散りに相成り候に付て、せめて御形見にと存じ、器量の者十人すぐり、澤野殿組に遣はし候が、組中膽を潰させ、御恩奉じと存じ奉り候。残りは鉄砲組に成り候故、弓切り折り、今より火縄扱ひ成るまじくと申し候て、氣味を腐らかし申し候。一人は一石組の押へに參る筈に候へども、請合ひ申さず候に付て、某申し候は、『弓は我等に續くひとなし。然れども老年にて業相成らず。御上の仰付けを、罷成らずなどと申し候は、慮外にて候間、我等一石組に參るべし』と申し乞ひ、今は弓を手にも取り申さず。」と涙を流して話し申し候。斯様の儀、上に相知れ申さず、下の不和出來、笑止の事に候。尤も有難き御家に候へば、追ては、不合點の者あるまじく候。直茂公は、一和の所を肝要に遊ばされ候。又有馬の軍功、一二の入札に遊ばされ候。備へ備へに御目付これあり候由。其の頃諸人不合點の由。敵合ひの働、何として見分明白に成るべきや。御目付武功の人にてこれなく候はゞ、相違これあるべく候。江戸御式臺にて、石井彌七左衛門有馬話を仕出で候時、問田市郎左衛門罷在り、「よき折柄にて候、一番乗を我等より先きに參られ候者これありや、申して見候へ。」と申し候に付て、「それは乗口が違ひ申すべし。」と申し候由。斯様の事に、多く手柄隠れ、残念に存じ候者、數多これあり候由。

現代語訳

一、新義はたとえ良い事でも、如何なものか、との事。中野又兵衛の元の組の者が言う事には、「旦那様が御苦労をなされ、我々弓二十五人を御仕立てなさって召し置かれていたが、散り散りになってしまったので、せめてお形見にと思い、器量がある者を十人選りすぐり、澤野殿の組に遣わせたが、組中の者を驚かせて、御恩返しが出来たと思っている。残りは鉄砲組に成ったので、弓を切り折り、今から火縄を扱うことなどできないと言って、気を腐らせていた。一人は一石組の押えに行くはずだったが、請け合わな方ので、それがしが「弓は我等に続くものなどいない。しかし老年となっては業は成らない。御上の仰せ付けを、罷り成らんなどと言うのは、慮外の事なので、我が替わりに一石組に行こう。」といって説得し、今は弓を手にも取っていない。」と涙を流して話した。この様な件は、上に伝わっておらず、下の不和ができて、笑止な事だ。もっとも有難い家宝であるならば、追って納得のいかない物は居ないはずだ。直茂公は、一和の所を肝要に遊ばされた。また、有馬の軍功では、一、二の入り札をなされた。備え備えに御目付けがあったそうだ。その頃は皆、納得行かなかったそうだ。敵に会ひ、動き回っている時、どうして見分けを明白につけるのか。御目付は武功の人でなければ、見間違えるだろう。江戸御式台で、石井彌七左衛門が有馬の話をし出した時、問田市郎左衛門が、「よい機会だ、一番乗りを我よりも先に参られたものは居るか、申して見よ。」と言ったので、「それは乗り口が違うだろう。」と言ったとの事。この様な事に、多く手柄が隠れ、残念に思っている者は、数多く居る、との事だ。

聞書第二 〇二七一〜他人の家で物を失うた時、不用意に言出して主人に恥かゝすな

原文

一、何某或御方にて笄失ひ候事を、何かと申し候を、同道の衆意見申し候て、沙汰なしに歸られ候。追つて盗み候人相知れ、仕置これあり候。御亭主に恥をかゝせ申す事を、行き當らず言出して見出し申さゞる時は、尚々無興也。刀の拵へ様、置き處、失ひたる時の事をも、兼々吟味仕るべき事の由。

現代語訳

一、何某が或る方の屋敷で、笄をなくしたと何かと言うのを、同道の衆が意見して、騒ぎに成らず帰った。追って盗んだ人が判明し、仕置きがあった。御亭主に恥をかかせるような事を、証拠もないまま言出して、盗人が見つからなかっった場合は、ますます興が無い。刀のこしらえ様、置き所、失った時の事も、かねがね吟味するべき事だそうだ。

聞書第二 〇二七二〜挨拶は一座を見計つて人の氣に障らぬ様に、國家の事は勇猛に

原文

一、興に乗じては口柄にて話をもする事あり。我が心浮いて實なく、脇よりも左様に見ゆる也。その後にて實儀なる事を見合せ話すべし。我が心に實が出來る也。輕い挨拶をする時も、一座を見計りて人の氣に障らざるやう、少し案じてより申すべき也。又武道の方御國家の事に難を申す衆候はゞ愛相盡かして、したゝかに申すべし。兼て覺悟仕るべきの由。

現代語訳

一、興に乗じては、柄にもない話をしてしまう事がある。心が浮いて実が無く、はたからもその様に見える、その後に実に成る事を吟味して話すべきだ。自分の心に実が出来る。軽い挨拶をする時も、一座を見て人の気に障らない様、少し考えて話すべきだ、また武道の御国家の事に難を言う衆がいれば、愛想を尽かせて、したたかに物申すべきだ。かねて覚悟するべき、との事。

聞書第二 〇二七三〜談合事はまづ一人に、大事の相談は密かに無関係の人に

原文

一、談合事などは、まづ一人と示し合ひ、その後聞くべき人々を集め一決すべし。さなければ恨み出來る也。又大事の相談は、かもはぬ人、世外の人などに潜かに批判させたるがよし。贔屓なき故、よく理が見ゆる也。一くるわの人は談合候へば、我が心の理方に申すものにて候。是にては役に立ち申さず候由。二法師口傳。

現代語訳

一、相談事などは、まず一人と示し合い、その後聞くべき人々を集めて決めるべきだ。そうしなければ、恨みが出る。また、大事な相談は、関係のない人や、世を離れた人などに密かに批判させるのが良い。贔屓が無いので、よく理が見える。集団の中の人は相談すれば、自分の見方をする意見を言ってしまうものだ。これでは役に立たない。二法師の口伝。

聞書第二 〇二七四〜兵動左仲奇特にも藝敵の正珍に連歌の宗匠を譲る

原文

一、一藝あるものは藝敵を思ふものになるに、左仲、先年、正珍へ連歌宗匠を譲りたり。奇特の事也。

現代語訳

一、一芸があるものは芸あるものを敵とおもうものだが、左仲は、先年、正珍へ連歌宗匠を譲った。奇特な事である。

聞書第二 〇二七五〜湛然和尚曰く、「風鈴を懸けるのは風を知つて火の用心する爲」

原文

一、湛然和尚風鈴を懸け置かれ、「音を愛するにてはなし、風を知りて火の用心すべき爲也。大寺を持つ氣遣ひは火の用心計り也。」と申し候。風吹きには自身夜廻りなされ、一生火鉢の火を消されず、枕元に行燈、附木取揃へ置き、「俄の時うろたへて、火を早く立つる者なきもの也。」と御申し候。

現代語訳

一、湛然和尚が風鈴を懸けて置かれ、「音を愛するのではなく、風邪を知って火の用心をする爲だ。大寺を持つ氣使いは火の用心ばかりだ。」と言った。風が吹くときにはご自身で見廻りをなされ、一生火鉢の火を消されず、枕元に行燈、付け木をそろえて置き、「俄かの時にはうろたえて、素早く火をおこす者がいない物なのだ。」といった。

聞書第二 〇二七六〜畳の上で武勇を顯す者でないと戦場へも選び出されない

原文

一、公界と寝間の内、虎口前と畳の上、二つになり、俄に作り立つる故、間に合はぬ也。只常々にある事也。畳の上にて武勇の顯るゝ者ならでは、虎口へも選び出されず。

現代語訳

一、公けの場と寝室の中、危険な場所と畳の上、二つを分けて、俄に作りたてるから、間に合わない。ただ常々からの事だ。畳の上で武勇が表れる者でなければ、危険な場所へも選び出されない。

聞書第二 〇二七七〜剛と臆とは平生當つて見ては別らぬ、別段にあるもの

原文

一、剛臆と云ふものは、平生當りて見ては當らず。別段にあるもの也。御留守居二度の口達。

現代語訳

一、剛臆というものは、普段見極めようとしても見究められない。別段にあるものだ。御留守番二度の件、口達。

聞書第二 〇二七八〜何氣なく思はれては奉公できぬ、大事の奉公は一心の覺悟から

原文

一、主人に何氣もなく思はれては、大事の奉公はされぬもの也。此のあたり一心の覺悟にて顯るゝ也。御叱りの時は、御悪口のみ仰出でられ候へども、終に御悪口に逢ひ申さず候。若殿様は主人を見限りさうなる者と度々御意なされ、本望と存じ居り候。光茂公御卒去の時分などは、我等申上げ候事は少しも御疑ひこれなく候由。

現代語訳

一、主人に何気なく思われては、大した奉公は出来ない。このあたり一心の覚悟で表れる。御叱りの時は、御悪口だけが仰せ出されるが、終に御悪口に合ったことが無い。若殿様は主人を見限りそうな者だと度々思われ、本望と思っていた。光茂公が御卒去のときなどは、我が申上げたことは少しも御疑いなされなかった。

聞書第二 〇二七九〜山本常朝、隠居後も常に御家の事を思ひ、これを語る毎に落涙す

原文

一、「今にてもあれ、御家一大事の出來事時は進み出で、一人も先にはやるまじきものをと存じ出し候へば、いつにても落涙仕り候。今は何事も入らず、死人同然と思ひて萬事捨て果て候へども、この一事は若年の時分より、骨髄に徹り思ひ込み候故也。何と忘るべしと思ひても心に任せず、あつぱれ我等一人ならでは無きとのみ存じ候。家老衆を始め御家中の衆、斯様に御家を思うて上げらるまじきかと思ふ也。」と御申し候て、涙落ち聲ふるひ、暫しは話もなり申さず候。「いつもこの事さへ存じ出し候へば、斯様にこれある也。夜半、暁、獨居、對座の時も同然也。誠に益體もなき事。」と也。この話にて落涙の事、數度見及び申し候。

現代語訳

一、「今でも、御家の一大事の出来事の時は進み出て、一人も先にはやらないものをと思うと、いつでも涙が落ちる。今は何もいらず、死人同然と思って万事を捨て切ったが、この一事は若年の時分より、骨髄に徹して思い込んでいるからだ。何とか忘れようと思っても心に任せず、天晴れ自分一人だけの事だと思っている。家老衆を始め御家中の衆、この様に御家を思って上げられないものかとおもう。」といって、涙が落ちて声が震え、しばらくは何も言わなかった。「いつもこの事だけ思い出すと、この様になってしまう。夜半でも、明け方でも、一人でいても、誰かと話しているときでも同じだ。誠に無益なことだ。」と言った。この話で涙を流すところを数回見た。

聞書第二 〇二八〇〜生々世々御家中に生まれ出で、御家は我一人で抱留める

原文

一、一鼎に逢うて、「御家などの崩るゝと云ふ事は末代までこれなく候。仔細は、生々世々、御家中にて生れ出で、御家は我一人して抱留め申す。」と申し候へば、「大膽なる事を申す。」と笑ひ申され候。二十四五の時の事也。卓本和尚に一鼎申され候。「御國に變りたる者出來申し候。昔恥かしからぬ。」と話し仕られ候と、承り申し候。出家物語也。

現代語訳

一、一鼎にあって、「御家が崩れるなどと言う事は末代まで無い。なぜかというと、生々世々、御家中に生まれ出でて、御家は自分ひとりで抱え留める。」と言ったら、「大胆な事を言う。」と笑われた。二十四、五の時の事だ。卓本和尚に一鼎がいった。「御国に変わった者が出てきた。昔でも恥ずかしくない。」と話されたと、聞いている。出家の物語りだ。

聞書第二 〇二八一〜湛然和尚曰く「常に氏神と心を釣り合うて居れ、親同然で運が強い

原文

一、湛然和尚御申し候は、「常に氏神と心を釣合うて居り申すべく候、運強くあるべく候。親同然にて候。」と指南の由。

現代語訳

一、湛然和尚が言われた事には、「常に氏神と心を釣り合っているべきだ。運が強く成るだろう。親同然だ。」と指南されたとの事。

聞書第二 〇二八二〜佐賀に生れて日峯様を拜まぬは疎略、直茂公生前にも願をかけた指南の由。

原文

一、「御國に生れ候者の日峯様を拜み奉らざる事、大方の事也。御存生の内にも、立願懸け申す者共これありたる由に候。大切の事と存じ候は、宿願を懸け奉り候が、一度も叶はざる事これなく候。」と、前神右衛門當々話し申し候由。

現代語訳

一、「御国に生まれた者が日峯様を拝み奉らないとは、いい加減な事だ。御生存の内でも、願いを立て懸けた者共が居たそうだ。大切な事だと思うのは、宿願を懸け奉った事が、一度も叶わなかったことが無い。」と前神右衛門が常々話していた、との事だ。

聞書第二 〇二八三〜日拜は血戦の運命を祈るため、穢を嫌ふ神ならば詮なし

原文

一、神は穢を御嫌ひなされ候由に候へども、一分の見立てこれありて、日拜怠り申さず候。その仔細は、軍中にて血を切りかぶり、死人乗越え乗越え働き候時分、運命を祈り申すためにこそ、かねがねは信心仕る事に候。その時穢ありとて、後向き候神ならば詮なき事と、しかと存じ極め、穢の構ひなく拜仕り候由。

現代語訳

一、神は汚れを御嫌いなさるそうだが、一分の見立てがあって、日々拝む事を怠らない。なぜならば、軍中にて血をかぶり、死人を乗り越え乗り越えする時、運命を祈るためにこそ、普段から信心するのだ。その時に汚れがあると、後ろを向きなさる神ならばしょうがない事と、しかと見究めて、汚れをお構いなしに拝むのだそうだ。

聞書第二 〇二八四〜大難大變にも一言、仕合せの時にも一言、此の一言に工夫せよ

原文

一、大難大變の時も一言也。仕合せよき時も一言也。當座の挨拶話の内も一言也。工夫して云ふべき事也。ひつかりとするもの也。確に覺えあり。精氣を盡し、兼々心がくべき事也。これは、めつたに話しにくき事也。皆心の仕事也。心に覺えたる人ならでは知るまじと也。

現代語訳

一、大難大変の時も一言だ、上手く行っている時も一言だ。当座の挨拶話も一言だ。工夫して言うべき事だ。凛と引き締めるものだ。確かに覚えがある。精気を尽くし、かねがね心掛けるべき事だ。これは、めったに話しにくい事だ。皆、心の仕事である。心に覚えがある人でなくては知らない、との事。

聞書第二 〇二八五〜上座から末座に下り會釋して復席、豫て教訓の禮儀

原文

一、或方にて話半ば、出家見舞あり。上座にて候が、即ち末座にて下り、一通りの禮儀あり。其の後は常の通り也。豫て教訓の禮儀の所也。

現代語訳

一、或る出先にて話半ばで、出家が見舞いに来た。上座にいたが、すぐに末座に下がって、一通りの礼儀を示した。その後はいつもの通りだった。かねてから、訓練していた所だ。

聞書第二 〇二八六〜寄親は兼々組の者に振る舞ひ、會釋の心入あるべき事

原文

一、権之丞、長崎御仕組假物頭付けられ候。それに付き心得の爲書附に、早速打立ち候仕組、夫丸に宿元見せ置き候事どもあり。又組の者召寄せ、馳走など致し、會釋の心入ある事に候。一言にて、あの様なる寄親かなと思ふもの也。御爲の志堅固ならば、此の次は物頭に仰付けらるべく候也。

現代語訳

一、権之丞が、長崎御仕組み仮物頭を仰せ付けられた。それについて、心得の為の書物に、早速出発するときの仕組みは、夫丸に宿元を見せて置く事などとあった。また、組の者を召し寄せ、馳走などをして、愛想よく対応する心入れが必要だ。一言で、あの様な寄り親なのだと、思われてしまうものだ。お役に立とうと言う志が堅固ならば、この次は物頭に仰せ付けられるだろう。

聞書第二 〇二八七〜人間一生好いた事をして暮すべし、但し聞き様では害になる

原文

一、人間一生は、誠に俄に纔の事也。好いた事をして暮すべき也。夢の間の世の中に、好かぬ事計りして、苦を見て暮すは愚なること也。此の事は、わろく聞いては害になる事故、若き衆などに終に語らぬ奥の手也。我は寝る事が好き也。今の境界相應に、彌々禁足して、寝て暮すべしと思ふ也。

現代語訳

一、人間の一生は、誠に僅かな間しかない。好きな事をして暮すべきだ。夢の間の世の中に、好きでは無い事ばかりをして、苦しんで暮す事は愚かな事だ。この事は、悪く聞いては害になる事であるので、若き衆などには終に語らなかった奥の手だ。我は寝ることが好きだ。今の境界相応に、やや出入り禁止にして、寝て暮そうと思う、との事だ。

聞書第二 〇二八八〜現實の事は夢で知れる、夢を相手に精々勵むがよい

原文

一、正徳三年十二月二十八日夜夢の事。志強く成り候程、夢中の様子段々變り申し候。有體の例しは夢にて候。夢を相手にして、精を出し候がよしと也。

現代語訳

一、正徳三年十二月二十八日夜夢の事。志が強くなる程、夢の中の様子が段々変わってくる。有体の例は夢に出てくる。夢を相手にして、精を出すのが良い、との事。

聞書第二 〇二八九〜懺悔は器物の中の水をこぼす様なもの、改むれば跡は消える

原文

一、慙愧懺悔と云ふ事は、器物に入れたる水を打ちかへす様なるもの也。或御方の笄盗人白状の仕様を聞き候へば、不憫になる也。即ち改むれば、忽ち跡は消えて行く也。

現代語訳

一、慙愧、懺悔と言う事は、器物に入れた水を打ち返す様な物だ。あるお方の笄を盗んだ人が白状した様を聞いたら、不憫になる。すぐに改めれば、たちまち跡は消えていくのだ。

聞書第二 〇二九〇〜我が長けを知り、非を知つたとて自慢するな、自己を知るは難い

原文

一、少し眼見え候者は、我が長けを知り、非を知りたりと思ふゆゑ、尚々自慢になるもの也。實に我が長け、我が非を知る事成り難きものの由。海音和尚御話也。

現代語訳

一、少し目立つ者は、自分の身の丈を知り、非を知ったと思うから、なお自慢をするものだ。本当に自分の身の丈を知り、我が非を知る事は、難しいものだとの事。海音和尚の御話だ。

聞書第二 〇二九一〜人の威は外に顯れる、畢竟は氣をぬかさず正念な所が基

原文

一、打見えたる所に、その儘、その人々の丈分の威が顯るゝもの也。引嗜む所に威あり。調子静かなる所に威あり。詞寡き所に威あり。禮儀深き所に威あり。行儀重き所に威あり。奥齒噛みして眼尖なる所に威あり。これ皆、外に顯れたる所也。畢竟は氣をぬかさず、正念なる所が基にて候と成り。

現代語訳

一、見た所、そのまま、その人々の丈分の威が表れるものだ。引いて嗜む所に威がある。静かな調子の所に威がある。言葉すくない所に威がある。礼儀が深い所に威がある。行儀が重い所に威があり。歯を噛み締めて眼が鋭い所に威がある。これ皆、外に表れる所だ。つまりは、気を抜かず、正念であるところが基となっている。

聞書第二 〇二九二〜悪事の引合ひは貪瞋痴、吉事の引合ひは智仁勇に洩れず

原文

一、貧瞋痴と、よく撚り分けたるもの也。世上の悪事出來たる時、引合ひて見るに、この三箇絛に迦るゝ事なし。吉事を引合ひてみるに、智仁勇に洩れずと也。

現代語訳

一、欲深さ、憎しみの怒り、愚かさと、よく選り分けたものだ。世の中に悪事が出てくる時、引きあってみると、この三箇条に外れることは無い。吉事を引きあって見ると、智仁勇に洩れない、と言う事だ。

聞書第二 〇二九三〜奉公人の心入は時代々々で變る。或時は國家を治めて上げよ

原文

一、五郎座衛門申し候は、奉公人の心入れは、なんどきにても根本に替る事はこれなく候へども、時代々々にて趣は替り申し候。直茂公勝茂公は、麁に入り細に入り、何事にても闇き事なく御存知なされ候に付き、萬事御下知の通りに勤め候て迦れこれなく、疑はしき事は御尋ね申上げ、御指南を受け申す事に候。これは仕よき奉公にて候。又御不案内の御主人の時は、随分工夫試案致し、御國家を治め上げ申さず候て罷成らず、これは大儀にて候由。

現代語訳

一、五郎座衛門が言ったことには、奉公人の心入れは、いつでも根本は替わる事がないが、時代時代で趣は替わる。直茂公、勝茂公は、微に入り細に入り、何事でも知らない事は無く御御存知だったので、万事は仰せのとおりに勤めていれば、外れが無く、わからない事はお尋ね申上げ、御指南を受けた。これはやりやすい奉公だった。また、御不案内な御主人の時は、随分と工夫し、思案して、御国家を治めて差し上げなければならず、これは大仕事であった、との事。

聞書第二 〇二九四〜下賤から高位に登つた人はその徳を貴んで一入崇敬せよ

原文

一、數馬(利明)申し候は、茶の湯に古き道具を用ふる事を、むさき事、新しき器綺麗にして然るべしと申す衆あり。又古き道具はしをらしき故用ふるなどと思ふ人もあり。皆相違也。古き道具は下賤の者も取扱ひたる物なれども、よくよくその徳ある故に、大人の手にも觸れらるゝもの也。徳を貴みて也。奉公人も同然也。下賤より高位になりたる人は、その徳ある故也。然るを、氏もなき者と同役はなるまじ、昨今まで足輕にてありし者は頭人には罷成らず、と思ふは以ての外取違ひ也。もとより、その位に備りたる人よりは、下より登りたるは、徳を貴みて一入崇敬する筈也。

現代語訳

一、中野数馬(利明)が言っていたことだが、茶の湯に古い道具を用いることを、むさい事で、新しい器で綺麗にして然るべきだと言う衆がいる。また、古い道具はしおらしいから用いるのだと思っている人もいる。皆間違いだ。古い道具は下賤の者も扱った物ではあるが、よくよくその徳があるので、身分の高い方々の手にも触れられるものだ。徳を貴んでの事だ。奉公人も同じだ。下賤から高位になった人は、その徳があるからだ。それを、氏もない者と同役になどならない、ついこの間まで足軽だった者を頭人にしてはならない、と思うのは以ての外の思い違いだ。元からその位にいる人よりは、下から登った人に対しては、徳を貴んでひとしお崇敬するはずだ。

聞書第二 〇二九五〜山本前神右衛門、常朝七歳の時より武者草鞋で寺參りさす

原文

一、前神右衛門申附けにて、幼稚の時分、市風にふかせ、人馴れ申す爲とて、唐人町出橋に、節々遣わし候由。五歳より各々様方へ名代に出し申し候。七歳より、がんぢうのためとて、武者草鞋をふませ、先祖の寺參り仕らせ候由。

現代語訳

一、山本神右衛門の申し付けで、山本常朝が幼稚の時分、市中の風に吹かせて、人になれさせる為と、唐人町出橋に、時々使いに出したそうだ。五歳から各々様方へ名代に出した。七歳から、頑丈にする為と、武者草鞋をはかせて、先祖の寺参りをさせたそうだ。

聞書第二 〇二九六〜主君にも少しは隔てられるがよい、腰巾着では働かれぬ

原文

一、主にも、家老年寄にも、ちと隔心に思はれねば大業はならず。何事もなく腰に附けられては働かれぬもの也。此の心持ちこれある事の由。

現代語訳

一、主人にも、家老年寄りにも、すこし疎まれ程でなければ大業は成らない。何事もなく腰にぶら下げられるようでは働く事が出来ない物だ。このように心持ちをもつ様に、との事。

聞書第二 〇二九七〜物識が差合ひ、平生の事にも案内知つて障りになる事もある

原文

一、御家の事、御家中の事、古來根元、よく存ぜず候て叶はざる事に候。然れども、時によりては物識が差合ふ事これあるもの也。了簡入るべき事也。平生の事にも、案内知つて支へになることあるもの也。了簡入るべし。石井新五左衛門、山本紛れの事。口達。

現代語訳

一、御家の事、御家中の事を、古来根元から、よく知ら無い様でははかなわない。しかし、時によっては物知りが差し障りとなる事があるものだ。了見が必要な事だ。普段の事でも、詳しく知って差し支かえになる事もあるものだ。了見が必要だ。石井新五左衛門、山本を紛れさせた件の事。口達。

聞書第二 〇二九八〜端的濟まぬ事は埒明かぬ、左足の一歩で鐵壁も踏破れ

原文

一、春岳話に、「そこを引くなと云ふ儘に二人張」と草紙にあり。これが面白く候。端的に濟まぬ事は一生埒明かず、その時一人力にては成し難く、二人力になりて埒明くる所也。後にと思へば、一生の懈怠となる也。又左足を踏み、鐵壁も通れと云ふも面白く候。忽ち飛込み、直ちに踏破る事は一歩の左足也。又大一機を得たる人は、日本開闢以來秀吉一人と思はれ候由。

現代語訳

一、春岳の話に、「そこを動くなと言うだけで二人力」と張り紙があった。これが面白い。端的に済まない事は一生埒が明かず、その時は一人の力では成し難く、二人力になって埒が明く。あとでと思えば、一生の怠けとなる。また左足を踏み、鉄壁も通れと言うのも面白い。たちまち飛び込み、直ちに踏み破るのは、一歩の左足だ。また、大一機を得た人は、日本開闢依頼、秀吉ただ一人だと思われる、との事だ。

聞書第二 〇二九九〜智慧利發ほどきたないものはない、眞實さへあれば立行く

原文

一、何某は、第一顔の皮厚く、器量ありて利發者にて、御用に立つ所もあり。この前、「其の方は利發が残らす外に出て、奥深き所なし。ちと鈍になりて、十の物三つ四つ内に残す事はなるまじきや。」と申し候へば、「それは成り申さず候。」と申し候。ほしめかして、公儀前などさすれば、何處までも仕て行くところあり。さりながら御身邊國家邊、重き事は少しもさせられぬ丈け也。誰々と一風のもの也。利發智慧にて、何事も濟むものと覺えて居る也。智慧利發ほど、きたなき物はなし。まづ、諸人請取らず、帯紐解いて入魂されぬもの也。何某は不辨には見ゆれども、實が有る故に、立つて行く奉公人也と。

現代語訳

一、何某は、第一面の皮が厚く、器量があって利発者なので、御用に立つ所もある。この前、「其の方は利発が残らず外にでて、奥深い所が無い。ちょっと鈍になって、十の物を三つ、四つ残す事はできないのか。」と言ったところ、「それはできません。」と言った。おだてて、公儀前などをさせれば、どこまでも仕えて行く所がある。そうではあるが、御身辺、国家辺、重い事は少しも任せられない丈だ。誰々と同類だ。利発、智慧で何事も済むものだと思っている。智慧、利発ほど汚い物は無い。まず、諸人が請け合わず、打ち解けて入魂されないものだ。何某は能力が劣る様に見えるが、誠実なのが分かるので、際立つ奉公人である、との事。

聞書第二 〇三〇〇〜贔負があつては口がきけぬ、何の引きもないが奉公はしよい

原文

一、殿參りするも奉公人の疵也。すべて御内縁、殿贔負を持ては口がきけぬもの也。折角骨を折りて奉公しても、引きにて仕合せよきなどと後指さゝれ、奉公が無になるもの也。何の引きもなき奉公は仕よきもの也と。

現代語訳

一、殿参りするのも奉公人の疵だ。全て御内縁、殿の贔屓を受けては口がきけないものだ。折角骨を折って奉公しても、贔屓されて上手く行っている、などと後ろ指をさされ、奉公が無になるものだ。何の引きもない奉公はやりやすいものだ、との事。

聞書第二 〇三〇一〜些細な事に念を入れて話す人には大方その裏がある

原文

一、さてもなきことを、念を入れて委しく語る人には、多分其の裏に、申し分があるもの也。それを紛らかし隠さん爲に、何となく繰立てゝ語る也。それは、聞くと胸に不審が立つもの也。

現代語訳

一、しょうもないことを、念を入れて詳しく語る人には、多分その裏に、言いたいことがあるものだ。それを紛らかして隠す為に、何となくまくし立てて語るのだ。それは、聞けば不審に思うものだ。

聞書第二 〇三〇二〜何事も人より一段高き理を見附けよ、相手をみて理を言へ

原文

一、詮議事又は、世間の話を聞く時も、その理を尤もと計り思ひて、そのあたりにぐどついては立越えたる理が見えず。人が黑きと云はゞ黑き筈ではなし、白き筈なり、白き理があるべしと、その事の上に理を附けて、案じて見れば、一段立ち上がりたる理が見ゆるもの也。斯様に眼を附けねば、上手取ることはならず。さてその座にて云ふべき相手ならば、障らぬ様に云ふべし。云はれぬ相手ならば、障らぬ様に取合ひして心にはその理を見出して置きたるがよし。人に越えたる理の見ゆる仕様は是くの如き也。何某縁邊切の事、口達。わる推量裏廻り物疑ひなどとは違ひ候也。

現代語訳

一、詮議事または、世間の話を聞く時、その理をもっともとばかり思って、そのあたりでもたついては立越えた理が見えない。人が黒といえば、黒い筈はない。白い筈だ、白い理があるはずだと、その事の上に理を附けて、考えて見れば、一段上の理が見えるものだ。この様に眼を付けなければ、上手を取ることはできない。さてその座で言うべき相手ならば、気に障らぬように言うべし。言えない相手ならば、障りにならない様に取り合って心の中ではその理を見出して置くとよい。人を越えた理を見る事が出来るやり方は、この様なものだ。何某が縁辺切りの事、口達。悪推量、裏廻り、物疑いとは違う。

聞書第二 〇三〇三〜飢死んでも殿様の爲には神佛にも見向かず朽ち果てよ

原文

一、何某へ意見申し候は、「身持心入、今時の人に勝れ申され、結構の事に候。此の上ながら、立上りたるところに眼を着けられ候へかし。今の分にては惜しき事に候。藝にすかれ候も、低い位也。若し名人に成り御用に立ち候時、先祖以來の侍を立て迦し、藝者にならるゝ事に候。御國の侍は、藝は身を亡ぼすと、兼々見立て候は、此處にて候。尤も低い丈けにては、よき事に候。立上りたると云ふは、何某儀は武士也、さすがの奉公人也と見られ、御家老御用の時、選び出さるゝ事也。御無人の時節は、昔の科も消えて行く事也。御國家治め申上げ候忠節、何かあるべきや。たとへ召出されず候ても、一分の覺悟は、御用に立ちたる事也。多分大事の時は、潜かに相談にまゐるもの也。それに指南申すは、尚々忠義也。他事なきものなる故、少し立上りたる者は、人が捨て置かぬもの也。此のあたりに眼を着けられ候へかし。」と申し候へば、「それは稽古にて成るべきや。」と申され候に付き、「易きこと也、當念に氣を抜かさず、上手の理を見出すまで也、少し精を入るれば慥に成るもの也。又十日の内に、國中に器量響く仕様もあり、何和尚と豫て話の由。彼の和尚は、皆人畏れて居る也。上手の理が得方にて、鳴り廻るところを覺えたる人也。明日にても、何事ぞ申され候を打崩し、せかせ候て上手の理にて云ひ伏せ、理詰仕らるべく候。諸人肝を潰し、云ひ傳へ云ひ傳へて、頓て沙汰するもの也。大犬をかみ伏せねば、響きなきもの也。」と申し候へば、「誠に利發なる和尚。」と申され候故、「左様に阻み申され候故、大業がならず、何のかうばしき事あるべきや。誰にても、そくもやるまじきとかゝらねば、ほこ手は延びず。又義經の勇知仁とのたまひしも、面白く候。今が世にも、四十歳より内は勇智仁也。埋もれ居り候衆は、四十過ぎても勇智仁になくば響きあるまじく候。彼の和尚など、たつた勇智仁を以て鳴り廻り、名高く聞こえ候。又殿様の御上、御家老、年寄衆などの上は、たとへ上手の理を見附け候ても、人に批判をせぬもの也。聞こえぬ事にても御尤もと理を附けて、諸人思ひ附く様に、褒め崇めて置くが忠義也。人の不審いたす様に仕成すは、勿體なきこと也。人の心は、移り易きものにて、一人褒むれば早やそれにかたぶき、一人誹れば悪ろく思ふもの也。又どこへ有り附き候様にと何某申され候由、先年承り候。左様の時は日來の懇意愛想も盡きて、したたかに申したるがよく候事を、破れぬ様に結構づくに取合ひ候へば、うさんに思はるゝもの也。斯様の事に味方の人より轉ぜられ、引腐らかさるゝ事あるもの也。飢死んでも御家來の内也。殿立て迦すことは佛神の勧めにも見向きも仕らざる合點にて、朽果て申さるべし。」と申し候由。

現代語訳

一、何某へ意見していった事には、「身持ち心入れ、今時の人に勝って結構な事だ。その上に、立ち上がった所に眼を付けられなされ。今のままでは惜しい事だ。芸を好まれるのも、低い位だ。もし名人になって御用に立つ時、先祖以来の侍を外れて、芸者になってしまう。御国の侍は、芸は身を亡ぼすと、かねてから見立てているのは、ここである。もっとも、低い丈では、良い事だ。立ち上がると言うのは、何某の件は武士だ、さすがの奉公人だ、とみられ、御家老の御用の時、選び出される事だ。人が足りない時節は、昔の科も消えて行く。御国家を治め申上げる忠節には、何があるべきか。たとえ召し出されなくても、一分の覚悟は、御用に立つ。多分大事の時は、密かに相談に参るものだ。それに指南して申すのは尚々忠義である。他に事が無いから、少し立ち上がった者は、人が捨て置かないものだ。このあたりに眼を付けなされ。」と言ったところ、「それは稽古すれば出来るだろうか。」と言われたので、「簡単な事だ。当念に気をぬかず、上手の理を見出すだけだ。少し精を出せば確かに成るものだ。また、十日の内に、国中に器量を響かせるやり方もあり、何和尚とかねてから話してる。彼の和尚は、皆恐れている。上手の理が得意で、鳴り廻るべき所を知っている人だ。明日にでも、何事か言われたことを打ち崩して、せかして上手の理で言い伏せ、理詰めになされるだろう。諸人、肝を潰して、言い伝え、言い伝えて、やがて評判になるものだ。大犬を噛み伏せなければ、響かないものだ。」と言ったところ、「誠に利発な和尚だ。」と言われたので、「その様に阻んでしまうから、大業が成らない、何の心惹かれることがあるだろうか。誰にでも、後れを取るものかと掛からなければ、矛手が伸びない。また、義経が勇智仁と言ったのも、面白い。今の世にも、四十歳より内は勇智仁だ。埋もれて居る衆は、四十歳を過ぎても勇智仁でなくては響くことはないだろう。彼の和尚など、ただ勇智仁を以て鳴り廻って名が高く聞こえているだけだ。また殿様の御上、御家老、年寄り衆などの上は、たとえ上手の理を見付けても、人に批判を言わないものだ。納得がいかなくても御もっともと理を付けて、諸人が納得するように、褒め崇めて置くのが忠義だ。人の不審に思う様にするのは、勿体ない事だ。人の心は、移り易いものなので、一人褒めればすぐにそちらに傾き、一人そしれば悪く思うものだ。またどこへ取り入る様にと何某が申されたと、先年承った。そのような時は、日頃の懇意、愛想も尽つかせて、したたかに言えばいい事を、否定せずに結構であるように受け合うから、うさんくさいと思われるのだ。この様な事で味方の人から転ぜられ、引き腐らされる事もある。飢え死んでも御家来の内だ。殿を立て外すことは神仏の勧めでも見向きしないと合点して、朽ち果てるべし。」と言ったそうだ。

聞書第二 〇三〇四〜世上の噂話にも物言ひを慎め、口故に敵を持ち遺恨も出來る

原文

一、當時の、差合ひになりさうなる事を言はぬもの也。氣を附け申すべき也。世上に、何かと、むつかしき事などこれある時は、皆人浮き立つて覺え知らずに、その事のみ沙汰する事あり。無用の事也。わろくすれば、口引張りになるか、さなくても、口故に入らざる事に敵を持ち、遺恨出來る也。左様の時は他出を止め、歌など案じて居たるがよく候由。

現代語訳

一、その場で、差支えがありそうな事は言わないものだ。気を付けるべき事だ。世間に、何かと、難しい事などがある時は、皆浮き足立って良く分からないまま、その事のみを話題に取り上げる事がある。無用の事だ。悪くすると、言ったことを取り締まられるか、そうでなくても、口故に敵を作り、遺恨が残る。そのような時は、外出をやめて、歌などを案じているのが良い、との事。

聞書第二 〇三〇五〜人の事は譽むるも似合はぬ、我が丈を知つて修行に精を出せ

原文

一、人事云ふは、大なる失也。譽むるも似合はぬ事也。兎角我がたけをよく知り、我が修行を精を出し、口を慎みたるがよし。

現代語訳

一、他人事に口を出すのは、大きな間違いである。誉めるのも似合わない事だ。とかく自分の身の丈をよく知り、自分の修行に精を出し、口を慎むとよい。

聞書第二 〇三〇六〜徳ある人はゆとりがあり、小人は静かな所がなくがたつき廻る

原文

一、徳ある人は、胸中にゆるりとしたる所がありて、物毎せはしきことなし。小人は、静かなる所なく、當り合ひ候て、がたつき廻り候也。

現代語訳

一、徳のある人は、胸中にゆるりとした所があって、物事が起こる毎にせわしくする事は無い。小さい人は静かな所が無く、当たり合って、がたつき回る。

聞書第二 〇三〇七〜夢の世とはよき見立、悪夢を見て覺めたい事もある

原文

一、夢の世とは、よき見立也。悪夢など見たる時、早く覺めよかしと思ひ、夢にてあれかしなどと思ふ事あり。今日もそれに少しも違はぬ也と。

現代語訳

一、夢の世とは、良い見立てだ。悪夢などを見た時、早く覚めろと思い、夢であってくれなどと思う事がある。今もそれに少しも違わぬ、との事だ。

聞書第二 〇三〇八〜何事も眞實でないと效がない、智慧ある人は智慧の害に陥る

原文

一、智慧ある人は實も不實も智慧にて仕組み、理をつけて仕通ると思ふもの也。智慧の害になる所也。何事も實にてなければ、のうぢなきもの也と。

現代語訳

一、知恵のある人は実も不実も知恵にて仕組み、理屈をつける事が出来ると思うものだ。知恵が害になる所だ。何事も実がなければ、見込みがないものだ。

聞書第二 〇三〇九〜裁判や論争はきたな勝ちよりも見事な負けがよい、相撲の様なもの

原文

一、公事沙汰、又は言ひ募ることなどに、早く負けて見事な負けがあるもの也。相撲の様なるもの也。勝ちたがりて、きたな勝ちするは、負けたるには劣る也。多分きたな負けになるもの也と。上り屋敷の事。口達。

現代語訳

一、公事沙汰、又は言ひ募ることなどに、早く負けて見事な負けがあるもの也。相撲の様なるもの也。勝ちたがりて、きたな勝ちするは、負けたるには劣る也。多分きたな負けになるもの也と。上り屋敷の事。口達。

聞書第二 〇三一〇〜人を悪むは慈悲なき故、慈悲門に括り込めば當り合ふ事がない

原文

一、自他の思ひ強く、人を悪み、えせ中などするは慈悲のすくなき故也。一切悉く慈悲の門に括り込んでからは、あたり合ふことなきもの也。

現代語訳

一、自他の思いが強く、人を憎み、うわべだけを取りつくろったりするのは、慈悲が少ないからだ。一切をことごとく慈悲の門に括り込んでからは、当たり合うことなど無いものだ。

聞書第二 〇三一一〜生噛りは知りだてをする、よく知ると知つた振りはせぬ

原文

一、少し知りたる事、知りだてをする也。初心なる事也。よく知りたる事は、その振見えず、奥ゆかしきもの也。

現代語訳

一、少し知っている事は、知ったかぶりをする。うぶな事だ。よく知っていることは、そのようなそぶりは見えず、奥ゆかしいものだ。

聞書第二 〇三一二〜奉公人の身上は主人の物、大事がつて惜しむべきやうはない

原文

一、権之丞殿へ話に、今時の若き者、女風になりたがる也。結構者人愛の有る人物を破らぬ人、やはらかなる人と云ふ様なるを、よき人と取りはやす時代になりたる故、矛手延びず、突つ切れたる事成らぬ也。第一は身上を抱留むる合點が強き故、大事と計り思ひ、心縮まると見えたり。其方も我が知行にてなく、親の苦勞して取立てられたる物を、養子に來て崩し候てはならぬことと、大事に思はるべきが、それは世上の風也。我等が所存は格別也。奉公する時分、身上の事などは何とも思はざりし也。素より主人のものなれば、大事がり惜しむべき様無き事也。我等生世の中に、奉公方にて浪人切腹して見すれば、本望至極也。奉公人の打留めはこの二箇絛に極りたるもの也。其の中きたな崩れは無念也。おくれ不當介私慾人の害になる事などは有るまじき事也。其の外にては崩すを本望と思ふべし。斯くの如く落着くと、其の儘矛手延びて働かれ、勢格別也。

現代語訳

一、権之丞への話、今時の若い者は、女風になりたがる。結構者、愛のある人物を破らぬ人、やわらかな人と言う様なのを、よい人と取り違えて持て囃す時代に成ったので、矛手が延びず、突っ切れた事が出来ない。第一は身の上を抱え留める気持ちが強いので、大事とばかり思い、心縮まると見える。其の方も自分の知行ではなく、親が苦労して取り立てられた物を、養子に来て崩しては成らないと、大事に思われるべきだが、それは世の中の風である。我が考えは別の各だ。奉公方にて浪人、切腹して見れば、本望至極である。奉公人の打留めはこの二箇条に極まるものだ。其の中でも、きたな崩れは無念だ。遅れをとって、不釣合いな私欲の害になる人になる事などは有るまじき事だ。其の他では崩すのを本望と思うべし。この様に落ち着くと、そのまま矛手が延びて働く事が出来て、その勢いは格別だ。

聞書第二 〇三一三〜悪固まりに一家を立つるな、我が非を知つて探促するが即ち道

原文

一、奉公の志の出來ぬも自慢故也。我をよしと思ひ、贔屓の上から理を附けて、わるがたまりにかたまり、一世帯構へて濟まして居る故也。歎かしき事也。分別藝能大身富貴器量發明、何ぞ一つの取柄に自慢して、我これにて濟むと思ふより、心闇く、人に向ひ尋ねもせず、一生をあらぬ事して果す也。よくよく慢心はあるものなればこそ、何某は御家中一番のたはけなるが、たはけに自慢して、「我はたはけたる故身上恙なし。」と申したると也。奉公の志と云ふは別の事なし。當介を思ひ、自慢を捨て、我が非を知り、何とすればよきものかと探促し、一生成就せず探促仕死に極る也。非を知つて探促するが、即ち取りも直さず道也。

現代語訳

一、奉公人の志が出来ないのは、自慢があるからだ。自分を良しと思い、贔屓目に見て理を付けて、悪い方に凝り固まる。一世帯を構えて、それで済ましてしまっているからだ。分別、芸能、大身、富貴、器量、発明、何か一つの取り柄を自慢して、自分はこれで済むと思う所から、心が暗く、人に向かって尋ねもせずに、一生をあらぬ事をして果ててしまう。よくよく慢心は有るものだからこそ、何某は御家中一番のたわけ者だが、たわけぶりを自慢して、「我はたわけであるからこそ、身上つつがなく出来ている。」と言ったそうだ。奉公人の志と言うのは特別な事ではない。自分に似合う事を考え、自慢を捨てて、自分の非を知り、どうすればよいかと探索し、一生成就せず探索し続けて死に極まるのだ。非を知って探索するのが、即ち取も直さず道である。

聞書第二 〇三一四〜訪問は通じてから行くがよい、長座の客にも不會釋するな

原文

一、何方へ話などに行くには、前方申し通じてより行きたるがよし。何分の隙入有るべきも知れず、亭主の心懸りの所へ行きては無興のもの也。すべては呼ばれねば、行かぬに如くはなし。心の友は稀なるもの也。呼ばれても、心持入るべし。稀の參會ならでは、しまぬもの也。慰講は失多きもの也。又問ひ來る人に、たとひ隙入るとも不會釋すまじき事也。

現代語訳

一、どこかへ話などしに行くときは、事前に連絡してから行くのが良い。何かと時間が必要かもしれず、亭主に心懸かりがある所に言っては、無興の者だ。すべては呼ばれなければ、行かないに越した事は無い。心の友は稀なものだ。呼ばれても、心持ちが要る。稀な参会でなければ、締まらない。慰みに行う講会などは失態が起こりやすいものだ。また、訪問してくる人に、たとえ時間が無くても、不義理はするまじき事だ。

聞書第二 〇三一五〜牛の角を直すとて牛を殺すな、生駒將監の忠義立て主家を崩す

原文

一、生駒壹岐守殿家老前野助左衛門悪行に付、生駒將監公儀へ訴へ、御糺明の上、助左衛門御成敗、生駒殿領知召上げられ、一萬石下され候。この聞書讀み申し候處、將監、忠義ながら、主の家を崩したる也。訴へずば二、三年なりともこたへ申すべし。その内に如何様なる變もこれあり候はゞ抱留め申し候てもあるべく候。又、助左衛門立て置きてはならずと存じ候はゞ、諸々の事は餘の家老共に申し含め、むきむきに打果たすべき事に候。その時は、家の疵になるまじく候。斯様の事に、牛の角直すとて、牛を殺す仕方あるものなりとて、海音申し候は、「先年普周に尋ね候は、『御意見詮議の時、一人御迦し候は、如何の仔細に候や。』と申し候へば、『御意見は仕様がある事に候。參つて申上ぐるなどと云ふは、悪事を銘打つて世上に出す様なるもの也。大人は我が儘に育てゝ曲あるに定りたるもの也。大抵の曲にては國を失ふ程の事はなし。多分仕直すとて、どしめき候時、世上に洩れ聞え、國を失ふ事あり。先年の詮議相止み候が、御國少しも別絛これなく候。』と申され候」由。大方諫言と申すには、佞臣が我が手柄立てか、又後見などありてする事也。忠義の諫言と申すは、よく御請けなさる筋を以て、潜かに申上ぐるもの也。若し御請けなされざる時は、いよいよ御味方になりて御名の立たざる様に仕るものに候。多分腕立てになりたがり、御請けなされざる時、後向き申すが多く候。どしめき廻り候は、不忠の至極に候。又御家などは、根元不思議の御建立故か、悪しき様にても亦自然とよき様に相成り候と也。

現代語訳

一、生駒壱岐守殿の家老前野助左衛門が悪行を行ったので、生駒将監が公儀へ訴え、御問いただしなされた上で、助左衛門御成敗となり、生駒殿の領地は召し上げられ、一万石にされてしまった。この聞書を読んだところ、将監は、忠義であるが、主の家を崩してしまった。訴えなければ、二、三年は持ちこたえただろう。その内にどのような変化でも起こったならば、抱き留める方法もあったであろう。また、助左衛門をそのままにして置けないと考えたならば、諸々の事は、他の家老共に話を通して置いた上で、自ら打ち果たすべき事であった。その時は、御家の疵にはならないはずだ。この様な事に、牛の角を直そうとして、牛を殺す様な事が起こるものだと、海音和尚が言ったのは、「先年、普周に『御意見、詮議の時、一人で席を外したのは、どのような理由か。』と尋ねた所、『御意見するには、やり方がある。参って申上げるなどと言うのは、悪名を銘打って世間に晒す様な物だ。身分の高い方々は、我が儘に育って癖があるに決まっている。大抵の癖では国を失う程の事は無い。多分に御家を正しく直そうとして、騒ぎ立てる時、世間に洩れ聞こえて、国を失う事がある。先年の詮議は取り止められたが、御国は少しも別状ない。』と申された。」との事だ。おおかた諫言というものは、不届きな家臣が手柄を立てようとしてか、または後見などがあってする事だ。忠義の諫言と言うのは、よく聞き入れられるように筋立てて、密かに申上げるものだ。若し聞き入れられない時は、それでも御味方となって悪い評判が立たない様にするものだ。多分に手柄を上げたがり、聞き入れられない時には、後ろを向いてしまう者が多い。騒ぎ立て廻るのは、不忠の至極である。また御家などは、根元から人知を超えた御建立の為か、悪い事が起きても、自然と良い方向になっていくものだ。

聞書第二 〇三一六〜善事も過ぎると悪い、説法教訓も言ひ過ぎると却つて害になる

原文

一、良き事も過ぐるは悪し。談義説法教訓なども、言ひ過ごせば、害になり候と也。

現代語訳

一、良い事でもやり過ぎるのは悪い。談義、説法、教訓なども、云いすぎれば、害になるのだ、との事。

聞書第二 〇三一七〜邪智深き佞人は我が立身の才覺のみ、それを見抜く事は難い

原文

一、佞人に、氣力強く、邪智深き者ある時は、主人をだまし込み、我が立身の才覺のみいたし候。主の氣に入る筋を考へ覺えたる者は、少々にて邪の所見えぬもの也。よくよく見にくき物なればこそ、権現様を彌四郎はだましぬき申し候。斯様の者は、多分新參成上りにあるもの也。譜代大身には稀にある也と。

現代語訳

一、心が邪まな人に、気力が強く、邪智深い者が居る時は、主人を騙し込んで、自分の立身の企みだけをやる。主人の気に入る事を考え覚えがある者は、少々の事では邪な所が見えないものだ。よくよく見にくい物だからこそ、権現様を彌四郎は騙しぬいたのだ。この様な者は、多分、新参者で成り上がった者である。譜代大身には稀な事だ、との事。

聞書第二 〇三一八〜山本神右衛門曰く、「娘の子はそだてぬがよし。名字に疵をつけ、親に耻をかゝす」

原文

一、前神右衛門申し候は、「娘の子は育てぬがよし。名字に疵をつけ、親に耻をかゝする事あり。頭子などは格別、其の外は捨て申すべし。」と也。

現代語訳

一、神右衛門が申した事には、「娘の子は育てないのが良い。名字に疵を付け、親に恥をかかせることがある。初めての子などは別格だが、その他は捨てるべし。」との事だ。

聞書第二 〇三一九〜恵芳和尚、鍋島安藝の「武邊は氣違」を佛道に應用す

原文

一、恵芳和尚話に、安藝殿物語に武邊は氣違にならねばされぬもの也と、御申し候由。我等覺悟に合ひ候儀不思議に存じ、その後いよいよ氣違に極め候と也。

現代語訳

一、恵芳和尚の話では、安芸殿の物語では武辺は氣違いにならねば成されぬもの、と言ったそうだ。我等の覚悟に合っており不思議に思い、その後いよいよ氣違いを究めた、との事。

聞書第二 〇三二〇〜茶の湯の本意は六根を清くする爲、全く慰み事ではない

原文

一、前數馬申し候は、「茶の湯の本意は、六根を清くする爲也。眼に掛物生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味わひ、手足格を正し、五根清浄なる時、意自ら清浄也。畢竟意を清くする所也。我は二六時中茶の湯の心離れず、全く慰み事にあらず、又道具は、たけだけ相應にするもの也。梅一字の詩に、前村深雪裏昨夜數枝開この數枝富貴也とて、一枝と直されたりと也。一枝の所がわび数寄也。」と申され候由。

現代語訳

一、中野数馬が言ったことには、「茶の湯の本意は、六根を清くするためだ。眼に掛物、生花を見て、花に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味わい、手足は格を正し、五根が清浄である時、意志はおのずと清浄となる。結局は意を清くするのである。我は二六時中、茶の湯の事が心を離れず、全く慰みごとではなく、また道具は自分の身の丈に相応な物にするものだ。梅一字の詩に、

前村深雪裏昨夜數枝開

この数枝が贅沢すぎると言って、一枝と直されたそうだ。一枝の所がわび数寄である。」と言った、との事だ。

聞書第二 〇三二一〜人の悪事も慈悲門に括り込み、よくせねば置かぬと念願せよ

原文

一、恩を受けたる人、懇意の人、味方の人には、たとひ悪事ありとも潜かに意見いたし、世間にはよき様に取成し、悪名を云ひふさぎ、譽め立て、無二の味方、一騎當千になり、内々にてよく受け候様に意見すれば、疵も直り、よき者になる也。譽め立て候へば、人の心も移り、自然と悪しき沙汰止むもの也。すべて慈悲門に括り込みて、よくなさねば置かぬ念願也と。

現代語訳

一、恩を受けた人、懇意にしている人、味方の人には、たとえ悪事があっても密かに意見し、世間には良い様に取り成し、悪名を云い塞いで誉め立てて、無二の味方、一騎当千になり、内々でよく受け取られる様に意見すれば、疵も直り、良い者になる。褒め立てれば、人の心も移り、自然と悪い評判も止むものだ。全て慈悲の門に括り込んで、良く直さないままにはして置けない念願である、との事。

聞書第二 〇三二二〜意地は刀の様な物、砥ぎすまして鞘に納め置き、時々出して見よ

原文

一、或人云ふ、意地は内にあると外にあるとの二つ也。外にも内にもなきものは役に立たず。たとへば刀の身の如く、切れ物を砥ぎはしらかして鞘に納めて置き、自然には抜きて眉毛にかけ、拭いて納むるがよし。外にばかりありて、白刃を不斷振廻はす者には人が寄り附かず、一味の者無きもの也。内にばかり納め置き候へば、錆も附き刃も鈍り、人が思ひこなすもの也と。

現代語訳

一、或る人が言ったことには、意地は内にあるのと外にあるのとの二つである。外にも内にも無い者は役に立たない。たとへば刀の身の如く、切れ物を研ぎ澄まして鞘に納めて置き、何かあったときには抜いて眉毛にかけ、拭いて納めるとよい。外ばかりあがって、白刃を普段から振り回す者には人が寄り付かず、仲間が居ないものだ。内にばかりに納めて置けば、錆び付いて刃も鈍り、人が軽蔑するものである、との事だ。

聞書第二 〇三二三〜小利口では濟まぬ、切るゝ所は早く据つて突つ切れ

原文

一、小利口などにては物事すまぬもの也。大きに見ねばならず、是非の沙汰など、むざとすまじき事也。又ぐなつきてはならず、切るゝ所早く据つて、突つ切れて埒明けねば、武士にてはなき也と。

現代語訳

一、小利口などでは物事を済ます事は出来ないものだ。大きく見ねばならず、是非の判断なども、むざむざとしてはいけない。また、ぐだついてはならず、切れる所に腹を据えて、突っ切れて埒を明けねば、武士ではない、との事だ。

聞書第二 〇三二四〜「大儀ながら御國を荷うて上げ候へ。」この一言が忘れられぬ

原文

一、若年の時分、一鼎申され候は、「其方は末頼もしき器量にて候。我が死後に御家を偏へに頼み申し候。大儀ながら御國を荷うて上げ候へ。」と涙を出し、申し聞かされ候。その時不圖胸にこたへ、この一言が荷になり、今に於て忘れ申さず候。斯様の詞始めて承り候。今時はやらぬ事にて候。人に教訓するも、身持心持、嗜みよく奉公仕り候へと申すが一ぱいなり。これは我が身の歎きまで也。いかい行違也。斯様の一言、最早云ふ人もあるまじ。歎はしき事の由。

現代語訳

一、若年の時分、石田一鼎に言われた事には、「其の方は末頼もしい器量だ。我が死後に御家を偏に頼んだ。大変だろうが御国を担ってくれ。」と涙をだし、言い聞かされた。その時、ふと胸にこたえ、この一言が荷になり、今においても忘れていない。この様な言葉を初めて言われた。今時では流行らぬ事だ。人に教訓するも、身持ち心持ち、嗜みよく奉公しろと言うのが精一杯だ。これは我が身についての歎きだ。いかん行き違いだ。この様な一言は、もはや言う人もいない。嘆かわしい事だ、との事。

聞書第二 〇三二五〜大事の家中を不和にしてはならぬ、喧嘩や仲直りは仕様がある

原文

一、意趣遺恨出來、公事沙汰など致す人は、扱ひ様にて何の事もなく濟むもの也。一つ橋にて、奴出會ひ互ひによけず、打果すと候所へ、大根賣が中に入り、朸の先に双方取りつかせ、荷なひ替へ通したる様なるもの也。やり様は、幾筋もある事也。これ又主君への奉公也。大事の御家中、めつたに死なせ、不和になしてはならぬ事也。先年、京都にて、江島正兵衛を源藏酒の上りにて、意見を申し候。これが源蔵酒癖にて候。翌朝、正兵衛大小を差し、源蔵長屋に仕懸け申し候を、本村武右衛門聞附け、すかし候て、長屋へ連れ歸り候由にて、武右衛門我等長屋へ參り、「如何仕るべきや。」と申し候なかば、源蔵參り、「正兵衛は居り申さず候や。先程あの方へ事々しく仕懸け參り候由、たはけたる家來共拙者へ申し聞けず、唯今聞附け參りたり。」と申し候て、正兵衛小屋へ參るべくと仕り候を差留め、「先づ歸らるべく候。我等請取り候間、正兵衛所存聞届け、知らせ申すべき」由申し聞け、歸し申し候。さ候て、正兵衛を呼び、承り候へば、「諸人の中にて誤りを數へ立て、意見を申され候は、意見とは存ぜず、意趣ありて恥をかゝせ申さるゝ儀かと存じ候。意趣直ちに承るべくと存じ、仕懸け候」由申し候。某申し候は、「尤もの事也。さりながら、源蔵遺恨あるまじく候。意見が酒癖にて候。永山六郎は、抜くが酒癖にて候。癖は色々あるものにて、酒の云ひたる事を實に取持ち、大事の御家來二人打果し、主人に損とらせ、どこが忠節にてこれあるべきや。其方も、御重恩の人に候へば、何卒御恩を奉ずべきとこそ存ぜらるべく候へ。曾て恥になる事これなく候。源蔵心底、我等聞合せ申し達すべし。」と申し候て歸し、源蔵へ、「斯様々々。」と申し候はへば、「前夜申し候事、曾て覺え申さず候。素より遺恨少しもこれなし。」と申し候に付、「さらば、正兵衛にその旨申し聞け、頭人に向ひ事々しく仕懸け候事は不届に候へども、年若にて不了簡もこれあるべく候。向後嗜み候様に申し聞かすべし。」と申し候て歸らせ、正兵衛に申し聞け、何の事もなく候。その上にて、正兵衛納戸役斷り申し候に付き、我等頻りに差留め候處、潜かに北島甚左衛門へ相頼み御國元へ斷り申し遣はし候由、武右衛門へ申し聞け候にに付、武右衛門より申し遣はし、甚左衛門手元を差留め、正兵衛に右の通り申し達し候へば、「いづれ仲好くはあるまじく候間、代り申すべし。」と申し候。それに付、「仲好くなり候事は、我等請取り申し候。先づ了簡して見られ候へ。半途に代り申され候節は源蔵と酒事の上にて遺恨出來、下り申され候と沙汰これあり候時は、其方も酒飲みにて候へば、奉公の障りになり、源蔵ためにも罷り成らず候。暫く時節を待ち申され候様に。」と申し宥め、寄々に、「源蔵と無二の仲になり候へ。」と申し候へば、「我等左様に存じ候ても、源蔵殿心解け申すまじく候。」と申し候。「その解かし様相傳へ申すべく候。向には構はず、其方心計りに、さてさて痛み入りたる事かな、よく顧み候へば我等に誤りあり、殊に頭人に無禮を仕懸け不調法、この上は彼方役中には粉骨に勤むべくと存ぜられ候へば、その心忽ち向に感通し、其の儘仲好くなる事に候。其方も酒癖あり、我が非を知つて禁酒して見られ候へ。」と節々申し候に付、不圖得心いたし、禁酒仕り候。そのご正兵衛心入、源蔵に話し候へば、「さてさて感じ入りたる事、痛み入り、恥ずかしき仕合せ、この上は我が役中には加へ申すまじく」と無二の仲になり、源蔵代り申し來たり候節、源蔵より申し遣はし正兵衛も代り申し候。仕様により、斯様になる事に候。さて又、當座にて、酒狂にても妄言にても、耳に立ち候事申す人これある節は、それ相應の返答仕りたるがよし。愚痴に候て、早胸ふさがり心せき、即座の一言出合はず、これにては残らぬ仕合せと打果し申す事、たはけたる死様也。馬鹿者と申し懸け候はゞ、たはけ者と返答して濟む事に候。正兵衛も其の座にて、『御意見は忝く候へども、それは追て差向ひに承るべく候。諸人の中にては恥御かゝせ候様に聞え申し候。又人の上言ひぐろうならば、御手前の上にも御座あるべく候。兎角酒の上にて申す理窟は違ひ申し候。本性の時承り、嗜みに仕るべく候。先づ御酒御上り候へ。』などと輕く取りなせば、恥にもならず、腹も立たず、その上にても理不盡に申し懸け候はゞ相當相當の返答をして濟む事也。又爰には些か様子あり、兼てしかとしたる所ある者には、酒狂人もめつたに言ひ懸け得ぬもの也。先年御城にて、何某へ何某ざれ言の上にて、磔道具よと申し候を憤り、打果すべくと仕り候を、五郎左衛門成富蔵人泊り番にて聞附け扱ひ、何某夜中に態と出仕候て斷りいはせ、濟み申し候。これもその座にて、其方こそ火炙り道具よと返言すれば、何の事もなく候。始終だまるは腰抜也。詞の働き、當座の一言、心掛くべき事也と。

現代語訳

一、意趣、遺恨が出来て、公事沙汰などを起こす人は、扱い様で何事もなく済ませられるものだ。一橋で、出くわしたものが互いに避けず、果し合いになりそうな所へ、大根売りが間に入り、担ぎ棒の両端に取り付かせて、入れ替えて通してやる様なののだ。やり方は、何通りもある。これはまた、主君への奉公でも同じことだ。大事な御家中を、滅多な事で死なせたり、不和にしてはならぬ。先年、京都にて、江島正兵衛に対し源蔵が酒の席で意見した。これが源蔵の酒癖だ。翌日、正兵衛が刀を差して、源蔵屋敷へ押しかけた所を、本村武右衛門が聞き付け、宥めすかして、長屋へ帰ったとので、武右衛門が我の長屋へ来て、「どうするべきか。」と言いかけた半ばに、源蔵が来て、「正兵衛は居ないか。先ほど物々しく仕掛けてきたそうだが、たわけた家来共が拙者に知らせず、唯今聞き付けて参った。」と言って、正兵衛の小屋へ行こうとするのを差し留めて、「先ず、帰りなされ。我等が預かるので、正兵衛の所存を聞き届け、知らせる。」と言い聞かせて、帰した。そして、正兵衛を呼び、話を聞いたところ、「皆の前で間違いを数え立てて、意見を言われるのは、意見とは思えず、意趣があって恥をかかせようとしたのだと思った。意趣は直ちに承るべきだと、仕掛けたのだ。」との旨を述べた。某が言ったのは、「もっともの事だ。そうではあるが、源蔵に遺恨は無いだろう。意見するのが酒癖なのだ、永山六郎は、刀を抜くのが酒癖だ。癖は色々あるもので、酒の席で言ったことを真に受けて、大事な御家来を二人も打ち果して、主人に損をとらせ、どこが忠節であろうか。其の方も、御恩を受けた人ならば、どうにか御恩を返そうとこそ考えなされ。恥になる事ではない。源蔵の心底は我等が聞き合わせて言い聞かせる。」と言って帰し、源蔵へ、「かくかくしかじか」と言ったところ、「前夜に言ったことは覚えていない。元より遺恨など少しもない。」と言ったので、「そうでれば、正兵衛にその旨、申し開き、頭人に向けて物々しく仕掛けたのは不届きだが、若年なので不了簡もあるだろう。あとは嗜む様にと、申し聞かせなさい。」と言って帰らせ、正兵衛に伝え、何事もなくなった。その件で、正兵衛が納戸役を辞退したので、我等はしきりに引き留めた所、ひそかに北島甚左衛門へ頼んで御国元へ断わりを申し遣わしているとの旨を、武右衛門に伝えたので、武右衛門から言い聞かせて、甚左衛門の手元で差し留め、正兵衛に右の通りに言い伝えた所、「いづれも仲良くないので、代るのだ。」と言った。それに付いて、「仲良く成る件は、我等が受け取った。先ずは良く考えて見なさい。途中で代わってしまっては源蔵と酒の上での遺恨を残し、御国に下れと沙汰があった時は、其の方も酒飲みであるから、奉公の障りになり、源蔵の為にもならない。暫く時機を待つように。」と言い宥めて、ことある毎に、「源蔵と無二の仲になりなさい。」と言ったところ、「我等がその様に思っても、源蔵殿は心を解かないだろう。」と言った。「その解かし方を伝えよう。向うには構わず、其の方の心だけで、さてさてと痛み入っている事ではないか、よく顧みれば、我等に誤りがあり、特に頭人に無礼を仕掛け不調法、この上は御役目の時には粉骨して勤めるべく思っていれば、その心はたちまち向うに感じ通じて、そのまま仲良くなる事だろう。其の方も酒癖があり、我が非を知って禁酒してみなされ。」と節々にいいつけ、ふと納得し、禁酒した。その後、正兵衛の心入れを、源蔵にも話したところ、「さてさて感じ入る事、痛み入り、恥ずかしき仕合せ、この上は自分の役中には余所へ加えたりしない。」と無二の仲になり、源蔵の御役目が代わったとき、源蔵より申し遣わされて正兵衛も代わった。やり方によっては、この様な事に成るのだ。さて又、当座にて、酒狂でも、妄言でも、耳に立つ事を言う人がある時は、それ相応の返答をすると良い。愚痴で胸がふさがり、心が急いて、即座の一言が出ず、これでは残らぬやり方だと言って打ち果す事、たわけた死にざまだ。馬鹿者と言われれば、たわけ者と返答すれば済む事だ。正兵衛もその場で、『御意見は忝いが、それは追って差向って承ろう。皆の前では恥をかかせる様に聞こえる。また人の上に言いたいことならば、御手前の上にも有るだろう。とかく酒の上で言う理屈は違う。素面の時に承り、嗜みに仕る。まず、お酒を御上りなされ。』などと、軽くうけとれば、恥にもならず、腹も立たず、その上に理不尽を言ってくる様であれば、相当相当の返答をして済む事だ。またここにはいささか様子があり、兼ねてからしっかりとした所のある者には、酒狂人もめったに言い掛かりを付ける事が出来ないものだ。先年、御城にて何某へ何某が戯言で、磔道具よ、と言ったのを憤り、打ち果そうとしたのを、五郎左衛門、成富蔵人が泊り番で聞き付けて扱い、何某が夜中にわざと出仕させて断わりを言わせ、済ませた。これもその場で、其の方こそ火あぶり道具よ、と返言すれば、何の事も無かった。始終黙るのは腰抜けだ。詞の働き、当座の一言、心掛けるべき事だ。

聞書第二 〇三二六〜牛島源蔵京都留守居役の事、物は言ひ様で理が聞こえる

原文

一、源蔵御究めの沙汰承り候に付。何某殿へ參り、「人をのけ下され候様に。」と申し、「何事相究めらるゝ事に候や。幸ひ爰元參り居り、承り届けず候ては罷上り難く候。無遠慮千萬の儀に候へども、私心底黙止難く候て御尋ね仕り候。御知らせ下され候様に。」と、據なく仕懸け申し候に付、「御屋形道具を自分に取遣ひ、節々御門外へ出で、遊山所へ參り、又下女を召抱へ大酒仕り候事言上。」と申され候に付て、「さてさて落着き申し候。何事もなき事にて候。數年の留守居にて、似合の諸道具は事缺き申さず、御手前様御越の時分も御覧の通りに候。留守居寄合三四十人の客に不足の物、御道具を借り申す事に候。是れ御用筋にて候。又御役人方堂上方勤に間もなく、外へ出て他方の留守居銀主參會には茶屋芝居不參にては御用相濟まず候。下女置き候事は數年詰の者は足輕手男迄召使ひ申す事、御存じの前に候。大酒仕り候事は今に初まり申さず候へども、酒狂仕りたる事一度も御座なく候。然れば皆以御咎めなさるべき事にて御座なく候。不慣れの歩行目付、見馴れ申さゞる事故御法度背きの様に存じ候て、言上仕り候は尤もに候。留守居役は右の通り仕らず候ては罷成らざるものに候。安堵仕り候」由申し候て罷歸り候。然れば此の節御免しにて居着に相勤め申され候譯これあり候。物は言ひ様にて理よく聞え申し候。仕懸け様にて聞取り申す事もこれあり候由。

現代語訳

一、源蔵の御究めの沙汰を承った件について。何某殿の所へ参って、「人をのけて下されます様に。」と言い、「どのように極ったか。幸いここもとに参っており、承らずには上がたい。無遠慮千万の事だが、私心底黙止しがたくて尋ねている。御知らせ下されます様に。」と。よんどころなく仕掛けて言うので、「御屋形道具を私物と取り違い、節々門外へ出て、遊山所へ行き、また下女を召し抱え大酒飲んだとの事だ。」と言ったので、「さてさて落ち着いた。何事もない事だ。数年の留守居で、似合いの道具は事欠かず、御手前様が御越しの時にも御覧の通りだ。留守居、寄合三、四十人の客に不足の物は、御道具を借りる。これは御用筋だ。また御役人方は堂上方勤めで忙しく、外へでて他方の留守居、銀主参会には茶屋芝居に不参加では済まない。下女を置くことは数年詰めの者は足軽、手男まで召使う事は当たり前だ。大酒を飲んだことは、今に始まったことではないが、酒狂をしたことは一度もない。然れば、皆お咎めなされることではない。不慣れの歩行目付が、見慣れない事なので、御法度背きの様に思って、上に報告したのはもっともだ。留守居役は右の通りにしなくては勤められないものだ。安堵した。」と言って帰った。然れば、この節は許されたが、留任したのにはこのような訳があたのだ。物は言い様で理屈が良く聞こえる。仕掛け様で聞き取られることもある、との事だ。

聞書第二 〇三二七〜某々和尚追院の時の事、我が身は見えぬ所があるもの

原文

一、何和尚へ耳に口を附け、追院の時分も申し候様に、暫くは行方も知られざる様に成され、夫れには及ばずと御指圖の時、佐嘉へも御出で候時は、現在の時よりは光さし申し候。今ほど佐嘉御出頭諸人受取り申さず候。若し上より御沙汰も御座候時は、何事も捨たり申し候。何和尚追院の後、高傳寺に居られ候事御耳に達し、内意にて、「二度佐嘉へ出で申さるゝ儀罷成らず候。よくよく御了簡候へ。」と申し捨て罷立ち候。我が身は見えぬ所があるものにて候由。

現代語訳

一、何和尚へ耳に口を付け、院を追われたときに申した様に、暫くは行方も知られない様になされ、それに及ばずと御指図があり、佐賀へも御出でになった時は、現在よりは光がさす。今、佐賀に出頭しても誰も受け取らない。若し上より御沙汰がある時は、何事もすたれてしまう。何和尚が院を追われた後、高伝寺に居られる事を耳にし、内意にて、「二度と佐賀へ出る事は罷り成らず。よくよくお考え下され。」と申し捨てて立ち去った。自分の身が見えていない所があるものだ、との事。

聞書第二 〇三二八〜小々姓仲間船中の氣傳、廻船舸子を造作なく追散らす

原文

一、小々姓仲間五六人、同船にて罷上り候時分、夜中に此方の船、廻船へ突當り申し候。舸子五六人飛び乗り、「舟作法に任せ碇を取上げ申す。」とひしめき候を承り、走り立ち、「作法は己れ仲間の事、武士の乗りたる船の道具を取らせて置くべきか。一々海に切りはめよ。」と鳴り廻り候に付、悉く逃げ歸り申し候。斯様の時、武士の仕事の振りが入るもの也。輕き事には鳴り廻りて濟ましたるがよし。輕き事に重くかゝり、手延びになり、末は留らず不出来の事あるもの也と。

現代語訳

一、少々姓仲間が五、六人、同船して上った時、夜中にこちらの船が、廻船へ衝突してしまった。船子が五、六人飛び乗って、「船作法の通りに碇を取り上げる。」と騒いでいると聞き、走り立ち、「作法は己の仲間での事、武士の乗った船の道具を取らるか。一々海に斬り捨てよ。」と怒鳴り廻ったので、ことごとく逃げ帰った。この様な時、武士の仕事振りが必要なものだ。軽い事では怒鳴り廻って済ませるのが良い。軽い事に重くかかると、手延びになり、最期まで収まらず不出来な事になるものだ、との事。

聞書第二 〇三二九〜悪事も破れぬ仕様がある、金銭の事で腹切らせるは残念

原文

一、何某帳納めの時、銀不足に付寄親へ申し達し、「金銀の事にて腹を切らせ候は残念の事に候。寄親役に銀子差出され候様に。」申し候に付、尤もの由にて合力致され、相濟み候。悪事も破れぬ仕様あるものにて候由。

現代語訳

一、何某が帳簿納めの時、銀が不足していたので寄り親に報告し、「金銀の事で腹を斬らせるのは残念な事だ。寄り親の役で銀子を差し出されなさる様に。」と言ったので、もっともな事だと力貸して、済ませた。悪事もばらさないやり方があるものだ、との事。

聞書第二 〇三三〇〜諫言が入れられず殿様悪事の時は味方して世に隠せ

原文

一、將監常々申し候は、「諫と言ふ詞、早や私也。諫ははんきもの也。」と申し候。一生御意見申し上げたるを知りたる人なし。又一度も理詰にて申上げたる事なし。潜かに御納得なされ候様申し上げ候由。前々數馬も終に御用と申して罷出で、御意見申上げたる事なし。御序でに潜かに申し上げ候に付、よくお請けなされ候。外に存じたる者これなく候故、御誤終に知れ申さず候。理詰めにて申上ぐるは、皆我が忠節だて、主君の悪名を顯し申すに付、大不忠也。御請けなされざる時は、いよいよ御悪名になり、申上げざるには劣るにて候。我ばかり忠節者と諸人に知られ申す迄に候。潜かに申上げ、御請けなされざる時は、力及ばざる儀と存じ果て、いよいよ隠密致し、色々工夫を以てまたは申上げ申上げ仕り候へば、一度は御請けなさる事に候。御請けなされず御悪事これある時、いよいよ御味方仕り、何卒世上に知れ申さゞる様に仕るべき事也と。

現代語訳

一、将監が常々言っていた事には、「諫と言いう言葉は、もはや私事である。諫言などしない。」と言った。一生御意見を申上げた所を知っている者は居ない。また、一度も理詰めで申し上げた事もない。密かにご納得なされるように申上げたそうだ。前々から数馬もついに御用だと言ってまかり出て、御意見を申上げたことが無い。前もって密かに申上げるので、よく請けいれられた。他に知っている者が無いので、御誤りが最後まで知られる事が無かった。理詰めで申し上げるは、皆自分の忠節を強調し、主君の悪名を表す事になるので、大不忠だ。受け入れられない時は、いよいよ悪名になり、申上げないよりも劣る。自分ばかりが忠節者だと諸人に思われるだけの事だ。密かに申上げ、受け入れられなかったときは、力及ばすと思って、よいよい隠密にし、色々工夫して繰り返し申上げれば、一度は受け入れられる。受け入れられない御悪事がある時は、いよいよ御味方になり、なんとしても世間に知られない様にするべき事である、との事だ。

聞書第二 〇三三一〜不忠不義一人も無く、悉く御用に立つるが大忠節大慈悲

原文

一、上下萬民の心入れを直し、不忠不義の者一人もこれなく悉く御用に立て、面々安堵仕り候様仕なすべしと、大誓願を起こすべし。伊尹が志の如し。大忠節大慈悲也。人の癖を直すは、我が癖を直すよりは仕にくきもの也。先づ一人もえせ中を持たず、近附は素より、見知らぬ人よりも、戀ひ忍ばるゝように仕なすが基也。我が身にても覺えあり。相口の人より云はるゝ意見はよく請くる也。さて意見の仕様は應機説法にて、人々のかたぎ次第に、好きの道などより取入りて云ひ様品々あるべし。非を見立てゝ云ひたる分にては請けぬ筈也。我はよき者に也、人は悪しき者に云ひなしては、何しに悦び申すべきや。先づ我が非を顯し、「何としても直らぬ故、宿願をも懸け置きたり、懇意の事に候間、潜かに意見召され給ひ候様。」などといへば、「それは我等も左様にあり。」と申し候時、「さらば申合せて直すべし。」と云ひて、心に能く請け候へば、頓て直るもの也。一念發起すれば、過去久遠劫の罪を滅するもこの心也。何事の悪人にても、直さずには置くまじきと思ふべし。不了簡の者程不憫の事也。色々工夫して直せば直らぬといふ事なし。ならぬといふは、成し様足らざる故也。何某子を諸人憎み、かゝらぬ生附きなれども、祖父以來頼むといはれたる一言故今に捨てず、毎朝佛神に祈誓いたし候。眞に天地に通ずるものなれば驗あるべし。これ我等一生の願也。人の好かぬ悪人ほど懇意にして通りたり。誰々、諸人請取らぬ者共なれども、我等一人贔屓して、人に逢うては「さてさて、一ふりある秘蔵の者共、第一は御爲也。」と褒め立て候へば、人の心も移り、思ひ直し候。人に少し宛の取柄あるもの也。悪しき所ありとも、取柄を取持ち候へば益に立つ也。かねがね示し合ひ候者は、「殿は近年の内御他界あるべし。その時拙者追腹の覺悟にて髪を剃り、五六十人の御側の者共に眼を覺まさすべし。不斷御叱りにばかり逢ひ、大事の時は身を捨て、損なる事なれども、これこそ眞の御被官なれ。日陰奉公の小身者共が、歴々衆追ひ倒し、御外聞を取る事他事なき儀也。随分打任せて勤むべし。」と申合ひ候。「出來出頭などが、あたまかぶせに、がさつなる事申し候時は打果すべし。」と申したる者も候へども、「さてさて、取違ひかな、あれは殿の尻拭役也。しまり潰さるゝ奴也。それが目にかゝらぬか。四五年の内に殿の御外聞取りて上げ申す大事の御被官が、今かつゐと棒打ちするものか。」と申し候て、差留め申し候。殿の御爲に、諸朋輩入魂致し、人のよくなる様に、爲になる様にとの大誓願を起し候。奇特にや、我等が申す事は、何れもよく請け申され候。又御爲と存じ、着座より下足輕迄に究竟の者數十人入魂にて手に附け、我等が一言にて忽ち御爲に一命を捨て申し候様仕置き候。又人々心入少しも直り候時は、それを育て、随分褒め候て嬉しがらせ、「いよいよよくなり候様に。」と申し候へば、進みて直り申すものと也。

現代語訳

一、上下万民の心入れを直し、不忠、不義の者が一人も無くことごとく御用にたてて、面々が安堵できるようにしようと、大誓願を起こすべし。伊尹の志の如し。大忠節、大慈悲だ。人の癖を直すのは、自分の癖を直すよりもやりにくいものだ。先ず一人も不和にせず、近づく事は素より、見知らぬ人からも、恋い忍ばれる様にするのが基本だ。自分の身でも覚えがある。親しい人から言われる意見はよく受け入れる。さて、意見の仕方は機に応じて説法して、人々の気性次第で、好みの道などから取り入って言い様は品々あるだろう。非を見立てて言うだけでは、受け入れない筈である。自分は良い者で、人は悪い者と言っては、どうして喜ぶだろうか。まず自分の非を表し、「何としても直らないので、宿願を駈けて置いたが、懇意にしているので、密かに意見してくれ。」などと言えば、「それは我も左様だ。」と言った時に、「それならば申し合わせて直そう。」と言って、心によく受け入れれば、やがて直るものだ。一念発起すれば、過去、久遠却の罪を滅するのもこの心なのだ。どんな悪人でも、直さずには置くまいと思うべし。考えが浅い者程、不憫な事だ。色々工夫して直せば直せない事は無い。成らぬと言うのは、やり方が足らないからだ。何某が子を諸人が憎み、関係のない生まれだが、祖父以来頼むと言われた一言故に今でも見捨てず、毎朝神仏に誓願している。真に天地に通じるものであれば効果があるだろう。これは我が一生の願いだ。人に好かれぬ悪人ほど懇意にして通った。誰々は、だれからも受け入れられない者だが、自分一人で贔屓して、人に会ったら、「さてさて、一癖ある秘蔵の者、第一は主君の為だ。」と褒め立てれば、人の心も移り、思い直す。人には少し思い当る取柄があるものだ。悪い所があっても、取柄を取持てば、役に立つ。かねがね示している者は、「殿は近年の内に御他界なさるだろう。その時は拙者、追って腹を切る覚悟で髪を剃り、五、六十人の御側の者共の眼を覚まさせてやる。普段は御叱りにばかり合い、大事な時には身を捨て、損な役回りだが、これこそ真の御被官だ。日陰奉公の小身共が、歴々の衆を追い倒し、御外聞を立てる事以外に他事は無い。随分と任せて勤めるべし。」と言い合っている。「たまたま出世した者などが、頭ごなしに、がさつな事を言うときは、打ち果すべし。」と言う者がいるが、「さてさて、それは取り違いかな。あれは殿の尻拭き役だ。遣い潰される奴だ。それが目にかからないのか。四、五年の内に殿の御外聞を取り立てる大事な御被官が、今、乞食と棒うちするものか。」と言って、差し留めた。殿の御為に、同僚、先輩、後輩が入魂し、人が良くなる様に、為になる様にとの大誓願を御越した。奇特にも、我が言う事は、何れも良く受け入れられる。また、御為と思い、着座からも下足軽までに屈強な者を数十人入魂にして手に付け、我が一言でたちまち主君の為に一命を捨てるようにしている。また、人々の心入れが少しでも直る時は、それを育てて、随分褒めて嬉しがらせ、「いよいよ良くなる様に。」といえば、進んで直るものだ、との事だ。

聞書第二 〇三三二〜時代と共に人の器量も下がる、一精出せば圖抜けて御用に立つ

原文

一、皆人氣短か故に、大事をなさず仕損ずる事あり。何時迄も何時迄もとさへ思へば、しかも早く成るもの也。時節がふり來るもの也。今十五年先を考へて見給へ。さても世間違ふべし。未來記などと云ふも、あまり替りたる事あるまじ。今時御用に立つ衆、十五年過ぐれば一人もなし。今の若手の衆が打つて出ても、半分だけにてもあるまじ。段々下り來り、金佛底すれば銀が寶となり、銀が佛底すれば、銅が寶となる。が如し。時節相應に人の器量も下り行く事なれば、一精出し候はゞ、ちやうど御用に立つ也。十五年などは夢の間也。身養生さへして居れば、しまり本意を達し御用に立つ事也。名人多き時分こそ、骨を折る事なれ。世間一統に下り行く時代なれば、其の中にて抜け出づるは安き事也。

現代語訳

一、皆気が短いので、大事を成せずに仕損じる事がある。何時までも何時までもとさえ思えば、しかも早く成るものだ。機会が降ってくるものだ。今一五年先を考えて見なさい。さても世間が違っているだろう。未来記などと言われている物も、あまり変わる事も無いだろう。今時御用に立つ衆は、一五年過ぎれば一人もいない。今の若手の衆が打って出ても、半分だけ程もないだろう。段々下がって来て、金が底値になれば、銀が宝となり、銀が底値になれば、銅が宝となる様な物だ。時節に相応に人の器量も下っていくので、一つ精を出せば、ちょうど御用に立つ。一五年などは夢の間だ。身を養生してさえいれば、しまって本意を達し御用に立つ。名人が多い時分こそ、骨を折る事だろう。世間が一方向に下がっていく時代だからこそ、その中で抜け出ることは簡単な事だ。

聞書第二 〇三三三〜人の癖は似我蜂の様に精を出して直せば直る、養子も教へ様

原文

一、精を出して人の癖を直したらば直る筈也。似我蜂の如し。養子なども、我に似よ我に似よと云ひ教へいたし候はゞ似るべき也と。

現代語訳

一、精を出して人の癖を直せば直る筈だ。似我蜂の如し。養子なども、自分に似ろ、自分に似ろと言い数えたら、似るだろう、との事。

聞書第二 〇三三四〜崩るゝ御家を抱留むると思へ、人の悪事を恨まぬがよい

原文

一、佞人出頭の時か、又上に悪事ある時、多分構ひなき者迄も氣すさびして欠伸氣色になり、奉公に精を出さず、沙汰評判ばかりするもの也。斯様の時、第一口を慎むべし。茲に眼の着け所あり。左様に致し候時は、殿は何となるべきや。斯様に仕にくき時こそ、一入精を出して、よき様にして上げ申す筈也。古き家は佞人出來候ても、上に悪事何程ありても、十年より内に崩るゝものにてはし、二十年も續き候はゞ危き事もあるべし。こゝを呑込みて、左様の時分、十年より内に仕直して御家を抱留め上げ申すべしと存ずべき事也。身にかゝらぬ者迄も、早氣草臥して宜しからざる事と、そゝめき廻り、御家中籠になり、うそゝけ候故、世上へも洩聞え、十年より内にも崩るゝ也。悪事は内輪から多分言崩すもの也。すべて人の上の悪事を憎まぬがよき也。いらぬ所に敵を持ち、害になる事あり。悪人も此方を頼むようにして、折を以てよきように仕なして遣はすべき事也と。

現代語訳

一、佞人が出世する時か、または上に悪事ある時、多分関係無い者までも気が荒んで欠伸気色になり、奉公に精を出さず、沙汰や評判の話ばかりするものだ。この様な時、第一に口を慎むべし。ここに眼の付け所がある。その様にする時は、殿はどうなるのか。この様にやりにくい時こそ、ひとしお精を出して、良い様にして差し上げなければならない筈だ。古い家は佞人が出てきても、上に悪事がどれほどあっても、十年以内に崩れる事は無いが、二十年も続くと危ない事もあるだろう。ここを呑み込んで、そのような時分に、十年以内に正して御家を抱き留め手足上げるべしと思うべき事だ。身に関係が無いものまでも、もはや気がくたびれていて良くない事だと、こそこそ話し、御家中が籠になり、底抜けになるので、世間へも洩れ聞こえて、十年以内にも崩れる。悪事は内輪から多分言い崩すものだ。全て人の上の悪事を憎まないのが良い。要らぬ所に敵を作り、害になる事がある。悪人もこちらを頼りにする様にして、折をみてよい様に直して遣わすべき事だ、との事。

聞書第二 〇三三五〜氣力さへ強ければ詞も行ひも自然と道に叶ふ、されど心が第一

原文

一、氣力さへ強ければ、詞にても身の行ひにても、道に叶ふ様になるもの也。これを脇よりは褒むる也。然れども、心に問はれたる時、一句もいかぬもの也。「心の問はば」の下の句は、諸道の極意とも申すべきもの也。よき目付也と。

現代語訳

一、気力さえ強ければ、言葉でも身の行いでも、道に叶うようになる物だ。これを脇から褒めるのだ。それでも、心に問われる時、一句も上手く行かないものだ。「心の問わば」の下の句は、諸道の極意とも言うべきものだ。よい目の付けどころである、との事だ。

聞書第二 〇三三六〜我が知つた事も功者の話は幾度でも深く信頼して聞くべきもの

原文

一、功者の話等聞く時、たとへ我が知りたる事にても、深く信仰して聞くべき也。同じ事を十度も二十度も聞くに、不圖胸に請取る時節あり。其の時は格別のものになる也。老の繰言と云ふも功者なる事也と。

現代語訳

一、功績のある者の話を聞く時、たとえ自分が知っていることでも、深く信仰して聞くべきだ。同じ事を十度も二十度も聞くと、ふと胸に受け取れる時がある。その時は格別な物に成るのだ。老の繰り言と言うのも功績のある者の事だ、との事。

聞書第二 〇三三七〜主君の命にもだゞを踏まねばならぬ事がある、畢竟主君の爲

原文

一、事によりては、主君の仰付けをも、諸人の愛想も盡かして、だゞを踏み廻りて打破つてのけねばならぬことあり。畢竟は、御爲一偏の心入れさへ出來れば、紛れぬもの也。何某事、御前様附にて御死去の事、上より差留めらるゝと申し候て、髪を剃り申されず、表より相附けられ候人さへ剃髪仕り、無興に候故、附役共剃り申し候。斯様の時などは、御意にても差圖にても聞入れず、上にも、御家老衆も御存じあるまじく候。傳高院様附の男女六人追腹、上代には八並武蔵覺悟仕り候。上の御外聞にて候へば、承引仕らずと申し切る筈と也。

現代語訳

一、事によっては、主君の仰せ付けでも、諸人に愛想を尽かせてでも、ただ踏み廻って打ち破って退けなければならない事がある。結局は、主君の為と一偏の心入れさえ出て来れば、紛れる事は無い。何某の事だが、御前様附きで御死去の時の事、お上より差留められると言って、髪を剃らなかったが、表から附けられている人でさえ剃髪し、無興となってしまったので、附け役共まで剃髪した。この様な時などには、御意でも指図でも聞き入れなくとも、上にも、御家老衆も御存知ないだろう。傳高院様附きの男女六人が後を追って腹を切り、上代には八並武蔵が覚悟した。上の御外聞のために、引くことが出来ぬと言い切る筈である、との事。

聞書第二 〇三三八〜祖先の御加護で、鍋島家は日本に並ぶものなき不思議の御家

原文

一、山の奥まで閑にして適に問ひ來る人に、世間の事を尋ね候へば、殿様公儀御首尾よき事、御慈悲の御仕置の沙汰ばかり承り候て、目出度き御家、日本に並ぶ所あるまじく候。此の後宜しからざる事共もこれあり候へども、自然とよき様に成り行き候は、不思議の御家、御先祖様方の御加護これありて、御仕置遊ばさるゝ儀かと存じ候由。

現代語訳

一、山の奥で静かにしている所にたまに訪ねて来る人に、世間の事を尋ねると、殿様の御公儀が首尾よく言っている事、御慈悲のある御仕置の沙汰ばかり承って、めでたい御家であり、日本の中で並ぶ所など無いだろう。此の後、よろしくない事があっても、自然と良い様になっていくのは、不思議の御家、御先祖様方の御加護があって、御仕置遊ばされる件かと考えている、との事だ。

聞書第二 〇三三九〜鍋島家は浪人の他國出を許さぬ、かく主従の契深い家中はない

原文

一、或浪人衆申され候は、「他国出を差免されず、浪人者に飯料も下されざるは御無理なる事、他国になりとも出で候はゞ、渡世の仕様もこれあるべく候。追附悪事に罷成るべし。」と申され候に付て、「他国を差免されざるが有難き事にてこれあるべく候。浪人は御意見にて候。大切に思召さるゝ故、他國へは差出されず候。斯様なる主従の契深き家中は、又有るまじく候。御懲らしなされ候て、段々差出さるゝ事にて候。悪事に成ると申す事は、數年後より申す事に候。面々苦痛さに上を恨みて申す拵事と相見え候。御罰危き事に候。」と申し候へば、又、「今佐嘉の士ども朝は晝まで休み、役義には虚病を構へ、自堕落千萬の風俗。」と申され候に付、「それが御家の強みにて候。利口發明にかせぎ廻り申す者は、斯様に仕り候はゞ、他方にては大身にも成るべきに御褒美もこれなきなどと存じ、脇心出來申すべく候。御譜代相傳の侍に候へば、元來脇心出來申さず、誰教ふるとなしに、爰に生れ出で爰に死ぬと落着き、我が宿と存じ候に付、悠々と朝寝も仕り候。これ程の強み何處にこれあるべきや。」と申し候へば、又、「御家の槍先槍先と云ふ、武國なりと申すは手前の言ひなしにて、他方には知れざる事にてはこれなきや。書物にも見及び申さゞる事。」と申され候に付、「御槍先の事は記録に相見え候。島原戦死四百に及び候は、鎌倉崩れには勝り申すべく候。これは武國と申さず候て叶はざる事に候。他方の知手には、太閤様権現様など御褒美の事、これは近代に目持たずとは云はれぬよき證據人にて候。」と取合ひ申し候。永浪人などは退屈して遺恨に存じ、悪口を仕り候。それ故、運盡き歸参も仕らず候也と。

現代語訳

一、或る浪人衆が言ったことには、「他国に出る事を許されず、浪人者に飯代も下されないのは、無理がある。他国にでも出れば、渡世のやり様もあるだろう。後に悪事が起こるだろう。」と言われたので、「他国へ行くのを許されないのはありがたい事だろう。浪人は御意見を言われていると言う事だ。大切に思召されているから、他国へ差し出さないのだ。この様な主従の契りが深い御家中は、又と有る事ではない。お懲らしめなされて、だんだんと差し出されるのだ。悪事になると言う事は、数年後になってから言う事だ。面々の苦痛で上を恨んで言う虚構だと見受けられる。危うく御罰となる事だ。」と言うと、また、「今、佐賀の侍共は朝は昼まで休み、役儀には仮病を使い、自堕落千万の風俗だ。」と言うので、「それが御家の強みだ。利口、利発をひけらかし廻る者は、この様にすれば、他の藩では出世するべき時に御褒美もないなどと思い、脇心が出来るだろう。御譜代相伝の侍であれば、脇心など出来ない。誰が教えると無しに、ここに生まれ出て、ここで死ぬと落ち着いて、我が宿と思うからこそ、悠々と朝寝もするのだ。これ程の強みが何処にあるだろうか。」と言うと、また。「御家の槍先槍先と言う、武国というものは手前の言い分であって、よそには知られていない事ではないか。書物にも見当たらない事だ。」と言うので、「御槍先の事は記録に見る事が出来る。島原の戦死が四百に及んだのは、鎌倉崩れに勝るだろう。これは武国でなければ叶わなかった事だ。よそに知られている所では、太閤様、権現様などから御褒美があったこと。これは近代に眼を持たずと言われたよい証拠人だ。」と取り合った。長く浪人などすると退屈して遺恨に思い、悪口を言うのだ。運が尽きて帰参も出来ない、との事。

聞書第二 〇三四〇〜捨者も仕盡くした者でないと用に立たぬ、窮屈では駄目

原文

一、すてものも、盡くしたる者にてなければ用に立たず。丈夫窮屈ばかりにては、働なきもの也と。

現代語訳

一、捨てられた者も、かつて尽くした者でなければ用には立たない。丈夫で窮屈ばかりでは、よい働きも無いものだ、との事。

聞書第二 〇三四一〜名利の眞中、地獄の眞中に駈入りても主君の御用に立て

原文

一、愚見衆に書附け候如く、奉公人の至極は家老の座に直り、御意見申し上ぐる事に候。此の眼さへ着け候へば、餘の事捨てものなどはゆるし申し候。さてさて人はなきものに候。斯様の事に眼の着きたる者一人もなし。たまたま私慾の立身を好みて、追従仕廻る者はあれども、これは小慾にて終に家老には望みかけ得ず、少し魂の入りたる者は、利慾を離るゝと思ひて踏込みて奉公せず、徒然草撰集抄などを樂しみ候。兼好西行などは腰抜けすくたれ者也。武士業がならぬ故、抜け風をこしらへたるもの也。今にも出家極老の衆は學びても然るべく候。侍たる者は名利の眞中、地獄の眞中に駈入りても、主君の御用に立つべきと也。

現代語訳

一、愚見集に書き附けた様に、奉公人の至極は家老の座に直り、御意見を申上げる事である。この眼さえ着ければ、あとの事は捨て者など許してもよい。なかなか人は居ないものだ。この様な事に眼を着ける者は一人もいない。たまたま私欲の立身を好んで、追従して廻る者は居ても、これは小さな欲で最後まで家老には望みをかける事が出来ず、少し魂の入った者は、利欲を離れると思って踏込んで奉公せず、徒然草や撰集抄などを樂。兼好や西行などは腰抜け、すくたれ者だ。武士の業が身に付かないので、抜けるやり方をこしらえたのだ。今では出家、極老の衆は学んで然るべきものだ。侍たる者は名利のさ中、地獄のさ中に駈け入ってでも、主君の御用に立つべきである、との事だ。

聞書第二 〇三四二〜至極の忠節は主を諌め國を治むる事、家老になるも其の爲

原文

一、我等は親七十歳の子にて、鹽賣になりとも呉れ申すべしと申し候處、多久圖書殿、「神右衛門は蔭の奉公を仕ると、勝茂公常々御意なされ候へば、多分子孫に萌え出で、御用に立ち申すべし。」と御留め、松龜と名を御附け、枝吉利左衛門より袴着させ申され、九歳より光茂公小僧にて召使はれ、不携と申し候。綱茂様よりも御雇ひなされ、御火燵の上に居り候て、わるさども致し、御かるひなされ候てども御遊ひなされ、其の時分何ともならぬわるさ者にとられ申し候。十三歳の時髪立て候様にと光茂様仰せ付けられ、一年引入り居り申し、翌年五月朔日罷出で、市十と名を改め申し候て、御小姓役相勤め申し候。然る處、倉永利兵衛引入れにて元服いたし、御書物役手傳仰付けられ、餘りの取成しにて、権之丞は歌も讀み申し候に付、若殿様よりも折々召出され候と申上げられ候に付差支へ、暫く御用これなく候。利兵衛心入れは其の身の代人に仕立て申すべき存入りと、後に存附き候。右の後江戸御供も仕らず、ぶらりと致し罷在り候に付て、以ての外不氣味になり、其の頃、松瀬に湛然和尚御座候。親より頼み申すと申置き候に付て懇意に候故、節々參り、出家仕るべきかとも存入り候。其の様子、五郎左衛門見取り、前神右衛門加増地を差分け申すべしと、數馬へ内談仕りたる由承り候。弓矢八幡、取るまじと存じ候處、請役所に召出され、新に御切米仰付けられ候(他に兩人あり)。此の上は小身者とて人より押下げらるゝは無念に候。何としたらば心よく奉公仕るべきかと、晝夜工夫申し候。その頃、毎夜五郎左衛門話を承りに參り候に、「古老の話に、名利を思ふは奉公人にあらず、名利を思はざるも奉公人にあらず、と申傳へ候。此のあたり工夫申し候様に。」と申し候故、いよいよ工夫一偏になり、不圖得心申し候。奉公の至極の忠節は、主に諫言して國家を治むるに事也。下の方にぐどつき廻りては益に立たず。然れば家老になるが奉公の至極也。私の名利を思はず、奉公名利を思ふ事ぞと、篤と胸に落ち、さらば一度御家老になりて見すべしと、覺悟を極め申し候。尤も早や出頭は古來のうぢなく候間、五十歳計りより仕立ち申すべしと呑込み、二六時中工夫修行にて骨を折り、紅涙までにはなく候へども、黄色などの涙は出で申し候程に候。此の間の工夫修行即ち角藏流にて候。然る處に御主人におくれ、兼々出頭仕り候者は、すくたれ、御外聞を失ひ申し候に付て、此くの如く罷成り候。本意は遂げず候へども、しかと本意を遂げ申し候事段々話し申し候通りにて候。思立つと本望を遂ぐるものに候。又御用に立ち候ものの、ばちこき候は自慢の天罰故に候。此の事愚見に書き附け候通り也。誠に見の上話、高慢の様に候へども、奥底なく不思議の因縁にて、山家の閑談、他事無く有體話し申し候と也。翌朝

手ごなしの粥に極めよ冬籠り 期酔

朝顔の枯蔓燃ゆる庵かな 古丸

現代語訳

一、我は親が七十歳の時の子で、塩売りにでもなってくれと言うべしと言われたところ、多久図書殿が、「神右衛門は蔭の奉公をすると、勝茂公が常々言っておられたので、多分に子孫が萌え出でているのだから、御用に立てるべきだ。」と御留め下さり、松亀と名付け、枝吉利左衛門より袴を着させられ、九歳から光茂公の小僧として召し使われ、不携と呼ばれた。綱茂公からも雇われて、御火燵の上に乗って、悪さを致し、負われてお遊びなされ、その時分には何ともならぬ悪戯者と思われていた。十三歳の時に上を立てる様にと光茂公に仰せ付けられ、一年引き籠って、翌年五月一日に城に出て、市十と名を改めて、御小姓役を務めた。然るところ、永倉利兵衛の引き入れで元服し、書物役の手伝いを仰せ付けられ、あまりの取り成しに、権之丞は歌も讀むので、若殿様からも時々召し出されていると申し上げ、それが差支えてしまい、暫く御用が無かった。利兵衛の心入れは、その身の代理に仕立て上げる企みだったと、後に思い当った。右の事の後、江戸に御供をせず、ぶらりとしていたので、以ての外であるほどに不気味になっていた、その頃、松瀬に湛然和尚が居た。親からお頼みしますと、言い置かれており、懇意であったので、節々で訪問し、出家するべきかとも思った。その様子を、五郎座衛門が見て、前神右衛門の加増地を差し分けるべきだと、数馬へ内談している旨を聞いた。弓矢八幡、取るものかと思っていた所、諸役所に召し出され、新たに御切米役を仰せ付けられた。(他に二人居た。)その上は小身者だからとて人より押し下げられるのは無念であった。どのように快く奉公仕るべきかと、昼夜工夫した。その頃、毎夜、五郎座衛門の話を伺いに参っていた時に、「古老の話に、名利を思うのは奉公人では無く、名利を思わないのも奉公人では無い、と申し傳えられている。このあたりを工夫するように。」と言われたので、いよいよ工夫一偏になり、ふと納得した。奉公の至極の忠節は、主に諫言して国家を治める事だ。下の方にぐだ付き廻っては役に立たない。然れば、家老になるのが奉公の至極である。私の名利を思わず、奉公名利を思う事だと、とくと腑に落ちて、そうであれば一度御家老に成ってみようと、覚悟を決めた。もっとも、もはやぽっと出は古来より役に立たないので、五十歳ばかりから役に立つべしと思い込んで、二六時中工夫し、修行して骨を折り、紅涙までではないにしても、黄色の涙などが出たほどだ。この間の工夫、修行が、即ち角藏流である。然るところに、御主人に遅れ、兼ね兼ね出頭仕る者は、すくたれ者であり、御外聞を失い、この様に成った。本意は遂げずとも、たしかに本意を遂げた事は、段々と話してきた通りだ。思い立つと本望を遂げるものだ。また御用に立つものの、罰を受ける者は自慢の天罰故だ。この事は愚見集に書き付けた通りだ。誠に身の上話は、高慢の様だが、奥底無く不思議の因縁にて、山家の閑談で、他事無く有りのままを言ったのだ、との事。翌朝

手ごなしの粥に極めよ冬籠り 期酔

朝顔の枯蔓燃ゆる庵かな 古丸

聞書第三 〇三四三〜鍋島直茂の述壊―義理程感深い物は無い、義理には落涙する

原文

一、或時、直茂公の仰せに、義理程感深きものはなし。從弟などの死したるには涙を流さぬ事もあるに、故ゆかりもなく、見も知りもせぬ五十年も以前の人の上を聞きて、義理なる事には落涙する也と仰せられ候由。

現代語訳

一、或る時、直茂公の仰せに、「義理程感深い物は無い。従妹などが死んだときには涙も流さない事もあるのに、故も縁も無い、見知らぬ五十年も前の人に起こった事を聞いて、義理なる事には落涙する。」と仰せられたそうだ。

聞書第三 〇三四四〜小早川隆景、使者を鍋島直茂に送つて口上の指南を受く

原文

一、小早川隆景より、何方へ使者を以て事むつかしき口上遣はされ候に付て、直茂公へ、「口上御指南下され候様に。」と、右使者を佐嘉へ遣はされ候。御面談にて口上聞召され、仰せられ候は、「御口上に申す處少しもこれなく候。但し、これは、詞の色の入る口上にて候。總じて舞平家なども上手のを聞いては落涙に及び候。下手のも同じ文字節にて候へども、涙出で申さず候。これは御手前心得の爲申し候」由、御意成され候へば、、右の使者、有難き由感じ奉り、罷歸り候由也。

現代語訳

一、小早川隆景より、何方へ使者を以て難しき口上を遣わす事になったので、直茂公へ、「口上の御指南下され。」と、右の使者を佐賀へ遣わされた。御面談にて口上をお聞きになり、仰せられたのは、「御口上に申すべき事は少しもない。ただし、これは言葉の色が必要な口上だ。総じて」舞でや平家物語などでも、上手なのを聴けば、涙が落ちる。下手のも同じ文字、同じ節だが、涙が出てこない。これは御手前の心得の為に申す。」との意志をお示しなされた所、右の使者は、有難く感じ奉り、帰っていったそうだ。

聞書第三 〇三四五〜鍋島直茂公夫妻寒夜入牢者の人數を調べ普く粥を施興す

原文

一、直茂公、寒夜に御火燵をなされ、陽泰院様へ御意なされ候は、「さてさて寒き事にて候。火燵に居てさへ堪へ難く候が、下々は何として夜を明し申すべきや。その内に別けて難儀の者は誰にてこれあるべきや。」と仰せられ候。陽泰院様も、「誠に火燵にても寒さを防ぎ兼ね候が、百姓共は火燵も持ち申すまじく候。」と仰せられ候。「さりながら、藁火なりともあたり、火箱などにてもあたゝまり申すべく候。別けて凌ぎ兼ね申す者は、何にてこれあるべきや。」と、色々御評判遊ばされ候末にて、直茂公仰せられ候は、「一の難儀は牢屋の者共なるべし。火の取扱相成らず、壁もなく、着物も薄く、食物も有るまじく候。さてさて不憫の事かな。」と御夫婦様繰返し繰返し御意なされ候て、「牢屋に幾人居り申し候や。即刻相改め申上ぐべき」旨仰出され候。筋々役人より申し遣はし、夜中俄に相改め、書附差上げ、何の仔細に候やと、役所々々に控へ居り申し候、右書附御覽なされ、御臺所にて粥を仰付けられ、即刻牢屋へ遣はされ、罪人共へ拜領せしめられ候。涙を流し有難がり、頂戴仕り候由。

右は小少將の尼(正譽)若年の時分、御前に罷在り候て、御直に承り候趣、老後に話申され候を、常朝師承り候由。さて又、直茂公陽泰院様への御言葉遣ひ、「さうせよ、かうせよ。」と仰せられ候由なり。

現代語訳

一、直茂公が、寒い夜に御火燵をなされ、陽泰院様へ御意なされたことには、「さてさて寒い。火燵に居ても堪えがたいが、下々はどのようにして夜を明かすのだろうか。その内に特に難儀している者は誰だろうか。」と仰せられた。陽泰院様も、「誠に火燵でも寒さを防ぎ兼ねますが、百姓どもは火燵も持っていないでしょう。」と仰せられた。「さりながら、藁火にでもあたり、火箱などで温まるのだろう。特に凌ぎ兼ねる者は、何であろうか。」と、色々御話し遊ばされた末に、直茂公が仰せになったことには、「一番難儀しているのは牢屋の者共だろう。火を取り扱う事も出来ず、壁もなく、着物も薄く、食べ物もないだろう。さてさて不憫だ。」と御夫婦で繰り返し繰り返し御意なさって、「牢屋に何人居るか。即刻、改めよ。」との旨仰せ出された。節々の役人から申し遣わせて、夜中に速やかに改め、書き付けて差し上げ、どのような意図だろうかと、役所で控えていた。その書き付けを御覧なされ、御台所にて粥を作る様に申し付けられ、即刻、牢屋へ遣わされ、罪人共へ拝領させなさった。罪人共は涙を流して有難がり、頂戴仕ったそうだ。

この事は、小少将の尼(正譽)が若年の時、御膳に居て、御直に承った様子を、老後に話されたのを、常朝師が承ったそうだ。さて又、直茂公の陽泰院様への御言葉使いは、「そうせよ、こうせよ。」と仰せられたとの事だ。

聞書第三 〇三四六〜鍋島直茂夫人、石井一門の爲將來を案じて雜務方を斷る

原文

一、陽泰院様、勝茂公へ仰せられ候は、「石井一門の者に、以後雜務役を申付けらるまじく候。この儀、深々頼み申し候。この前より雜務役致し候者は、多分盗みをして死罪に逢ひ候。手に觸れ候故欲しくなれて、盗みをすると相見え候。役を仕らず候はゞ欲しき念も起らず、盗み致すべき様これなく候。我等身の切れの者共にて候へば、不憫に候て斷り申し候。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、陽泰院様から、勝茂公へ仰せられたことには、「石井一門の者に、以後は雑務役を申し付けない様に。この件、くれぐれも頼みます。この前から雑務役をしていた者は、多分盗みをして死罪となった。手に触れるから欲しくなって、盗みをすると見える。役に付かなければ欲しいと言う思いも起きず、盗む事も無いでしょう。我等と血縁の者であり、不憫で断るのです。」と仰せられたそうな。

聞書第三 〇三四七〜鍋島直茂、小姓衆に泉水の水量を問うてその稱呼を教ふ

原文

一、直茂公、小姓衆を呼ばせられ、「泉水の水は何程あるや、見て參れ。」と御意なされ候。「八合ばかり御座候。」と申上げられ候。又一人呼ばせられ、同様に仰付けられ候。「八分程御座候。」と申上げ候に付、「八分がよく候。八合は聞きにくきぞ。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、直茂公、小姓衆を呼ばれ、「泉水の水はどれほどあるか、見て参れ。」と御意なされた。「八合ばかりにございます。」と申し上げられた。また一人呼ばれ、同様に仰せ付けられた。「八分ほどございます。」と申し上げられたので、「八分が良い。八合では聞きにくいぞ。」と仰せられたそうな。

聞書第三 〇三四八〜太閤秀吉「龍造寺は九州の槍突」と違法の道押を黙認す

原文

一、太閤秀吉公薩摩入りの時、軍奉行衆より、先陣龍造寺道押軍法に背き不埒に御座候間、行列直し申すべき由申上げられ候。太閤聞召され、「軍に法はなし、敵に勝つを軍法とす。龍造寺は九州の槍突也、あの通りにて仕覺あるべし。なまじひなる事をしたらば恥をかくべし。」と御叱りにて候由。

現代語訳

一、太閤秀吉公が薩摩入りの時、軍奉行衆から、先陣龍造寺が道押軍法に背き不埒であるので、行列し直す様に申上げられた。太閤がそれを聞き、「軍に法はなく、敵に勝つを軍法とする。龍造寺は九州の槍突きであり、あの通りでやり方に覚えがあるのだろう。なまじ意見などしたら恥をかくぞ。」と御叱りになったそうな。

聞書第三 〇三四九〜鍋島直茂、當意即妙の自己流生花を生け、太閤に褒めらる

原文

一、太閤の御前にて、大名衆生花をなされ候。直茂公の御前にも、花入花具出で申し候。終に生花などなされ候儀これなく、御不案内に候て、花具を諸手にて一つに御握り、本を突き揃へられ、花入にそくと御立て、差出され候。太閤御覽候て、「花はわろく候へども、立て振りは見事。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、太閤の御前にて、大名集が生花をなされた。直茂公の御前にも、花入れと花道具が出された。それまで生花など為されたことが無く、不慣れな事なので、花具を両手で一つに握り、根元を揃えられ、花入れにそくと立て、差し出された。太閤が御覧になって、「花は悪いが、立て振りは見事。」と仰せられたそうな。

聞書第三 〇三五〇〜「信濃殿は腹切所を忘れては居らぬか」カチクチの軍法

原文

一、佐嘉御城御普請御成就の上、「直茂公御覽遊ばされ候様に」と御座候に付、御駕籠にて御出なされ候。勝茂公は立附を召し御出なされ物合の一通り一通り御講釋遊ばされ、あちこちと御働き遊ばされ候。直茂公御伽の衆に御意なされ候は、「信濃殿は、城取の敵合を、精を出し講釋さるゝが、腹切所を忘れては居られぬか。」と仰せられ候由。

直茂公は總じて縄張備立などと申す事は大方に遊ばされ、御家中一和仕り、御主人を歎き奉る様になされ、自然の時は上下一致に突懸り、切崩し申す事を大切に思召入れられ候由也。又御軍法一通りは國守より外には家中の者何とも存じ申さゞる様になされ候が、直茂公の御流儀にて候。物前にて唯御一言にて埒明き申す御仕組、御秘事御座候由。御軍法の大概にても、御家中の者存じ候へば、自然は敵方へ漏れ聞え、又その場の御指圖を不請合仕り候事もこれあるべくやと也。カチクチと申す御傳授、御代替りの時これある事の由。また小城にも御代々御傳へ御座候由。十三箇条とも申し候也。

現代語訳

一、佐賀の御城、御譜代が御完成となったので、「直茂公、御覧遊ばされます様に。」との事に付、御駕籠にて出掛けられた。勝茂公は立付けをお召しになってお出でになり、物合いの一通り一通りを御講釈遊ばされ、あちこちと御働き遊ばされた。直茂公の御伽衆に御意なされたことには、「信濃殿は、城攻めの接敵を、精を出して講釈なされているが、切腹所を忘れては居られぬか。」と仰せられたそうな。

直茂公は総じて縄張りや備え立てなどと言う事は大体に遊ばされ、御家中を一和をはかり、御主人を歎き奉る様になされ、何かあった時には上下が一致し取り掛かり、切り崩す事を大事だと思召されていたとの事だ。また軍法一通りは国守から外には家中の者は何も知らされない様になされるのが、直茂公の御流儀である。物前にて唯、御一言にて埒が明く御仕組み、御秘事であるとの事だ。御軍法の大概も、御家中の者が知っていれば、何かあった時には敵方へ洩れ聞こえ、またその場の御指図を請け合わない事もあるだろうと。カチクチと呼ばれる御伝授が、代替わりの時にあるそうだ。また小城にも御代々お伝えなされるそうだ。十三箇条であるとも言われている。

聞書第三 〇三五一〜鍋島直茂の返答、「新參者は尻拭役、槍突は其方達」

原文

一、直茂公御側に、新參に御懇に召使はれ候者あり。或時、古老の衆申合はせ、御前へ罷出で、「今程何某を別けて御懇に召使はるゝと相見え申し候。我々槍突き申し候時分、終に相見え申さず、先途の御用に相立ち候儀心得申さず候が、如何様の思召入にて御懇に召使はれ候や。」と申上げ候。直茂公聞召され、「いかにも尤もの存じ分にて候。彼の者先途の用に立ち申したる者にてもなく候へども、我等氣に入り、心安く候故、尻をも拭わせ申し候。其方達には斯様の事はあつらへ難く候。槍突き候時は其方達を頼み申す事に候。」と御意なされ候由。

現代語訳

一、直茂公の御側に、新参者で御懇ろに召し使われている者がいた。或る時、古老の衆が申し合わせ、御前へでて、「今ほど何某をとりわけ御懇ろに召し使われているように見受けられます。我々が槍突きをしている時、終に姿を見せたことが無く、先途の御用に立つ心得もしていない者が、どのような思し召しで御懇ろに召し使われているのですか。」と申し上げた。直茂公がそれをお聞きになり、「いかにももっともの申し分である。彼の者は先途の用に立つ者では無いが、我が気に入り、心安いので、尻をも拭わせる。其の方達にはこの様な扱いは出来ない。槍を突く時には其の方達を頼りにしている。」と御意なされたそうだ。

聞書第三 〇三五二〜鍋島直茂高麗出陣の時京都愛宕山の威徳院護摩堂を建立す

原文

一、直茂公高麗御陣の時、御武運の爲京都愛宕山の威徳院へ護摩堂御建立なされ候。これ愛宕護摩堂の始也。其の以後、細川殿より護摩堂建立、それより後、公儀護摩堂御建立もあり。一とせ焼失の後、勝茂公御再興なされ候。其の後破壊に及び候を、吉茂公の御代威徳院訴訟、京都聞番高木與惣兵衛取次ぎ、御再興なされ候也。

現代語訳

一、直茂公が高麗へ御出陣の時、御武運の為、京都愛宕山の威徳院へ護摩堂を御建立なされた。これが愛宕護摩堂の始まりである。其の以後、細川殿からの護摩堂、それより後の、公儀護摩堂御建立もあった。ひと時焼失した後、勝茂公が御再興なされた。その後、壊れそうになっていたのを、吉茂公の御代に威徳院の訴えを、京都聞番の高木與惣兵衛が取次ぎ、御再興されたのだ。

聞書第三 〇三五三〜玉林寺金峰和尚、鍋島直茂の隠居所知行附進を一蹴す

原文

一、玉林寺住持金峰和尚は直茂公御祈祷の師也。金峰隠居、嘉瀬に居住あり。直茂公仰せられ候は、「多年の厚恩報い難き事に候。今嘉瀬の隠居所へ知行百石附進すべく。」と御意なされ候。金峰承り、「其方數年の武邊は、我等珠數の房を揉み切つて致させ候事にて候を早忘却候や。今知行百石にて附け離すべき所存と見えたり。恩を知ろしめさば、一生懇意ある筈也。それにては先あぶなく候。」と殊の外立腹にて候。直茂公聞召され、「さらば知行は進じ申すまじく候。御堪忍候へ。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、玉林寺住持の金峰和尚は直茂公の祈祷の師である。金峰は隠居し、嘉瀬に住居がある。直茂公が仰せになったのは、「長年の厚恩には報う事が難しい。今、嘉瀬の隠居所へ知行百石を進呈しよう。」と御意なされた。金峰がそれ承り、「其の方の数年の武辺は、我の数珠の房が切れるほど拝んで致させた事をもう忘れたのか。今、知行百石で突き放そうとしているように見える。恩をしっているならば、一生懇意にする筈だ。それでは先が思いやられる。」と殊の外、立腹した。直茂公はそれを聞し召され、「それならば、知行を進んずるのはやめよう。御堪忍くだされ。」と仰せられたそうな。

聞書第三 〇三五四〜寶持院住持、鍋島直茂の申出に一生蒟蒻を所望す

原文

一、直茂公は梅林庵にて御手習遊ばされ候、其の時分梅林庵近所の寶持院、御鬢御衣裳諸事の御給仕心に入れ勤められ候。公御成長の後、寶持院へ、「何にても望みの事相叶へ遣はさるべき。」旨仰せられ候處、「私何も望みこれなく候。蒟蒻を一生たべ申し度く候。御懇に仰下さるゝ事に候間、此の望み御叶へ下され候へ。」と申上げられ候。それより一生の内、二日に一度宛、御使にて蒟蒻を遣はされ候由。

現代語訳

一、直茂公は梅林庵にて御手習い遊ばされた。其の時、梅林庵の近所の宝寺院の御髪、御衣裳など、諸事の御給仕を熱心に勤められた。公が御成長の後、宝持院へ、「何でも望みの事を叶えて遣わそう。」との旨、仰せられた所、「私は何も望みは無い。蒟蒻を一生食べたい。御懇ろに仰せ下されるのであれば、この望みを叶えて下され。」と申し上げられた。それより一生の間、二日に一度、使者を以て蒟蒻を使わされたそうな。

聞書第三 〇三五五〜鍋島直茂、夜明けに床を出て静座、一宿の金峰和尚を困らす

原文

一、直茂公へ金峰和尚見舞いの節は、御話久しくこれあり候。一宿の時は、御夫婦様の中に臥せり申され候。或時、夜明けて目を覺し見申され候へば、直茂公御座なされず、御前様ばかり御寝み御座なされ候。金峰驚き起き上り、見申され候へば、公は次の間に静座にて御座なされ候。何時も夜明けには、長脇差御さし、静座遊ばされ候。金峰立腹にて、以ての外ねだり申され候由。

現代語訳

一、直茂公へ金峰和尚が見舞った時、長い間御話をなされた。一宿の時は、御夫婦と共に床に付かれた。或る時、夜が明けて目を覚ますと、直茂公が居られず、御前様だけが御休みなされていた。金峰が驚いて起上り、見た所、公は隣の間に静座して居られた。何時も夜明けには長脇差を御差しになり、静座あそばされている。金峰は立腹して、以ての外抗議をもうされたそうな。

聞書第三 〇三五六〜太閤御茶湯に鍋島直茂引出物を拜領、龍造寺高房引見さる

原文

一、栗山書附の内。慶長二年四月五日、大阪御城にて高麗奉行蜂須賀阿波守安國寺鍋島加賀守右三人にて談合すべき由仰出され候。同六日太閤様御手前にて、御茶進められ候集直茂公池田伊餘守京極侍從。さ候て直茂公へ御引出物御脇差御胴服銀子五十枚、秀頼様より御胴服呉服壹重御拜領成され候。

五月九日辰の刻、數寄屋へ御成なされ、御同座の人數太閤様羽柴大納言殿富田左近將監殿、直茂公御手前にて御茶の湯過ぎ候へば、書院へ御移り、籐八郎殿へ御目渡され候。それより廣間へ御出成され、直茂公籐八郎殿よりの御進物御覽成され候。即ち廣間にて御目見の衆龍造寺作十(諫早石見殿也)後藤喜清次(鍋島若狭殿也)鍋島平五郎(主水殿也)小川平七(鍋島和泉守殿也)右四人置太刀にて御目見、それより樂屋舞臺へ御移り、それより御くつろげの間へ御移り成され、それより風呂屋御覽成され、其れより又書院へ御移り成され、書院にて終日御話の事。書院にて、こしめされ候御膳即ち其の儘直茂公へ遣はされ候。銀子三百枚即ち直茂公へ御拜領、晩元還御成され、即ち直茂公御禮の爲御登城の時、又御膳遣はされ候事。同十一日の朝山里に於て太閤様御手前にて御茶進められ候衆鍋島加賀守寺澤志摩守生駒雅樂頭有楽様也。

現代語訳

一、栗山書に書き付けた事。慶長二年四月五日、大阪の御城にて高麗奉行、蜂須賀阿波守、安國寺、鍋島加賀守の三人で談合するように仰せ付けられた。同六日、太閤様の御手前で、直茂公、池田伊予守、京極侍従、が御茶を薦められた。そのようないきさつで、直茂公へ引き出物として御脇差、御胴服、銀子五十枚、秀頼様から御胴服、呉服一重を御拝領なされた。

五月九日辰の刻、数寄屋へ来られて、御同座の人は、太閤羽柴大納言殿、富田左近将監殿、直茂公の御手前で御茶の湯を過ごされ、書院へ移り、籐八郎殿へ御目渡された。それから広間へ御出になって、直茂公、籐八郎殿からの御進物を御覧になった。そのあとすぐに、広間で御目見えの衆が龍造寺作十(諫早石見殿である)、後藤喜清次(鍋島若狭殿である)鍋島平五郎(主水殿である)小川平七(鍋島和泉守殿である)の四人、刀を置いて御目見え、それから楽屋舞台へ御移り、それから御くつろぎの間へ御移りなされ、それから風呂屋を御覧になって、それからまた書院へ御移りなされ、書院にて終日御話になったとの事。書院にて、出された御膳は其の儘直茂公へも遣わされた。銀子三百枚ただちに直茂公へ御拝領なされ、夜に御帰りになり、その後すぐに直茂公が御礼の為に登城した時、また御膳が遣わされたとの事。同十一日の朝、山里に於いて、鍋島加賀守、寺澤志摩守、生駒雅楽頭、有楽様が太閤様の御手前にて御茶を薦められた。

聞書第三 〇三五七〜鍋島直茂朝鮮中歸りに大阪へ直行、再度朝鮮に渡海す

原文

一、栗山書附の内。慶長二年酉三月、太閤様より召され候て、加州様高麗より御歸朝、佐嘉へは御立寄なく、松瀬山へ御一泊(今の通天庵也。池上六太夫宅也。)直様大阪御上り、同五月九日、此方御屋敷へ太閤様御成り候事。六月初頃、加州様佐嘉御下着なされ、萬事仰付けられ、早々高麗渡海、御打立の日は、御湯治の爲塚崎へ御一泊、翌日伊萬里御越し候事。

現代語訳

一、栗山書に書き付けられた事。慶長二年酉三月、太閤様に呼ばれて、加州様、高麗から御帰朝なされ、佐賀へは立ち寄らず、松瀬山へ御一泊(今の天通庵である。池上六太夫宅である。)し、直ぐ様大阪へ御上り、同五月九日、こちらの御屋敷へ太閤様御成りとの事。六月初頃、加州様が佐賀へ御下着なされ、万事仰せ付けられ、早々に高麗へ御渡りになり、御出発の日は、御湯治の為塚崎へ御一泊し、翌日伊万里へ御越しになったとの事。

聞書第三 〇三五八〜殿様美談―鍋島勝茂の孝心に齋藤用之助死罪を免ぜらる

原文

一、齋藤用之助内證差支へ、晩の飯料もこれなく候に付て、女房歎き申し候。用之助これを承り、「女なりとも武士の家に居る者が、米などの無きとて草臥れ候事ふがひなし。米は何程もある也。待つて居り候へ。」とて、刀を取り外に立ち出で候へば、馬十疋ばかり米を負わせ通り申し候。用之助見て、「これは何處へ參り候や。」と申し候。百姓共が承り、「下臺所へ參り候。」と申し候。「さらば斯う參り候て我等の所へ下ろし候へ。我等は齋藤用之助と云ふ者也。役者衆へ引合ひ申す米ある事に候。あちこち致すは其方共大儀にて候。手形を出し申す事に候間、これを庄屋へ見せ候へ。」と申し候。百姓共請合ひ申さず、直に罷通り候に付て、用之助立腹致し、刀をすはと抜き、「一人もやるまじ。」と申し候に付て、皆々手を立て斷り申し候て、用之助所へ持越し、手形を取り罷歸り候。用之助女房に申し候は、「米はこれ程澤山有る也、心任せに使ひ候へ。」と申して罷在り候。然る處右の段相聞え、用之助御究めなされ候處、有體に申出で候。御詮議の上死罪に相極り候。例の如く、「加州様へ御耳に達し候様に。」と仰付けられ、當役の衆三の丸へ罷出で、右の次第申上げ候。直茂公聞召され候て、何とも御取合なく、「かゝ聞かれ候や、用之助は殺され候由。さても不憫千萬の事也。日本に大唐を副へても替えまじき命を、我等がために數度一命を捨てゝ用に立ち血みどろになりて肥前の國を突留め、今我等夫婦の者、殿と云はれて安穏に日を暮すは、彼の用之助が働き故にてこそあれ。就中用之助は究竟一のつはものにて、數度の高名したる者也。その者が米を持たぬ様にして置きたる我こそ大罪人にて候。用之助に咎は少しも無きものを、彼を殺して我は何として生きて居らるゝものか。さてさて可愛なる事。」と御夫婦様御落涙にて、御愁嘆大方ならず候。御意を受け候衆迷惑致し、引取り罷歸り、勝茂公へ有の儘に申上げられ候へば、「さてさて勿體なき事に候。何をがな孝行申上ぐべしとこそ存じ候に、左様に思召さるゝ用之助、何しに殺し申すべき。早々三の丸へ罷越し、即ち差免し候通り申上げ候様に。」と仰付けられ、用之助差免され候段御耳に達し候へば、「子ながらも過分なる事、これに過ぎず候。」と御本丸の方を御拜み遊ばされ候由。

現代語訳

一、齋藤用之助の家計が差支え、晩飯の金も無くなって、女房が歎きを申した。用之助がこれを承り、「女であっても武士の家に居る者が、米などが無くてくたびれるとは不甲斐ない。米はどうにでもなる。待っていろ。」といって、刀を取って外に立ち出でた所、馬を十匹ばかりに米を背負わせて通りかかった。用之助はこれを見て、「何処へ参るのか。」と聞いた。百姓共がこれを承り、「下台所へ参ります。」と言った。「そうならば、こう来て我等の所へ下ろしなさい。我は齋藤用之助という者だ。役者衆へ引きあいにする米がいる。あちこち廻るのは其の方達も大変だろう。手形を出すので、これを庄屋へ見せなさい。」と言った。百姓共は請け合わず、立ち去ろうとしたので、用之助は立腹して、刀をすはっと抜き、「一人も通さぬ。」と言ったので、皆々手を立てて謝り、用之助の所へ持ちこして、手形を取って帰った。用之助が女房に言ったのは、「米はこれ程沢山ある、思いのままに使いなさい。」と言った。其の後、右の件が御上の耳に入り、用之助が御究めをうけた所、ありのままに申し出た。御詮議の上、死罪と極まった。例の如く、「加州様へ御耳に入れる用に。」と仰せ付けられ、当役の衆が三の丸へ行き、右の次第を申上げた。直茂公が聞し召され、何と御取り合いにならず、「かかよ、聞いたか、用之助は殺されるそうだ。さても不憫千万な事だ。日本に大唐を副えても替えられない命を、我の為に何度も一命を捨てて用に立ち、血みどろになって肥前の国を突き留め、今、我等夫婦のような者が、殿と言われて安寧に日を暮せるのは、彼の用之助の働きが故であろう。とりわけ用之助に咎は少しも無いものを、彼を殺して我は何として生きて居られるものか。さてさて可愛そうな事。」と夫婦そろって御落涙し、おおいに御悲嘆なされた。御意を受けた衆は、困惑して、引取り帰り、勝茂公へありのままに申上げた所、「さてさて勿体ない事だ。どうやって孝行しようかと思っている所に、左様に思われている用之助を、どうして殺せるだろうか。早々に三の丸へ行き、すぐに差し許すと申し上げるように。」と仰せ付けられ、用之助は差し許されたとの段が、御耳に達し、「子ながらも過分なる事。これに過ぎる事は無い。」と御本丸の方を御拝み遊ばされたそうだ。

聞書第三 〇三五九〜鐵砲的の時、鍋島直茂、老人齋藤用之助を勞はり、勝茂を戒む

原文

一、勝茂公、鐵砲的御覽なされ候に、齋藤用之助前になり、火蓋をつき、空に向かひて放し申し候。矢廻りの者、「玉なし。」と答へ申し候。用之助立ちながら高聲に申し候は、「何しに玉があらうか。この年まで終に土射たる事はなし。然れども妙な癖にて、敵の胴中は迦したる事なし。その證人には、飛騨殿生きておぢやる。」と申し候。勝茂公以ての外御立腹、御手打の御氣色に相見え候が、その儘御歸城遊ばされ、諸人興をさまし居り申し候。即刻三の丸へ御出で、「唯今斯くの如く次第にて御座候。私を主人とも存ぜず人中にて恥を與へ申したる者に候間、手打仕るべくと存じ候へども、御まへ様御秘蔵の者に候故堪忍致しこれ迄罷出で候、どの通りにも仰付けられ下され候様に。」と、殊の外御せきなされ、仰せ上げられ候。直茂公聞召され、「其方立腹尤も至極にて候。即ち寄親何某に腹を切らせ候へ。」と、あららかに仰せられ候。勝茂公聞召され、「組親何某不調法は御座なく候。唯用之助をどの通りにも仰付けられ下され候へ。」と仰せられ候。直茂公聞召され、「日頃組頭共へ申聞け候は、斯様に打續き天下泰平の事に候へば、若侍共油斷致し、武具の取扱も存ぜず、徒らに罷在りては自然の時用に立たざる事にて候間、先づ近々鐵砲的を射させ、信濃守に見せ候て然るべしと申付け候。これは不鍛錬の若輩者共の事にて候。それに老人の用之助を引出し、若輩者共並に的を射させ候事不調法千萬、寄親落度この上なく候。用之助申分尤も至極に候。彼の者が證人成程我等にて候、早速組頭切腹申付くべき」由、きびしく仰せられ候に付て、勝茂公重疊御斷り仰上げられ、相濟み申し候由。

現代語訳

一、勝茂公が、鉄砲を御覧なされた時、齋藤用之助の番に、火蓋をつき、空に向かって放った。矢廻りの者、「当たり玉無し。」と答えた。用之助は立ったまま声高に言ったのは、「当たるわけがない。この年までついに土を射た事は無い。しかし、妙な癖で、敵の中は外した事が無い。その証人には、飛騨殿が生きておじゃる。」と申した。勝茂公、以ての外の御立腹で、御手打ちの気配が見えたが、そのままお帰城遊ばされ、諸人は興ざめしてしまった。即刻三の丸へ行き、「唯今の様な次第です。私を主人とも思わず人前で恥を与えるべき者なので、手打ちにしようかと思ったが、あなた様の秘蔵の者である故、堪忍致しここまで来ました。どの通りにも仰せつけくだされます様に。」と、殊の外あせって、仰せ上げられた。直茂公聞し召され、「其の方の立腹はもっとも至極だ。すなわち寄り親何某に腹を切らせよ。」と、荒々しく仰せられた。勝茂公は聞し召され、「組親何某に不調法は在りません。ただ用之助をどの通りにも仰せ付け下され。」と仰せられた。直茂公は聞し召され、「日頃、組頭共から申し聞いている所では、この様に続く天下泰平であるので、若侍共が油断して、武具の扱いもしらず、いたずらに在るだけでは、有事の際に役に立たないので、まず近々鉄砲を射させ、信濃守に見せてるべしと申し付けた。これは不鍛錬の若輩者共の事だ。それに老人の用之助を引出し、若輩者共に並べ的を射させた事は不調法千万、寄り親の落ち度はこの上ない。用之助の申し分ももっとも至極だ。彼の者の証人は成程は、我である。早速組頭に切腹を申し付けるべし。」との旨、厳しく仰せられたので、勝茂公、重ねて謝り、事が済んだそうな。

聞書第三 〇三六〇〜天正十七年正月七日、直茂公口宣の事、「豊臣信生」

原文

一、直茂公口宣の事

一 從五位下口宣

一 加州様に御受領の時口宣

豊臣信生と有之

現代語訳

一、直茂公、口宣の事

一 従五位下口宣

一 加州様に御受領賜った時の口宣

豊臣信生と有之

聞書第三 〇三六一〜鍋島直茂、其の家中に兄豊前守家來との喧嘩口論を厳戒す

原文

一、豊前守殿御屋形は、最初鹽田にて候。直茂公仰付に、「御家中の者、豊前守殿御家來衆と公事沙汰喧嘩口論等仕出し候はゞ理非に依らず、御家中の者負けに仰付けらるべし。」と兼て仰出で置かれ候由。脱空老話也。

現代語訳

一、豊前守殿の御屋形は、最初、塩田だった。直茂公の仰せで、「御家中の者、豊前守殿の御家来衆と公事沙汰、喧嘩、口論等をしたら、理非によらず、家中の者の負けと仰せ付けられるべし。」と兼ねて仰せ置かれたそうだ。脱空老の話である。

聞書第三 〇三六二〜鍋島直茂高麗陣に傳戰、小早川隆景の明識に感嘆す

原文

一、伏見御城にて於て、高麗陣御詮議の時分、太閤の御前にて、隆景色絵圖をひろげ、「赤い國へは此の道より打入り、白き國を通り候て。」などと御申し候。直茂公其の座に御座なされ、「爰許にて空の御詮議は役に立つまじく。」と思召され、既に、仰上げらるべくと思召され候へども、若し御意にさかひ申す儀もやと、御控へなされ候。さて高麗にて段々御仕寄なされ候に、伏見にての御詮議少しも違ひ申さず、直茂公其の時御一言御控へ、御仕合せと思召され候と、御話の由。助右衛門殿話也。右は前方に、隆景など潜かに渡海候ての事かと也。

現代語訳

一、伏見の御城に於いて、高麗陣の御詮議の時分、太閤の御前にて、隆景が色絵図を広げ、「赤い国へはこの道から打ち入り、白き国を通って」などと申した。直茂公、その座に御座なされ、「ここに居て空の御詮議は役に立たないだろう。」と思召され、既に仰せ上げられるべきと思召されたが、もし御意と違う事もあるかもしれないと、御控えなされた。さて高麗にて段々と行っていくうちに、伏見での詮議が少しも違わず、直茂公はその時の一言を控えて良かったと思召された、と御話なされたそうな。助右衛門殿の話である。右の件は事前に、隆景が密かに海を渡っていたのではないかとの事だ。

聞書第三 〇三六三〜鍋島直茂の一言、御城密通仕置者の幽靈を消滅せしむ

原文

一、三の御丸にて密通仕り候者御詮議の上、男女共に御殺しなされ候。其の後、幽靈夜毎御内に現れ申し候。御女中衆恐ろしがり、夜に入り候へば外へも出で申さず候。久しく斯様に候故、御前様へ御知らせ仕り候に付て、御祈祷、施餓鬼など仰付けられ候へども相止まず候故、直茂公へ仰上げられ候。公聞召され、「扨々嬉しき事かな、彼の者共は首を切り候ても事足らず、にくき者共にて候。然る處、死に候ても行く所へも行かず、迷ひ廻り候て幽靈になり、苦を受け、浮び申さゞるは嬉しき事也。成程久しく幽靈になりて居り候へかし。」と仰せられ候。其の夜より幽靈出で申さゞる由。

慶長十一年丙午、公上方御留守の間に密通露顯、御歸國の日これを捕へ候。其の内慶加と申す坊主取損じ、御蔵に入り、戸を立て切籠る。これに依り牟田茂齋刀を差さず、内に入りて面談し、和議を以て搦め取り候。女中は乳人おとら お千代 お亀 松風 かるも おふく あいちや、合わせて八人也。男は中林清兵衛 同勘右衛門 三浦源之丞 田崎正之助 慶加 七右衛門、合わせて六人也。本庄若村の廟にて成敗仰付けられ候。

現代語訳

一、三の丸にて密通した者を詮議の上、男女ともに処刑した。その後、幽霊が夜毎に城内に現れた。御女中衆が恐ろしがり、夜になったら外へも出なくなった。長くこのような状態だったため、御前様へ御知らせし、御祈祷、施餓鬼などを仰せ付けられたが解決しなかったので、直茂公へ報告が上がった。公は聞し召され、「さてさて、嬉しい事だ。かの者共は首を切っても事足らず、憎き者だ。然る所、死んでも行くべき所へも行かず、迷い廻って幽霊になり、苦を受け、浮かばれないのは嬉しい事だ。なるほど長く幽霊になって居れ。」と仰せられた。その夜から幽霊は出なくなったそうだ。

慶長十一年丙午、公が上方留守の間に密通が露見し、御帰国の日にこれを捕えた。その内慶加と申す坊主を取り逃がし、御蔵に入り、戸を立てて立て篭もった。そのため牟田茂齋が刀を差さず、中に入って面談し、和議を以てからめ捕った。女中は乳人おとら、お亀、松風、かるも、おふく、あいちや、の合わせて八人だった。男は、中林清兵衛、同勘右衛門、三浦源之丞、田崎正之助、慶加、七右衛門、の合わせて六人である。本庄若村の廟にて成敗を仰せ付けられた。

聞書第三 〇三六四〜鍋島直茂千栗通過の時、見るに忍びずとて九十の老人を見ず

原文

一、直茂公千栗御通りの時、「此処に九十餘歳の者罷在り候。目出度き老人に候間、御覽遊ばされ候様に。」と申し上げ候。公聞召され、「それ程見にくき者はなし、幾人の孫子どもをか見倒したらん、何が目出度かるべき。」と仰せられ、御覽遊ばされず候由。

現代語訳

一、直茂公が千栗を御通りになった時、「ここに九十歳あまりの者がおります。めでたい老人であるので、御覧あそばされます様に。」と申上げた。公は聞し召され、「それほど見にくい物は無い。何人の孫、子供を看取ったか知れず、何がめでたいものか。」と仰せられ、御覧あそばされなかったそうだ。

聞書第三 〇三六五〜鍋島直茂の前妻離別、主水茂里は直後妻の陽泰院の又甥

原文

一、直茂公の御前妻は高木肥前守娘にて候。此の高木の末、諫早の三村惣左衛門の由也。御離別以後、筑後の鐘ケ江甚兵衛に嫁娶候也。高木の正法寺に納り候。主水殿(日妙)の御内方天林様は、右御前妻の御腹に御出生也。日妙事は、陽泰院様の御甥にて候。日妙の御袋は石井安藝守殿御戦死以後、深堀茂宅へ嫁娶仰付けられ候由。助右衛門殿話也。

現代語訳

一、直茂公の御前妻は高木肥前守の娘である。この高木の末裔が、諫早の三村惣左衛門であるそうだ。御離別以後、筑後の鐘ケ江甚兵衛の嫁に娶られた。高木の正法寺に葬られている、主水殿(日妙)の妻である天林様は、右御前妻の御腹から御出生なされた。日妙は、陽泰院様の御甥である。日妙の御袋は石井安藝守殿、御戦死以後、深堀宅へ嫁入り仰せ付けられたそうだ。助右衛門殿の話だ。

聞書第三 〇三六六〜龍造寺隆信の島原戦死と鍋島直茂宗龍寺建立の由來

原文

一、隆信公御戦死以後、直茂公御念じなされ候は、「某儀島原に御供仕る筈に候へども、一度薩摩に仇を報じ申すべき爲存命仕り、屹度取懸け申すべくと存じ候處、勇士共は島原にて討死仕り、生残り候者共は老人若輩共故所存に任せず推し移り候。此の事、相叶はざる以前に御弔仕り候にても、御請け遊ばさるまじくと存じ奉り候間、御弔仕らず候。一度念願相叶ひ候様に御守護遊ばさるべき」由御祈念遊ばされ候。然る處、太閤秀吉公薩摩退治の爲御下向に付て、直茂公より、「古敵に候間先陣仰付けられ候様に。」と御願なされ、相叶ひ申し候。直茂公御祈念に、「今度先陣仕り、念願相叶ひ罷歸り候て、當城の鬼門に一寺建立仕り御弔を始め永々當家の弓箭の守護神と崇め申すべく候。いよいよ御威力を加へらるべき」由、隆信公の尊靈に御祈誓なされ候て、御打立遊ばされ候。島津兵庫降参に付、御褒美の爲政家公へ羽柴御名字、直毛公へ豊臣氏並に御小袖二つ御拜領なされ候。御歸國の上、金剛山宗龍寺御建立、御七年の御法事より初めて御弔なされ、戦死の面々も同然に御弔なさるべき由にて、直茂公御自筆に附け遊ばされ候。今に宗龍寺にこれあり。右御拜領の御小袖、一つは御寺納なされ、一つは御城にこれある也。宗龍寺住持年頭には右御小袖を着仕り、天下泰平國家安全の御祈祷仕らるゝ由。扨又川上棟木の銘に、羽柴肥前守政家とこれある由。宗智寺御塔には鍋島加賀守豊臣朝臣直成とこれある由也。

政家公御名字御拜領は、天正十六年大阪御參上の節、大友立花同然に、御官位御名字御紋下され候由。馬渡氏話也。

現代語訳

一、隆信公の御戦死以後、直茂公が御念じなさったのは、「某の儀、島原にて御供仕る筈でしたが、一度薩摩に仇を報いるために存命仕り、きっと一矢報いると思っていた所、勇士共は島原にて討死し、生き残った者共は老人、若輩共であった故、思いに反して時が移ってしまいました。この事、叶う前に御弔い仕っても、御請け遊ばされないと存じ、御弔い仕らずにおりました。一度念願が叶う様に御守護遊ばされますように」との旨、御祈念遊ばされた。然る所、太閤秀吉公が薩摩退治の為、下向するに付いて、直茂公より、「古敵であるので、先陣を仰せ付けられます様に。」と御願いなされ、相叶った。直茂公の御祈念に、「今度先陣仕り、念願が叶って、当城の鬼門に一寺建立し御弔いを始め永々当家の弓矢の守護神と崇めます。いよいよ御威力を加えられます様に。」との旨、隆信公の尊靈に御祈誓なされて、御打ち立ち遊ばされた。島津兵庫が降参したので、御褒美の為、政家公へ羽柴の御名字、直茂公へ豊臣氏並びに小袖二つ御拝領なされた。御帰国の上、金剛山宗龍寺を御建立なされ、御七年の御法事から初めて御弔いなされ、戦死の面々も同然に御弔いなされるとの事で、直茂公の御自筆にて御付け遊ばされた。今でも宗龍寺にある。右御拝領の御小袖、一つは御寺納なされ、一つは御城にある。宗龍寺住持年頭には右御小袖を着て、天下泰平国家安全の御祈祷仕られるとの事だ。さてまた、川上棟木の銘に、羽柴肥前守政家とあるそうだ。宗智寺の御塔には鍋島加賀守豊臣朝臣直茂とあるとの事だ。

政家公の御名字拝領は、天正十六年大阪御参上の時、大友、立花同然に、御官位、御名字、御紋を下されたとの事。馬渡氏の話だ。

聞書第三 〇三六七〜鍋島直茂、薩摩から送つた龍造寺隆信の首を突返す

原文

一、隆信公の御首、薩摩より送り、筑後榎津に參着、これは國の強弱を伺ひ候事を直茂公御察し、大隈安藝守に仰含められ遣はされ、御しるし差返され候。それより薩摩に用心の由。薩摩の使、御首を肥後高瀬の願行寺に納めて歸り候也。

現代語訳

一、隆信公の御首が、薩摩より送り付けられ、筑後榎津に参着し、これは国の強弱を伺おうとしている事を直茂公が御察しなさり、大隈安藝守に仰せ含めて遣わされ、御しるしをお差し返しなされた。それから薩摩は用心したそうだ。薩摩の使いは、御首を肥後高瀬の願行寺に納めて帰った。

聞書第三 〇三六八〜鍋島直茂、遺愛の地多布施御館に逆修を建つ、宗智寺の由來

原文

一、直茂公御耳に瘤出來候を、誰が申上げ候や、「蜘蛛のえにて巻き、引切り候へば、切れ申すものにて候。」と申上げ候故、「せはしきもの也。」と仰せられ、右の通り遊ばされ候。其の跡たゞれ、段々くさり申し候。御養生なされ候へども癒え申さず候に付、「我等、唯今まで、人の爲に良き様にとばかり何事も致し候へども、聞き候處に違ひありて、我知らずに誤り候事ありと見えて、天道より耳に御尤めある事と存じ候。くされ死しては子孫の耻に候間、大破にならぬ内に死に候へかし。」と仰せられ、其の後は、唯御病氣とばかり仰せられ、深く御かくし遊ばされ候が、御絶食にて御藥も召上がられず候。勝茂公より、「親の死場に藥を呑ませ申さぬ事、後日の批評も面目御座なく候間、御藥召上がられ下され候様に。」と重畳お断り仰上げられ候に付て、「さらば信濃守が爲に候間、輕き藥を呑ませ候様に。」と仰付けられ、御薬煎役林榮久仰付けられ候。御藥差上げ候處、榮久召出され、以ての外御立腹にて、「其方は心安者にて律儀なる者と存じ候故、藥の事申付け候へば、不届き千萬の儀を仕り候。此の藥には米を加へたるもの也、有體に申し候へ。」と御意なされ候。榮久涙を出し、「數日御食召上がられず、御力も御座あるまじく候へば、せめて御藥に少し米を入れ煎じ候て差上げ、御力附け遊ばされ候はゞ、御本復遊ばさるべくや、と存じ候て、成程米を加へ申し候」由申上げ候。「重ねて斯様に仕らざる様に。」ときびしく仰付けられ候。御病中石井生札を召出され、「今夜中に書院を解けのけ度く候。人足共物音仕らぬ様になるべくや。」と御意なされ候。「安き御事にて御座候。」由御請け申上げ、一夜に解きのけ、少しも物音仕らず候。翌朝に御覧なされ、「何と致し候へば物音仕らず候や。」と御尋ねなされ候。生札申上げ候は、「夫丸に柴の葉をくはへさせ申し候。」と申上げ候。公聞召され、「よく仕り候。それ故其方には申付け候。扨泉水の中島の石を書院の跡に逆修に立て申すべく候。野面石にて塔を立て候へば、子孫がなきものと、うばかゝ共申し候。人が不氣味に存ずべく候間、石の裏を斧にて切形附け候様に。」と仰付けられ、御銘書は暫く御工夫遊ばされ、鍋島加賀守豊臣朝臣直茂と御書かせなされ候。右の御屋敷宗智寺也。御塔もこれあり候也。但し御死去前年御建てなされ候也。

現代語訳

一、直茂公の御耳に瘤が出来たのを、誰が申上げたのか、「蜘蛛の糸で巻き、切り取れば、切れる物です。」と申し上げたので、「せわしいものだ。」と仰せられ、右の通り遊ばされた。其の跡がただれ、段々腐った。御養生なされたが、癒えなかったので、「我は、ただ今まで、人の為に良い様にとばかり何事もやってきたが、聞いた所に間違いがあって、我の知らぬ間に誤った事があると見えて、天道から耳にお咎めがあったのだと思う。くされ死にしては、子孫の恥に成るので、酷くならぬうちに死のう。」と仰せられ、その後は、ただ御病気とばかり仰せられ、深く御隠し遊ばされたが、御絶食にて御薬も召上がられなかった。勝茂公より、「親の死場に薬を呑ませない事は、後日の批評にも面目ございませんので、御薬召上がられ下されます様に。」と重ねて断わりを仰せ上げられるので、「そうであれば、信濃守の為に軽い薬を呑ませる様に。」と仰せ付けられ、御薬煎役の林榮久へ仰せ付けられた。御薬を差上げた所、榮久召し出だされ、以ての外御立腹にて、「その方は心安者で、律儀なる者と思ったので、薬の事を申し付けて見れば、不届き千万のな事をした。この薬には米を加えたものだ、有のままを言え。」と御意成された。榮久は涙を流し、「数日お食事を召しあがられず、御力も無いだろう事であれば、せめて御薬に少し米を入れ煎じてさしあげ、御力を御付け遊ばされれば、御回復遊ばされるだろう、と思って、仰せのとおり米を加えました。」との旨、申上げた。「くれぐれもこの様な事はしない様に。」ときびしく仰せ付けられた。御病中、石井生札を召し出だされ、「今夜中に書院を解いてのけたい。人足共の物音を立てぬ様になるか。」と御意なされた。「安き御事でございます。」との事で御請け申上げ、一夜のうちに解きのけ、少しも物音を立てなかった。翌朝に御覧なされ、「どのようにすれば物音立てずにできるのか。」とお尋ねなされた。生札が申上げ事には、「夫丸に柴の葉を咥えさせました。」と申し上げた。公はお聞き召され、「良くやった。それ故にその様に申し付けたのだ。さて泉水の中島の意思を書院の跡に逆さに立てようと思う。野の石で塔を立てれば、子孫が出来ないと、乳母やかか共が申すのだ。人が不気味に思うだろうから、石の裏に斧で切り形を付けるように。」と仰せ付けられ、御銘書は暫く御思案遊ばされ、鍋島加賀守豊臣朝臣直茂と御書かせなされた。右の御屋敷が宗智寺である。御塔も残っている。但し御死去前年に立てなされたものだ。

聞書第三 〇三六九〜時節到來と思はゞ潔く家を崩せ、其の時抱へ留むる事もある

原文

一、元成公へ直茂公御話に、「上下によらず、時節到來すれば家が崩るゝもの也。その時崩すまじきとすれば、きたな崩しをする也。時節到來と思はゞいさぎよく崩したるがよき也。その時は抱へ留むる事もあり。」と仰せられ候由。月堂様御話を禪海院殿聞き覺え候由也。

現代語訳

一、元成公へ直茂公がなさったお話に、「身分の上下によらず、時節が到来すれば家が崩れるものだ。その時崩すまいとすれば、きたなく崩れる。時節が到来したと思ったら潔く崩すのが良い。その時は抱え留める事もある。」と仰せられたそうな。月堂様御話を禪海院殿が聞きおぼえていたとの事だ。

聞書第三 〇三七〇〜鍋島直茂、靈夢に感じて興賀宮に永代常夜燈を寄進す

原文

一、直茂公御夢に、興賀の宮の前を御通り遊ばされ候處に、御後より、「加賀守々々々」と呼聲仕り候に付き、御身返り遊ばされ候へば、白張装束の人石橋の上に御立ち、「闇うてならぬ」と仰せられ候。御夢心に、さては常燈を上げよとの御事なるべしと思召され、それより常燈差上げられ候。御隠居以後も直茂公より差上げられ候に付、今に小城より上り候由。

現代語訳

一、直茂公の御夢で、興賀の宮の前を御通り遊ばされたところ、御後から、「加賀守、加賀守」と呼び声がするので、御身返り遊ばされると、白装束の肥後が石橋の上に御立になり、「暗くていかん」と仰せられた。御夢心に、さては常燈を上げろとの事だなと思召され、それから常燈を上げられた。御隠居以後も、直茂公より差上げられたので、今でも小城が上げているとの事。

聞書第三 〇三七一〜鍋島直茂前夫人、後妻打に出で、陽泰院の應待に納得して歸る

原文

一、直茂公最前の御前様、御離別以後、うはなり打ちに折々御出で候へども、陽泰院様御取持御丁寧に候故納得にて御歸り候事、度々にて候由。

現代語訳

一、直茂公の最前の御前様が、離別以後、うわなり打ちに折々御出になったが、陽泰院様の御取持ちが御丁寧であった故、納得してお帰りに成る事が度々あったとの事だ。

聞書第三 〇三七二〜鍋島直茂の生前、領内の土民加賀守を行神様として拜む

原文

一、日峯様御存生の内より、在々端々の者共わかり兼ねたる事これあり候時は、佐嘉の方を拜み、鬮取り候て、「加州様御教へなされ候。」と申し候て、相定め候由。

現代語訳

一、日峰様が御存命の時から、在々端々の者共は分かり兼ねる事がある時は、佐嘉の方を拝み、くじを引いて、「加州様お教え下さりませ。」と言って、物事を決めたそうな。

聞書第三 〇三七三〜鍋島直茂の明察、藤島生益宅に本庄院住持の奸計を糺さしむ

原文

一、藤島生益宅に、早朝に本庄院住持参り。「今朝御神體御身拭仕るべき爲、寶殿を開き候へば、御くし落ち居り申し候。早々申上ぐべき爲、御くしも持參仕り候。」と、袈裟に包み、差出し申され候。生益申し候は、「御くしは御覽なさるゝ物にてもこれなく候間、御持歸りなさるべく候。右の段は即ち申上ぐべし。」と申し候て、出仕致し申上げ候處、直茂公以ての外御立腹、「さてさて憎き坊主かな。加賀守をだまし申すべくと仕り候や。即ち××共召連れ、拷問にて有體に言はせ候様に。」と、仰せられ候。生益、落着き難く、「御為を存じ候て申し候處、拷問仕り候儀は如何。」と申上げ候へば、殊の外御叱り、「其方は成るまじく候。餘人申付くべし。」と仰せられ候に付て、生益申上げ候は、「成り申すまじきにては御座なく候。左様に御意なされ候はゞ、即ち罷越すべし。」と申し上げ、牢守織部召連れ、罷越し候處、住持出會申され候を手を取り、加州様御立腹、即ち拷問を仰出され候由申し候へば、「さてさて迷惑なる儀合點參らず。」と申され候。生益申し候は、「出家たる者の××の手に渡り候上にて、白状は見苦しくこれあるべく候。」と申し候に付。住持申され候は、「然らば有體申上ぐべく候。御身拭仕り、御神體動き候故、御くし落ち申し候に付、不圖心附き、斯様に申上げ候はば、御造營もなされ、寺も榮え申すべしと存じ候て申上げ候」由、白状仕り候。生益急ぎ罷歸り、白状の通り申上げ候へば、最前に違ひ、御笑ひなされ候。生益せき上り、「私をだまし申したる遺恨晴しに磔に懸け申すべく候間、私に下され候様に。」と申上げ候。直茂公いよいよ御笑ひなされ、「其方は最初實と存じ候故、今腹立て候。我等は謀計の儀を早く察し候に付て、その節は腹立ち候へども、今は左様になし。彼の坊主、この中、我等社參の度々に、寺に立寄り候様にと申し候故、一度より候へば、吸物を出し候が、椀の底に土附き居り候。さ候て、頭を地に附け、有り難きなどと申し候。作用に存じ候はゞ、我等に据ゑ候膳の心遣こそ入念すべき事に候。賣僧者すまぬ奴と日頃存じ候が、斯様の事工み出し候。祇願所の事に候間、唯住持を代へ候様に。」と仰付けられ候由。生益痛み入り候と物語の由。清左衛門話の由也。

現代語訳

一、藤島生益宅へ、早朝に本庄院住持が来て、「今朝、御神体の御身拭き仕ろうと、宝殿を開いたところ、御くしが落ちておりました。すぐに申上げるべく、御くしも持参仕りました。」と、袈裟に包んで、差し出された。生益が言ったことには、「御くしは御覧なされるべきものでもないので、お持ち帰りください。右の段はすぐに申し上げておきましょう。」と申して、出仕致した所、直茂公は以ての外の御立腹で、「さてさて憎き坊主かな。加賀守をだまそうとしたか。すぐに××共を召し連れて、拷問にかけ有りのままを言わせる様に。」と仰せられた。生益、落着き難く、「御為を思って申した所を、拷問仕るのは如何なものでしょうか。」と申上げると、殊の外御叱りなさり、「其の方では出来まい。他の者に申し付けよう。」仰せられたので、生益が申上げたことには、「出来ないわけでは御座いません。左様に御意なされるのであれば、すぐに行って参ります。」と申上げ、牢守織部を召し連れて行った所、住持が出て来たところのを手を取り、加州様御立腹で、すぐに拷問を仰せ出された旨を伝えた所、「さてさて迷惑な事で、合点がいかぬ。」と申された。生益が申した事には、「出家した者である××の手に渡った上に、白状するのは見苦しいだろう。」と申したので、住持が申した事には、「然らば有のままを申上げましょう。御身を拭き仕り、御神体を動かしたので、御くしが落ちてしまい、ふと思いつき、この様に申上げたら、御造営もなされ、寺も栄えるだろうと思って申上げました。」との旨、白状した。生益が急いで戻り、白状の通り申上げると、先程とは違い、お笑いなされた。生益がいきり立って、「私をだました遺恨を晴らしに磔にかけますので、私に命じてください。」と申上げた。直茂公ますますお笑いなされ、「其の方は最初に本当だと信じた故、今腹を立てた。我は謀であると早く察したので、その時は腹が立ったが、今はそうでは無い。彼の坊主は、この間、我の社詣での度に、寺に立ち寄り下さる様にと言うので、一度寄ってみた所、吸い物を出したのだが、椀の底に土が付いていた。それで、頭を地に付け、有り難きなどと言った。その様に思うのであれば、我に出す膳の心遣いにこそ入念にすべき所だ。売僧者ゆるせん奴だと日頃から思っておったが、この様な事をたくらみ出した。祈願所である事もあるので、ただ住持を代えるように。」と仰せ付けられたとの事。生益痛み入ったと語ったそうだ。清左衛門の話だそうである。

聞書第三 〇三七四〜鍋島直茂、家中の怨聲を聴いて即刻信新任の高祿者を罷免す

原文

一、稲垣権右衛門御暇下され候事直茂公の御代に、御家中の者上方一向存ぜず、公儀方勤め候者、倉町九郎一人ならでこれなく候。國廻り上使の附廻りを九郎に仰付けられ候處、「上方衆は銀の轡をはめ申し候間、早々仰付けられ候様に。」と註進仕り候。又野がけにて、上使より辨當御振舞ひの時、毛氈を敷きこれあり候を、何としたる致し様かと色々工夫致し、毛氈を膝に懸け、野がけを食べ申し候。みがき轡毛氈などさへ見知らざる體の人に候へども、せめて公儀方九郎ならでこれなく、別けて御事缺き候故、稲垣権右衛門と申す浪人を二百石にて召抱へられ候。その時分、高傳寺御參詣の處に、門前に張り紙、

御譜代の者だに取らぬ知行をばいながきが來て二百石取る

と書附けあり。御歸りの上、「譜代の衆にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れ候事、何れも不合點の段尤も至極、我等誤り痛み入り候。公儀方不調法にても國家の害にはならず候。」と仰せられ、権右衛門へ右の段仰聞けられ、御暇下され候由。

現代語訳

一、稲垣権右衛門がお暇を下された件について。直茂公の御代には、御家中の者は上方を一向に知らず、公儀方を勤めた者は、倉町九郎一人以外にはいなかった。國廻り上使の附け廻りを九郎に仰せ付けられた所、「上方衆は銀の轡をはめるので、早々にお申し付けくださります様に。」と注文を付けた。また、野がけにて、上使から弁当がふるまわれたとき、毛氈が付いており敷いて使う所を、どうやって使うのかと色々工夫して、毛氈を膝に懸け、野がけを食べた。みがき轡や毛氈などさえ見知らぬ程度の人だったが、それでも公儀方は九郎でなくてはならず、とりわけ事欠いていたので、稲垣権右衛門と申す浪人を二百石にて召し抱えられた。その時、高傳寺を参詣したところ、門前に張り紙があり、

譜代の者でもとれぬ程の知行をいながきが来て二百石取る

と書付があった。御帰りの上、「譜代の衆にさえ無沙汰致し、よその者に知行を与える事、いずれも納得しないのは至極もっともな事であり、我は誤り痛み入った。公儀方に不調法でも国家の害にはならない。」と仰せられ、権右衛門へ右の顛末を聞かせ、お暇を下されたそうだ。

聞書第三 〇三七五〜豊太閤朝鮮征伐と鍋島直茂、直茂出陣後八箇年歸國せず

原文

一、天正十八年の秋、太閤大明御征伐の爲、道を朝鮮に求められ候へども、朝鮮請合ひ申さゞるに付、先づ朝鮮御征伐の爲、名護屋御城直茂公へ仰付けられ候。文祿元年高麗御陣、加藤清正 直茂公御先陣、公の御勢一萬二千也。三月下旬御出船、四月二十八日朝鮮釜山浦御着也。文祿三年中戻り、諸将休息の爲、召寄せられ候。慶長二年三月直茂公召させられ御歸朝、大阪御逗留、六月上旬御暇、蜂須賀 安國寺 直茂公、朝鮮軍事三奉行に仰付けられ、同三年十二月皆々歸朝。直茂公 勝茂公直に御登り、伏見にて家康公御面談、大阪にて秀頼公へ御勤なされ候。同四年三月直茂公御暇にて御下國。朝鮮立ちより八箇年御歸國成されず候也。

現代語訳

一、天正十八年の秋、太閤大明征伐の為、道を朝鮮に求められたが、朝鮮は打合わなかったので、まず朝鮮御征伐の爲、名護屋御城を直茂公へ仰せ付けられた。文禄元年高麗御陣、加藤清正、直茂公御先陣、公の御軍勢は一万二千であった。三月下旬に御出船、四月二十八日朝鮮釜山浦へ御着きになった。文禄三年中戻り、諸将休息の為、召し寄せられた。慶長二年三月直茂公めさせられ御帰朝し、大阪御逗留、六月上旬お暇、蜂須賀 安国寺 直茂公、朝鮮軍事三奉行に仰せ付けられ、同三年十二月皆々帰朝。直茂公、勝茂公、直ぐに御登りになり、伏見にて家康公と御面談、大阪にて秀頼公へ御勤めなされた。同余念三月直茂公御隙にて御下国、朝鮮出発から八年御帰国なさらなかった。

聞書第三 〇三七六〜「常時氣味のよき事は必ず後に悔む事あるもの也」

原文

一、直茂公、「常時氣味のよき事は、必ず後に悔む事あるもの也」と、御意なされ候由。

現代語訳

一、直茂公は、「常に、気味の良い事は、必ず後に悔む事があるものだ。」と御意なされたそうである。

聞書第三 〇三七七〜鍋島直茂寒夜に抜身の槍を持ち、酒宴中の龍造寺隆信を衛る

原文

一、隆信公御軍功段々募り申し候時分、或夜御酒宴遊ばされ候に、御庭の隅に、人影見え申し候由、女中など申し候に付、即ち御出で御覽なされ、「何者ぞ。」と御咎めなされ候へば、「左衛門大夫にて候。」と御答へなされ、抜槍を御持ち御座なされ候。「何故に、それに居られ候や。」と隆信公仰せられ候へば、「世上に敵多く、御油斷なさる時節にて御座なく候。今夜御酒宴と承り候に付、心もとなく存じ御番仕り候」由仰せられ候。隆信公御感心淺からず、「これにて酒をまゐり候へ。」と仰せられ候に付、御座に御通りなされ候處、寒夜にて御手こごえ、御持ちなされ候御槍、御手より離れ申さず候由。

現代語訳

一、隆信公の御軍功がだんだんと募ってきた時分、或る夜に御酒宴遊ばされた時、御庭の隅に、人影が見えたと、女中などが申すので、直ぐに出て御覧なされ、「何者ぞ。」と御咎めなされたところ、「左衛門大夫です。」と御答えなされ、抜槍を御持っておられた。「なに故に、そこにいるのか。」と隆信公が仰せになったところ、「世上に敵多く、御油断なさる時では御座いません。今夜は御酒宴と承りましたので、不安に思い、御番を仕っておりました。」との旨仰せられた。隆信公の感心は浅からず、「こちらで酒をのめ」と仰せられたので、御座に御通りなされたが、寒空に手が凍え、御持ちなされた御槍が、御手から離れなかったそうだ。

聞書第三 〇三七八〜豊太閤鍋島直茂に國を任せた龍造寺隆信を名将と褒む

原文

一、太閤様仰せに、「龍造寺隆信と云ひし者は、名将たるべしと思われ候。その仔細は、鍋島飛騨守に國家を打任せ候は、能く人を見知りたるもの也。今飛騨守を見て、思ひ知られ候。」と御申し候由。

現代語訳

一、太閤様の仰せに、「龍造寺隆信と云う者は、名将だろうと思われる。その訳は、鍋島飛騨守に国家を打ち任せたのは、能く人を見知っていた故であるからだ。今飛騨守を見て、思い知らされた。」と申されたそうな。

聞書第三 〇三七九〜小田原陣と鍋島直茂、東上途中下の關道山平兵衛方に一泊す。

原文

一、天正十八年小田原御陣に、直茂公御越の節、下の關御宿、道山平兵衛にて候也。

現代語訳

一、天正十八年小田原御陣に、直茂公が御越しの折、下関の御宿は、道山平兵衛方であった。

聞書第三 〇三八〇〜鍋島直茂、磔刑の罪人を助け蓮池めい島に千間堀を掘らしむ

原文

一、慶長八年十一月、中野神右衛門代官所の百姓共、下代八並善左衛門と申す者の事を、生三方へ挟み状仕り、御改めの上無實に付、磔と申上げられ候處、直茂公、「磔は臺木も人間も腐り捨たるものにて候。殊に甚右衛門合點申すまじく候。蓮の池めい島に千間掘ほらせ候様に。」と仰付けられ候。訴訟人共千間堀をほり申し候由。

現代語訳

一、慶長八年十一月、中野甚右衛門代官所の百姓共が、下代の八並善左衛門という者の事について、生三の所へ挟み状を持ってきたが、御改めの上で善左衛門は無実であったので、百姓共を磔にすると申上げられた所、直茂公は、「磔は台木も人間も腐って捨てることになる。特に甚右衛門が納得しないだろう。蓮の池めい島に千間堀をほらせる様に。」と仰せ付けられた。訴訟人共は千間堀をほったそうな。

聞書第三 〇三八一〜三十九 鍋島直茂、朝鮮凱旋の時陶工を伴ひ歸りて有田焼を創む

原文

一、有田皿山は直茂公高麗國より御歸朝の時、日本の寶になさるべくと候て、焼物上手頭六七人召連れられ候。金立山に召置かれ、焼物仕り候。其の後伊萬里の内、藤河内山に罷移り、焼物仕り候。それより日本人見習ひ、伊萬里有田方々に罷成り候由。

現代語訳

一、有田皿山は、直茂公が高麗国から御帰朝の時、日本の宝にしようと、焼物上手頭を六、七人召し連れなされた。金立山に召し置かれ、焼物を仕った。其の後、伊万里の内や、府議川内山に移り、焼物を仕った。それから日本人が見習い、伊万里、有田方々に成ったそうな。

聞書第三 〇三八二〜鍋島直茂、鹿子天神に參詣、地に平伏して安藝守の粗忽を謝す

原文

一、鹿子村龍昌寺の天神は、隆信公宰府御歡請なされ候。安藝守殿若輩の時分、天神の森にて鳩を打ち申され候處、迦れ申し候に付て、腹を立て、「今の鳩に中り申さゞるは天神の業にてあるべし、にくき天神也。」とて二つ玉をこめ、寶殿を裏表に射抜き罷歸られ、直茂公へ右の段申上げられ候。公聞召され、「さてさて勿體なき事を仕り候。」と即ち御行水なされ、御上下を召し御參詣、「唯今疎早者、以ての外の儀を仕り、御怒り遊ばさるべしと、近頃迷惑千萬に存じ奉り候。彼の者は兼ねて右の通りの疎早者に御座候。平に御免遊ばさるべく候。御斷りの爲、某罷出で候。」と地に御平伏、高吟に御斷り仰上げられ候由。

現代語訳

一、鹿子村龍昌寺の天神は、隆信公宰府御勧請なされた。安藝守殿が若輩の時分、天神の森にて鳩を打った所、外れたので、腹を立て、「今の鳩に当らなかったのは天神の業だろう。にくき天神だ。」といって二つ弾を込め、宝殿を表裏に射抜いて帰られ、直茂公へ右の段を申上げられた。公は聞し召され、「さてさて勿体ない事をしてくれた。」とすぐに御行水なされ、御上下を召し御参詣なされ、「唯今の粗相者、以ての外の行いをして、御怒り遊ばされているだろうと、近頃困り果てております。彼の者は兼ねてより右の通りの粗相者で御座います。平に御許し遊ばされます様に。御断りの為、某が出て参りました。」と地に御平伏なさり、高吟に御断り仰せ上げられたそうだ。

聞書第三 〇三八三〜鍋島直茂の教訓、我が氣に入らぬことが我が爲になるもの

原文

一、直茂公の仰せに、「我が氣に入らぬ事が、我が為になるもの也。」と仰せられ候由也。

現代語訳

一、直茂公の仰せに、「我が気に入らぬ事が、我がためになる物だ。」と仰せられたそうな。

聞書第三 〇三八四〜鍋島直茂、陽泰院の働振りを見込んで執心し、これを娶る

原文

一、陽泰院様は、御前夫納富治部大輔殿御討死以後、石井兵部大輔殿 飯盛の屋敷に御座なされ候。或時、隆信公御出陣御供の衆、兵部大輔殿御方へ立寄られ、辨當つかひ申され候。兵部大輔殿内衆へ、「鰯を焼き進じ候様に。」と御申付け候。内衆焼き申し候へども、大勢にて中々間に合ひ申さず候。陽泰院様、のれんの陰より御覽なされ候が、つと御出で、大竈の下の火を掻き出し、鰯籠を打ち移し、大團扇にてあふぎ立て箕にかすり込み、炭を簸出し、其の儘差し出され候。直茂公御覽なされ、「あのように働きたる女房を持ち度し。」と思召し込まれ、その後御通ひなされ候。或時、「盗人」と申し候て追懸け候故、堀を御飛びなされ候へば、刀打かけ候に付、御足の裏に少し疵附き申し候。この外に多久夜懸の時分、薄手一箇所御負ひなされ候由也。又一説に、天正四年二月横澤城攻の時、御手負われ候ばかり也と。

現代語訳

一、陽泰院様は、御前夫 納富治部大輔殿の御打死に以後、石井兵部大輔殿、飯盛の屋敷に身を置かれていた。或時、隆信公御出陣の御供の衆、兵部大輔殿方へ立ち寄られ、弁当を作らせた。兵部大輔殿は内衆へ、「鰯を焼いて進ずるように。」と御申し付けなさった。内集は、焼いたが、大勢で中々間に合わなかった。陽泰院様、のれんの陰から御覧なさっていたが、すっと出てきて、大釜戸の下の火を掻き出し、鰯籠を打ち移し、大団扇で扇ぎ立て、身をこすって、炭をおとし、そのまま出された。直茂公が御覧になって、「あの様に働く女房を持ちたい。」と思召し込まれて、その後御通いなされた。或時、「盗人」といって追いかけた故、堀を御飛びなさった所を、刀で切りつけられたので、足の裏に少し傷が残った。この外に多久夜掛けの時、薄手を一箇所負いなされたそうだ。また一説には、天正四年二月横澤城攻めの時、御手を負われただけとある。

聞書第三 〇三八五〜鍋島直茂夫人陽泰院、態と面相を變へて豊太閤に謁す

原文

一、太閤様名護屋御在陣の節、九州大名の内方を召寄せられ、御遊興なされ候。陽泰院様にも、「御出でなされ候様に。」と申來り候に付、かう藏主御頼み、御斷り仰せられ候。かう藏主心遣にて御出でに及ばざる様に相濟み申し候。さりながら、「都合の例に罷成り候間、一度は御目見えなされ候様に。」と申來り候に付、御額角に御作り、異形の面相にて御出で御目見えなされ候。其の以後は御出でなされざる由。金丸氏話也。

現代語訳

一、太閤様が名護屋御在陣の節に、九州大名の内方を召し寄せられ、御遊興なされた。陽泰院様にも、「御出でなされます様に。」ともうして来られたが、考蔵主に頼み、御断り仰せられた。考蔵主の心遣いにて出席せずに済ます事が出来た。しかし、「都合の前例になってしまうので、一度は御目見えなされます様に。」と申して来られたので、御額角に御創りになり、異形の面相で御出でになり御目見えなされた。其の以後は出席なさらなかったそうだ。金丸氏の話である。

聞書第三 〇三八六〜鍋島直茂、追從の山伏の心を見透かしながら金子を施興す

原文

一、或山伏黒田長政へ參り、「昨夜の夢に長政公五ケ國の太守に成らせられ候と見申し候」由申し候。長政返答に、「さてさて良き夢、早々知らせ過分の事に候。やがて五ケ國の太守に成り候節、祝儀遣はすべし。」と申し候て、歸し申され候。彼の山伏案に相違し、御國へ罷越し、直茂公へ御目にかゝり、「公五ケ國の太守にならせられ候と靈夢を見申し候」由申上げ候に付、「さてさて良き夢、早速知らせ、過分の事に候。」と仰せられ、金子百疋下され候。或時、御話の衆申上げられ候は、「筑前にては斯様々々と承り候。金子下され候はいかゞと、下々取沙汰仕り候。」由、申上げられ候。公仰せられ候は、「總じて道の者は、その道にて立つて行かで叶はぬもの也。山伏などは、あの様なる事共を云つて、人の施しを受くるものなる故、金子を呉れ遣はし候。」と仰せられ候由。助右衛門殿話也。

現代語訳

一、或る山伏が黒田長政の所へ訪れ、「昨夜の夢に長政公が五か国の太守に成られると見ました。」との旨を申した。長政は返答して、「さてさて良き夢だ、早々の知らせ身に余る。やがて五か国の太守に成ったときに、御祝儀を遣わそう。」と言って、帰した。かの山伏は思惑が外れ、御国へやってきて、直茂公へ御目にかかり、「公が五か国の太守に成られる霊夢を見ました。」との旨申上げたので、「さてさて良い夢だ、早速の知らせ、身に余る。」と仰せられ、金子を百疋下された。或る時、御話の衆が申した事には、「筑前ではかくかくしかじかと承りました。金子を下されたのは如何なものかと、下々は噂しております。」旨、申上げられた。公が仰せ蜷田のは、「そうじて道の者は、その道に立って行かなくてはならない物だ。山伏などは、あの様な事などを言って、人の施しを受けるものであるから、金子を呉れ遣わしたのだ。」と仰せられたそうだ。助右衛門殿からきいた御話である。

聞書第三 〇三八七〜鍋島直茂、御伽衆に小早川隆景を「天下の名人」と激賞す

原文

一、或時御伽の衆、直茂公へ申上げ候は、「當時日本にて名将と申すは隆景と直茂公の由、風聞仕り候。」と申上げ候へば、「及びもなき事也。先年、太閤様御前へ諸大名列座の時、御意成され候は、『何れも數年苦勞致され候に、知行を遣はし度く候へども、いかにしても日本小國にて地が足らず、唐天竺を切り取り、其方などに存分に知行遣はすべしと存じ立ち候。いかゞあるべきや。』と仰せられ候。其の時は御亂心かと存じ候程にて候。一人も御挨拶申上ぐる者これなく候處、隆景一人、『成程御尤もの儀、然るべく存じ奉り候。』と申上げられ、御機嫌よく候て、繪圖を差出され、山川道橋兵糧等の事即座にて御詮議なされ候に、隆景差引申上げられ候。其の時は、經薄なる事を申上げられ候、何として此方より相知れ申すべきやと存じ候處、參り懸り候て、隆景申分少しも違ひ申さず、天下の名人にて候。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、或る時御伽の衆が、直茂公へ申上げたことには、「今の時代の日本にて名将と申すのは隆景と直茂公であるとの評判を聞きました。」と申上げた所、「及びも無い事だ。先年、太閤様の御前へ諸大名列座の時、御意なされたのは、『何れも数年苦労された事に対し、知行を遣わしたいと思ったが、いかにしても日本は小国なので土地が足りず、唐天竺を切り取って、其の方などに存分に知行を遣わそうと思い立った。どうだろうか。』と仰せられた。その時は御乱心かと思ったほどだ。一人も挨拶を申し上げる者が居なかった所、隆景一人、『成程御尤もの事、その通りだと存じ奉ります。』と申上げられ、御機嫌よく、絵図を差し出され、山川、道橋、兵糧等の事を即座に御詮議なされ、隆景が説明申し上げた。その時は、軽薄な事を申上げられる、どうしてここから知る事が出来るだろうかと思っていた所、行って見ると、隆景が言った事が少しも違わず、天下の名人である。」と仰せられたそうだ。

聞書第三 〇三八八〜鍋島直茂人通りを見て「肥前の槍先に早や弱み附きたるか」

原文

一、直茂公へ御用にて安藝殿三の丸へ罷出でられ候處、御留守にて候故、「何方へ御出でなされ候や。」と相尋ねられ候へども相知れ申さず候。翌日罷出でられ候へども御座所相知れ申さず候。方々相尋ねられ候處、角櫓へ御座成され候。即ち罷上り、「如何様の儀に、それに御座候や。」と申上げられ候へば、「二三日此処より國の風俗を見候。」と仰せられ候。「それは如何様の儀に候や。」と相尋ねられ候へば、「人通りを見候て考ふる事也。歎かはしき事は、最早肥前の槍先に弱みが附きたると思わるゝ也。其方など心得候て罷在るべく候。往來の人を見るに、大かた上瞼打下ろし、地を見て通るものばかりになりたり。氣質がおとなしくなりたる故也。勇むところがなければ、槍は突かれぬもの也。律儀正直ばかり覺えて心が逼塞して居ては、男業成るべからず。間にはそら言を云ひちらし、張り懸りたる氣持ちが武士の役に立つ也。」と仰せられ候。これより安藝殿虚言多く候由。中野氏話也。

現代語訳

一、直茂公へ御用があって安藝殿が三の丸へお出かけになったところ、御留守だったので、「何方へお出かけなされたのか。」と尋ねられたが、知る事が出来なかった。翌日また来られたが、御座所がわからなかった。方々に尋ねられたところ、角櫓に御座なされていた。すぐに上り、「なぜ、そこに御座なされているのですか。」と申上げられたところ、「二、三日ここから国の風俗を見ていた。」と仰せられた。「それはなぜですか。」と尋ねられたところ、「人通りを見て考える事がある。嘆かわしいのは最早肥前の槍先が弱っていると思われる。其の方などは心得て置くべきだ。往来の人を見ると、大かた上瞼をおろして、地をみて通る者ばかりになった。気質がおとなしくなっているからだ。勇むところが無ければ、槍を突くことはできない。律儀正直ばかりを考えて心が逼塞して居ては、男業は成すことはできない。間に空言を言い散らして、突っかかる気持ちが武士の役に立つのだ。」と仰せられ候。これより安芸殿は虚言が多くなったそうだ。中野氏の話である。

聞書第三 〇三八九〜直茂養家千葉氏より復歸の時、究竟の士十二人從ひ來る

原文

一、馬渡氏の書附。直茂公千葉殿より御歸りの時、究竟の士十二人相附けられ候。御被官の始にて候。

鑰尼 野邉田 金原 平田 巨勢 井出 田中 濱野 陣内 仁戸田 堀江 小出

現代語訳

一、馬渡氏の書付。直茂公が千葉殿より御帰りの時、屈強なる士を十二人付けられた。御被官の始まりである。

鑰尼 野邉田 金原 平田 巨勢 井出 田中 濱野 陣内 仁戸田 堀江 小出

聞書第三 〇三九〇〜鍋島直茂、次の間に古老の勇士を招き聞寝入りに物語を聴く

原文

一、直茂公御やすみなされ候時は、御次の間にて、古老の勇士共罷在り、茶たばこを下され、寄合話仕り候様に仰付けられ、間越しに御聞成され、御不審の事は御問答成され、御聞き寝入り遊ばされ候由。

現代語訳

一、直茂公がお休みなされる時は、御次の間にて、古老の勇士共が在り、茶やたばこを下され、寄合話をするように仰せ付けられ、間越しに御聞きなされ、御不審な事は御問答なされ、御聞きながら寝入り遊ばされたそうである。

聞書第三 〇三九一〜奉公の道には人を薦め、物見遊山には人に勧められるのがよい

原文

一、(集書の内寫し)日峰様御伽の人々へ仰せありけるは、「侍たらん者は不斷心ゆるす事なかれ。不慮の事に仕合はすもの也。油斷すれば必ず落ち度あるもの也。又人の云ふとて、人を悪しくは云はぬものぞ。奉公の道には人を勧め、物見遊山には人より勧められたるがよし。知らぬ事を人の語るを、知つたふりは悪しきぞ。知つた事を人の尋ねし時、云はぬは悪し。」と御意候由也。

現代語訳

一、(集書の内を写す)日峰様が御伽の人々へ仰せられたことには、「侍たる者は普段から心を許してはいけない。不慮の事にめぐりあうものだ。油断すれば必ず落ち度があるものだ。また、人が言うからと言って、人を悪くはぬものだ。奉公の道は人を勧めて、物見遊山には人から勧められるのが良い。知らない事を人が語っているのを、知っている振りをするのは悪い事だ。知っていることを人から尋ねられて、答えないのも悪い。」と御意なされたそうである。

聞書第三 〇三九二〜鍋島直茂曰く、「隆景は我等に較べて言ふべき人でない」

原文

一、集書の内寫。直茂公御前へ、綾部右京千布太郎左衛門大隈玄蕃罷出で、御話申上ぐる。其の時、右京申上げられ候は、「上方大名も大方承り及び候。中にも小早川殿、御分別も武の道も掛け合ひたる大将との取り沙汰承り候。御前様には、武道は隆景よりは數多大切なる槍も成されたる事也。世間に其の隠れなく譽め申し候」由御話申され候時、殿の仰せに、「如何なる事を聞きて左様に隆景と我等を似たる様に申すぞ。田舎者にて、世間上方の事知るまじ、たくらべて言ふべき人にあらず。その仔細は語りて聞かせん。小田原御陣の明くる年、大阪御城に諸大名召寄せられ、高麗御陣の御吟味ありし時、我等も末座に居て御詮議を聞きたるに、太閤様仰せられ候は、『高麗を攻め取りて末代の物語にせん。』とこれある時、隆景進み出で、『一段思召立然るべく。』と申上げられ候。其の時我等存じ候は、隆景は日本にて分別者と聞きつるが、さてはまいすの人と存じ候。未だ見もせぬ高麗國の事を思召立たれ候へと申上げられ候事、物をかくして聞き居たり。されば祐筆呼び出し、一つ書きにて掟等を定めんとて、高麗御陣中の事、段斷御詮議なり、太閤仰せ出さるゝ御詞に、『御尤も々々。』とばかり申し上げられ候。自然々々、『夫れは閊へ申すべし、夫れは如何。』と、又は山の障りなどと御請け也。高麗七年中の事一々申上げられ、如何なる事ぞと我等は思ひてありけるが、其の時隆景申上げられしに、高麗七年の内一つも相違なく、皆々割符を合はせたるが如し。」と、右近へ御話の由。

現代語訳

一、集書の内を写す。直茂公の御前へ、綾部右京、千布太郎左衛門、大隈玄蕃が出て、話を申上げた。その時、右京が申上げられたことには、「上方の大名も大かた承りました。中にも小早川殿は、御分別も武の道も掛け合った大将であるとの評判を承りました。御前様には、武道は隆景よりは数多く大切な功績を槍でなされております。世間に隠れることなく誉められておりました。」との旨を御話申され、殿が御仰せには、「どのような事を聞いてその様に隆景と我を似ているように話すのか。田舎者で、世間上方の事は知らないだろうに、比べて言うべき人ではない。その訳を語って聞かせよう。小田原陣の明くる年、大阪御城に諸大名が召し寄せられ、高麗御陣の御吟味があった時、我も末座に居て御詮議を聞いていた所、太閤が仰せられたのは、『高麗を攻め取って末代の物語としよう。』と言った時、隆景進み出て『その考えはその通りです。』と申上げられた。その時我が思ったのは、隆景は日本で有数の分別者と聞いていたが、さては売僧の人かと思った。未だに見たことのない高麗国の事を良い思い付きだなどと申上げられた事、云いたいことを我慢して聞いていた。そうしていたら、祐筆を呼び出し、一つ書きにて掟などを定めようと言って、高麗御陣中の事、段々と詮議し、太閤の仰せ出される御言葉に、『御尤も、御尤も』とばかり申上げられた。自然に『それは障害に成るだろう、それは如何。』と、または山の障害であるなどと御請けになっていた。高麗の七年の内の事を一々申上げられ、どうしたことかと我等は思っていたが、その時隆景が申上げられたことに、高麗の七年の内で一つも相違無く、全てが割符を合わせた様であった。」と、右近へ御話になったそうだ。

聞書第三 〇三九三〜鍋島直茂、敷居を外し、家臣が密かに隠した柿の實を捨てさす

原文

一、透運聞書の内。直茂公御前に多久與兵衛殿 諫早右近殿 武雄主馬殿 須古下總殿堪忍にて御話の節、美濃柿を差出され、何れも賞玩あり。與兵衛殿柿の實を疊の敷の間に、ひそかに押入れ置かれけるを、直茂公ちらと御覽候て、「臺所に大工は居らぬか、道具を持ち罷出で候へ。」と仰せられ、「その敷を外せ。」と仰せられ、「柿の實を捨て、元の如く敷をはめ候へ。」と御意なされ、その通り仕り候。何れも迷惑この上なく、與兵衛殿はその後一生釣柿を參らず候由。

現代語訳

一、透運聞書の中にあった話。直茂公御前に多久與兵衛殿、諫早右近殿、武雄主馬殿、須古下總殿がくつろいで御話になっていた時、美濃柿を差し出され、皆で賞味した。與兵衛殿が下記の実を畳の敷の間に、ひそかに押し入れて置かれたのを、直茂公がちらっと御覧になって、「台所に大工は居らぬか。道具を持って出てこい。」と仰せられ、「その敷を外せ。」と仰せられ、「柿の実を捨て、元の様に嵌めろ。」と御意なされ、その通りにした。皆こまってしまい、與兵衛殿はその後、一生柿を食べなかったそうだ。

聞書第三 〇三九四〜齋藤佐渡 同用之助一家、鍋島直茂 同勝茂の爲父子三代追腹す

原文

一、透運聞書の内。齋藤佐渡若き時分、武道勝れ度々の手柄仕り、直茂公別けて御懇に召使はれ候へども、世間不調法にて如睦の御奉公相成らず、静謐の後、朝夕の營みも成り兼ね、既に飢ゑに及び、一夜の歳を超えゆべき様もなく、腹を切らんと申し候を、伜用之助、「何事なりとも營みて見候はん。」と申し候へば、「卑劣なる業をしては活きても詮なし。中々に大なる悪事なりともして死ぬは本望也。」といふ。用之助尤もと言ひて、親子連れに高尾の橋に出で、仕合せを待ちけるに、米負はせたる馬通りけれども、一駄二駄に目をかけず、十駄ばかり一連れに通りけるを、親子刀を抜き馬主共を追散らし、その米を我が所へ取入れたり。その事世上隠れなく、目付方さて又米主犬塚惣兵衛よりも言上になり、奉行中詮議の上、勝茂公へ申上げられ、死罪に相極り、奉行中三の丸へ罷出で、藤島生益を以て直茂公へ御披露あり。御夫婦様御一所にて聞召され、御愁嘆大方ならず、兎角の御意もなかりしかば、生益引取り、右の段奉行中へ申し達し候に付て、勝茂公へ申上げられ候へば、御驚きなされ、佐渡浪人仰せ付けらるゝの旨重ねて奉行中を以て三の丸へ仰せ上げられ候處、御前に召出され、「彼の佐渡が晝強盗は我等がさせたるに異ならず、度々手柄高名仕りたる者なれども、如睦の奉公軍ほどこれなきゆゑ、しかじか知行なども取らせず、無事の世間故我等も思ひ忘れたり。その恨みに斯様の事をも仕出すべし。面目なき事也。我等に對し浪人申付けられ候事、信濃守孝行有り難く、嬉しき事也。斯様の悪事仕出し候者を助けられよとは云ひ難く、最前は返答せざる也。」と仰せられ、奉行中退出あり。追附け生益に仰付けられ、佐渡へ米十石下されける也。直茂公御他界の時、佐渡追腹の御願申上げ候を勝茂公聞召され、「その心入れを以て我に奉公仕り候へ。」と御留めなされ候へども、頻りに御暇申上げ、切腹仕り候。伜用之助も同然に追腹仕り候。用之助次男権右衛門勝茂公の追腹、父子三代御供仕り候也。

現代語訳

一、透運聞書の中に合った話。齋藤佐渡が若い時分には、武道に優れ度々手柄を立て、直茂公はとりわけ御懇ろに召し使われていたが、世間では不調法で、平時の奉公が務まらず、平和になってからは、朝夕の営みも成らず、すでに飢えるに至り、年越しの一夜も越えられそうになく、腹を切ると言いだしたのを、伜の用之助が、「何でも営んでみましょう。」と申したところ、「卑しい事をして生きても仕方がない。中々に大きな悪事でも働いて死ぬのならば本望である。」という。用之助は尤も、と言って親子連れだって高尾の橋に出て、機会をうかがった。米を背負わせた馬が通ったが、一駄二駄には目も掛けず、十駄ほどが一連となって通ったところを、親子が刀を抜いて馬主共を追い散らし、その米を自分の所へ取り入れた。その事が、世上に隠れることなく、目付方と、米主である犬塚惣兵衛からも言上になり、奉行中が詮議の上、勝茂公へ申上げられ、死罪と決まった。奉行中が三の丸へ罷り出て、藤島生益から直茂公へ御報告がなされた。御夫婦様が御一緒に聞し召され、大いに御愁嘆なされ、とにかく御意もなかったので、生益は引取り、右の段を奉行中へ申し達し、勝茂公へ報告されると、御驚きなされ、佐渡浪人が仰せ付けられた旨を重ねて奉行中に三の丸へ仰せ上げられたところ、御前へ召し出され、「彼の佐渡が昼強盗をしたのは、我等がさせたに他ならず、度々手柄を立てて高名な者であるが、平時の奉公は軍程ではないので、これまで知行なども取らせず、平和な世間であったために我も思い忘れていた。その恨みでこの様な事をしだしたのだろう。面目ない事だ。我がした事に対して浪人を申し付けられた事、信濃守の孝行であり有り難く、嬉しい事だ。この様な悪事を仕出した者を助けろとは言い難く、先ほどは返答をしなかったのだ。」と仰せられ、奉行中は退出し、その後生益に仰せ付けられ、佐渡へ米十石下された。直茂公が御他界の時、佐渡が追い腹の願いを申上げたのを勝茂公が聞し召され、「その心入れを以て、我に奉公仕れ。」と御留なさったが、しきりに御暇を願い申上げ、切腹した。倅の用之助も同様に追い腹仕った。用之助の次男の権右衛門も勝茂公の追い腹を仕り、父子三代にわたり御供仕った。

聞書第三 〇三九五〜横尾内藏之丞、百姓との訴訟に負けて追腹誓紙を取戻す

原文

一、透運聞書の内。横尾内藏之丞無双の槍突にて、直茂公、別けて御懇に召使はされ候。月堂様へ御話にも、「内藏之丞が若盛りにて、虎口前の槍を其方などに見せ度き事也。誠に見物事にてありし。」と御褒美遊ばさるゝ程の者也。内藏之丞も、御懇忝く存じ、追腹御約束誓紙差上げ置き申し候。然る處、百姓と公事を仕出し、御披露あり。無理の公事にて、内藏之丞負けになりたり。其の時内藏之丞立腹致し、「百姓に思召替へらるゝ者が追腹罷成らず候。誓紙差返され候様に。」と申上げ候に付て、直茂公、「一方よろしければ一方わろし。武道はよけれども、世上知らで惜しき事也。」と御意なされ、誓紙御返し成され候由。

現代語訳

一、透運聞書の中の話。横尾内藏之丞は無双の槍突きで、直茂公がとりわけ御懇ろに召し使わされた。月堂様への御話でも、「内藏之丞は若い盛りで、虎口前の槍を其の方などに見せたものだ。誠に見ごたえがある。」とお褒め遊ばされる程の者であった。内藏之丞も、御懇ろをかたじけなく思い、追い腹を約束する誓紙を差上げていた。そんなとき、百姓と公事沙汰となり、御披露があった。不利なくじであったため、内藏之丞の負けとなった。その時内藏之丞は立腹し、「百姓に思い替えなされる者の追い腹など出来ない。誓紙を差し返されます様に。」と申上げたので、直茂公、「一方が良ければ、一方が悪い。武道はよいが、世間知らずで惜しい事だ。」と御意なされ、誓子を差し返されたそうだ。

聞書第三 〇三九六〜誠忠藤島生益の氣轉、船酔の鍋島直茂の自害を未然に防止す

原文

一、直茂公かねて御船嫌にて、船の匂、磯部の匂、御胸につかへ、御食曾て召上がられず候。慶長年中御下國、十月八日の朝順風にて御出船の處、八つ時過より難風吹出し、夜に入り大波打ちかけ、楫を打砕き方所相知れず、船頭舸子その外船中の者前後を知らず、その内舸子一人と藤島生益唯二人、相働き候へども手に及ばず、餘り危く候に付て、御屋形の内に生益參り、持永助左衛門を漸く起し、兩人にて抱き起し奉り、屋形の上に揚げ奉り、欄干に取附かせ申し、「萬一誤りこれある節、何になりとも御取附き遊ばされ然るべく。」と申上げ、御後より助左衛門欄干と共に抱き奉り、公御吐逆なされ、助左衛門も吐逆仕り、御顔御胸御懐に吐込み、言語道斷也。生益戯れに申上げ候は、「其の御様體は童共の兎の子取ろに似申したる。」と笑ひ申し候。船底の代楫を舸子と兩人にて取出し、漸く押しはめ、夜半に及ぶ頃風少しだるみ、御船少し静まる。然る處に、御供船二三艘御召船の脇を通る。月影に公御覽なされ、「もやひ候へ。」と仰せらる。聲々に呼懸け候へども、風波荒く、耳にも入らざるや、行方知れず吹かれ行く。公大いに御立腹、「何某乗りたるを慥かに見届けたり。この船安穏せば、切腹さすべし。」と御怒りなされ候。生益申上げ候は、「この波風にて、心に任せざる儀に候。見捨て奉るにては有るべからず。」と申上げ候。暫くありて、又大風吹出で、代楫をも打折り、御船漂ひ廻り候。公、「楫を又打折つたか。」と御尋ねの時、何者とは知れず、「板を踏み折りたる。」と申す。公大いに御立腹、「我をたぶらかす奴成敗仕れ。」と御怒りなされ候。既に御船沈むべき様子也。公生益を召し、「最早力及ばずと見えたり。腰の物差させよ。」と仰せらる。生益申上げ候は、「かくの如き時誤りあるものに候。事極まる時節は御腰物奉るべし。」と申上ぐる。公重ねて、「平に差させよ、脇差ばかりなりとも差させよ、不肖ながら天下に名を知られたる加賀守が、何國の浦にても死骸丸腰と云われん事の子孫の恥也。平に。」と仰せられ候。生益推量仕るに、事極らざる以前に御自害なさるべき御気質、かねてよく存じ奉り候故、曾て御意に應ぜず、船底に入り米俵を二俵取出し、細引きにて結び合はせ楫穴より海底に下ぐる。これに依り御船靜まり、御安堵遊ばされ候。然る處舸子の者申すは、「夜も明け方になり、山見え申し候。」と申す。諸人悦びて見候へば、播州明石の前僅か五六町沖の方也。風波も靜まりければ、、橋船に公を乗せ奉り、御打物を持たせ、鹽屋を借り暫く休め奉り、御衣裳召替へられ、御一睡遊ばされ候へば、御顔色直り、御行水なされ、四つ時分御膳上り、御機嫌よく、生益が終夜の働き故安堵遊ばされたりとて、御印籠より延齢丹御呑ませ下され候。その後御無事に御歸國也。右の始終御前様(陽泰院様)勝茂様聞召され、御前様より御頭巾、勝茂公より知行御加増下され候。御前様、「その時の様子具さに物語仕り候へ。」と、御前に於て御子様方残らず御座なされ聞召上げらる。御前様御聲を揚げられ、御落涙御合掌なされ、生益を御拜みなされ候と、宮内卿、清左衛門姥に話申され候。(姥は生益の女房也、宮内卿は木村主馬の母也。)右話を直茂公も聞召され候て御笑ひなされ候。「今はをかしけれども、その節は中々をかしき心なし。生益脇差を呉れなば喉を突くべしと思ひけれども呉れず、不届に思ひしに今は大慶也。その節脇差を取るべき氣力なかりし。」と仰せられ候。御歸國後、御召船を見捨て乗通り候者、御沙汰これなく、諸人感じ奉り候となり。

生益の孫清左衛門、右乗通り候者の名を尋ね候へば、生益以ての外立腹、「御主人さへその後御意なされざる事に候を、我等口より其方へ申聞かすべきや。奉公をも勤め候者が、その様なる無遠慮の事を申すものか。」と、したたかに叱り申し候由。

現代語訳

一、直茂公はかねてから御船嫌いで、船の匂い、磯部の匂いが、御胸につかえ、お食事を召しあがっていなかった。慶長年中御下国の時、十月八日の朝は順風にて御出船した所、八つ時過ぎから難風が吹き出し、夜に入ってから大波が打かけ、楫を砕いて行方が分からなくなり、船頭や舸子その他、船中の者も前後が分からなくなり、その内に舸子一人と藤島生益のただ二人だけに成り、働いたが手に余り、あまりに危ないので、御屋形の中に生益が参り、持永助左衛門をやっとの事で起こし、二人で直茂公を抱き起こし奉り、屋形の飢えに揚げ奉り、欄干に取付か申上げ、「万が一、誤りがあったときは何にでも取りつくのは当然の事です。」と申上げ、御後ろから助左衛門と欄干を共に抱き奉り、公が吐瀉なされ、助左衛門も吐瀉し、御顔、御胸、御懐に吐きこんでしまい、言語道断であった。生益は冗談として申上げたことには、「この有り様は童どもの兎の子取ろに似ております。」と笑った。船底の代わりの楫を舸子と二人で取り出し、ようやく押はめ、夜半に及ぶ頃には少し風がゆるんで、御舟が少し静まった。そんなところを、御供船が二、三艘、御召船の脇を通った。月影に公が御覧なされ、「舫え。」と仰せになった。声々に呼びかけたが、風波荒く、耳にも入らなかったのか、どこへ行くかわからず吹かれて行った。公は大いに御立腹で、「何某が載っているのを確かに見届けた。この船が落ち着いたら切腹させるべし。」と御怒りなされた。生益が申上げたことには、「この波風では、思うようにいきません。お見捨て奉ったわけではないはずです。」と申上げた。暫くして、また大風が吹きだして、代わりの楫も折ってしまい、御船が漂いまわった。公が、「楫をまた折ったのか。」とお尋ねなさった時、誰とは知れず、「板を踏み折っただけです。」と申した。公は大いに御立腹になり、「我をたぶらかす奴は成敗しろ。」と御怒りなされた。既に御船は沈みそうな様子であった。生益を召し、「最早、力及ばずと見えた。腰の物を差させよ。」と仰せになった。生益が申上げたことには、「この様な時は誤りが起こるものです。事が極まった時は御腰の物を御持ちしましょう。」と申上げた。公は重ねて、「頼む。差させよ。脇差だけでも差させよ。不肖ながら天下に名を知られた加賀守が、どこかの国の浦でも死骸が丸腰と云われる事は子孫の恥だ。頼む。」と仰せられた。生益が推し量るところ、事が極まる前に御自害なさる気質であると、かねてからよく存じ上げ奉っているので、あえて御意に応じず、船底に入り米俵を二表取り出し、縄で結び合わせ楫穴から海底に下げた。これに依って御船は静まり、御安堵遊ばされた。そうした所、舸子の者が言うには、「夜も明け方になり、山が見えました。」と申した。諸人喜んで見れば、播州明石の前僅か五、六町沖の方であった。風波も静まり、橋船に公を乗せ奉り、御打物を持たせ、塩屋を借りて暫く休め奉り、御衣裳召し替えられ、御一睡遊ばされた所、顔色が直り、御行水なされ、四つ時分に御膳上り、御機嫌良く、生益の終夜の働きが故に安心できたと言って、御印籠から延齢丹を飲ませて下された。その後、無事に御帰国なさった。右の終始を御前様(陽泰院様)と勝茂様が聞し召され、御前様より御頭巾、勝茂公より知行の御増加を下された。御前様。「その時の様子をつぶさに語って聞かせて下され。」と、御前に於いてお子様方残らず皆で御座なされ聞し召された。御前様御声を上げられ落涙、合掌なされて生益を御拝みなされたと、宮内卿、清左衛門が姥に話聞かされた。(姥は生益の女房であり、宮内卿は木村主馬の母である。)右の話を直茂公も聞し召されて御わらいなされた。「今はおかしいが、その時は全然おかしい心などなかった。生益が脇差を呉れたら喉を突こうと思ったが呉れず、不届きだと思ったが、今は大慶である。その時に脇差を取る気力は無かった。」と仰せられた。御帰国後、御召船を見捨てて通った者共の御沙汰は無く、諸人は感じ入ったということだ。

生益の孫である清左衛門が、右の見捨てて通った者の名を尋ねた所、生益以ての外の立腹で、「御主人さえ御意なされていない事を、我が口からその方へ聞かせるはずもない。奉公を勤める者が、そのような無遠慮な事を申すのか。」と厳しく叱ったそうである。

聞書第三 〇三九七〜天守御普請の時、大工棟梁奸謀の?で死罪に處せらる

原文

一、天守御普請の時、大工棟梁何某、奸謀仕り候に付て死罪行はれ候由、此の儀に付口傳あり。

現代語訳

一、天守を御普請なさった時、大工の棟梁何某が、奸謀仕ったとの事で死罪となったそうだ。この事に付いて口伝があった。

聞書第三 〇三九八〜鍋島直茂、興賀 本庄 大堂三社に常燈を献じ、興賀社に自ら燈す

原文

一、直茂様より與賀社 本庄社 大堂社、この三社へ常燈差上げられ候。大堂は月堂様御産神にて候故、差上げられ候由。與賀社は直茂様三ノ御丸より多布施御通り遊ばされ候砌、與賀御神前にて、社内より、「暗き暗き」と申す聲仕り候故、神前へ人を遣わされ御見せ遊ばされ候へば、「人は居り申さず、殊の外暗く御座候。」と申上げ候。それより常燈差上げられ候由。右三社共に御隠居以後も、直茂公様御自分に御燈し遊ばされ候故、今に小城より料銀上り申し候。右の如く覺え罷在り候。左仲。

現代語訳

一、直茂様から、與賀社 本庄社 大堂社、この三社へ常燈を差上げられた。大堂は月堂様の御産神である故、差上げられた。與賀社は直茂様三ノ御丸から多布施にて通られたときに、與賀御神前にて、社内から、「暗い暗い」と言う声がしたので、社前へ人を遣わされ見てこさせたが、「人は居らず、殊の外暗くございました。」と申しあげた。それから常燈を差上げられたそうである。右三社共に御隠居以後も、直茂公が御自分で御燈し遊ばされたので、今では小城から料銀を上げ申している。右の様に記憶している。左仲の話。

聞書第四 〇三九九〜鍋島勝茂、大事の分別には瞑目して父直茂を念じて決す

原文

一、或時の御話に、「大事の分別行き當り、何としても分かり難き自時分、暫く目をふさぎ、此の事を日峰様は何と遊ばさるべきや、と案じ候へば、其の儘理が分かる。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、或る時の御話に、「大事の判断に詰まり、どうしても分からない時は、暫く目を閉じて、この事を直茂公ならどうなさるだろうか、と考えて見れば、そのまま答えが出る。」と仰せられたそうだ。

聞書第四 〇四〇〇〜鍋島光茂御側勤めの三人「大名の側に待たで叶わぬ者共」

原文

一、「光茂公の御側に召使はれ候様に。」と候て御隠居の時、百武伊織 生野織部 岩村新右衛門、此の三人遣はされ候。「伊織は物をよく言ひ碎く者也。織部は情強く、雨露きらはず勤むる者也。新右衛門は物に念を入れ、落ちも無く勤むる者也。大名の側に待たで叶わぬ者共也。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、「光茂公の御側で召し使う様に。」といって(勝茂公が)御隠居成された時、百武伊織、生野織部、岩村新右衛門、この三人が遣わされた。「伊織は物を言い碎くことの出来る者である。織部は情が強く、雨露を嫌わずに努める者である。新右衛門は物に念を入れ、落ち度なく勤める者である。大名の御側で侍うべき者共だ。」と仰せられたそうだ。

聞書第四 〇四〇一〜鍋島勝茂夫人高源院伏見に於いて入輿、須古下總等御迎

原文

一、高源院様御年十七にて、伏見松の丸より此方御屋敷へ御嫁入遊ばされ候。御迎には須古下總殿 鍋島主水殿 久納市右衛門方參上の事。栗山七郎右衛門書附けにあり。

現代語訳

一、高源院様は御年十七にて、伏見の松の丸からこちらの御屋敷へ御嫁入り遊ばされた。御迎えには、須古下總殿、鍋島主水殿、久納市右衛門方が参上した。栗山七郎右衛門の書付に残っている。

聞書第四 〇四〇二〜久納市右衛門數度の加増と鍋島主水茂里 元佶長老

原文

一、久納市右衛門方本知行七百石かと覺え申し候。御祝言脇主水殿御膽煎にて三百石加増と覺え申し候。其の後數年打過ぎ候てより、本多上野殿より學校御方迄御同意の御御座候て、五百石加増にて御座候事。栗山書附にあり。

現代語訳

一、久納市右衛門方は本知行が七百石だったと記憶している。御祝言の時に主水殿の肝煎りにて三百石加増されたと記憶している。その後、数年が過ぎてから、本多上野殿から学校御方までの御同意があって、五百石加増されたとの事。栗山書付にそうある。

聞書第四 〇四〇三〜鍋島勝茂、有馬陣の事に關し六月閉門、十二月晦日開聞

原文

一、有馬御歸陣成され、有馬事仰付けられ候半ば、松平伊豆守殿より、「信州様小倉へお越し候様に。」と御座候て、細川越中守殿など御同道、同月二十九日小倉へ御着成され、御用相濟まされ御歸城成され、色々御國元御用仰付けられ、六月六日江戸へ御發足成され、彼地御着、追附御閉門にて、寅の十二月晦日に御開門にて候。明くる卯の年は御手前より御斷仰上げられ、江戸へ御逗留成され、辰年御下國にて、其の年は御國元にて御越年成され候事。栗山書附けにあり。

現代語訳

一、有馬から御帰陣なされ、有馬の事を仰せ付けられていた半ば、松平伊豆守殿より、「信州様は小倉へお越し下さるように。」との事で、細川越中守殿などと共に、同月二十九日に小倉へ御到着なされ、御用事をお済ましなされて御帰城なさり、色々と御国元の御用を仰せ付けられ、六月六日に江戸へ御出発なされ、彼の地に御着きになり、その後は御閉門にて、寅年の十二月晦日に御開門となった。明くる卯の年は御手前から御断り仰せ上げられて、江戸へ御残りになり、辰年に御下国なさって、其の年は御国元で御年越しなされたとの事。栗山書付に記録がある。

聞書第四 〇四〇四〜諸國一城の外悉く破却の奉書鍋島勝茂へ布達せらる

原文

一、諸國居城を残し置き、其の外の城悉く破却あるべきの旨、上意の通り、閏六月十三日、勝茂公へ御奉書參り候也。

現代語訳

一、諸国の居城を残して置き、其の他の城をことごとく破却する様にとの旨、上意の通り、閏六月十三日、勝茂公へ御奉書が参った。

聞書第四 〇四〇五〜鍋島勝茂、下情に通ずる爲普く風説書を差出さしむ

原文

一、金丸氏話。勝茂公御代には風説書と申す物を差上げ候由。たとへば何山を唯今の通り御伐らせなされ候ては、末々斯様の支所これあり候由、何の宿罷通り候時分、道通りの者話し候て罷通り候を承り候。又唯今の御仕置斯様になされ候ては百姓共迷惑仕り候由、何町罷通り候時分、道通り候者申し候を承り候などと書附け、差上げ候由。古老の物語にて候。尤も風説書差上げ候様にと、巧者の者共へ兼て仰付け置かれ候や、誰にても存寄次第に書附け差上げ申したる事に候やは相知れず候。下々の支へ所を曇りなく聞召上げらるべき爲に、御意に背き申す事をも風説にて聞召上げられ候事、誠に有難き御事、御明君にて候ひつる由。

現代語訳

一、金丸氏の話。勝茂公の御代には風説書と云う物を差上げていた。たとえば何山を今の通り御伐りにならせては、末々にこの様な差し支えがあるとの話を、何の宿を通った時に、道の通りの者が話して通って行ったのを聞きました。また今の御仕置はこのようになされては百姓どもが困っているとの話を、何町を通った時に、道を通った者が言っていたのを聞いたなどと書付け、差上げたそうだ。古老の話しだ。尤も風説書を差上げるようにと、巧者の者共へかねてから仰せ付けて置かれたのか、誰にでも思い付き次第書き付けて差し上げたのかは分からない。下々の差し支え所を曇りなく聞し召し上げられる為に、御意に背く事も風説にて聞し召し上げられた事は、誠に有り難き事、御明君であらせられるとの事だ。

聞書第四 〇四〇六〜鍋島勝茂の機略「九州者は臆病魂一つ足り申さぬ」

原文

一、勝茂公御年若の時分、何方に候や御大名方數人御一座の折、どなたか、「九州者は魂が一つ足らぬと申す事世間に申扱ひ候。」と御申し候。御一座の衆、勝茂公の御座候事御氣附これなく候て、「誠に左様に申す事の候が、何としたる事にて候や。」と御雑談にて候。公御進み出で仰せられ候は、「これに九州者罷在り候。御評判の通り九州者は魂一つ不足に御座候事、たしかに覺え御座候。」とあらゝかに仰せられ候。御一座の衆、そと御無興にて、「誠に信濃守殿は西國育ちにて御座候。御覺え御座候と仰せられ候は如何の事に候や。」と御申し候。公仰せられ候は、「臆病魂一つ足り申さず候。」と御取合ひなされ候由。

現代語訳

一、勝茂公が御若年の時、どこかで御大名方が数人で御一座にて居られた折、どなたかが、「九州者は魂が一つ足りないという事が世間で言われている。」と申された。御一座の衆は、勝茂公がいらっしゃった事にお気づきでなく、「誠にその様に申す事があるが、どうした事か。」と御雑談をなされた。公が御進み出て仰せられたことには、「ここに九州者が居ります。御評判通り九州者は魂が一つ不足している事、たしかに覚えがあります。」と高らかに仰せられた。御一座の衆、そっと御無興となって、「誠に信濃守殿は西国そだちでございましたな。御覚えがあると仰せられたのはどういう事ですか。」ともうされた。公がおおせられたのは、「臆病の魂が一つ足りません。」と御答えなされたそうだ。

聞書第四 〇四〇七〜鍋島勝茂、病中江戸大火を望見して兵火でないと斷ず

原文

一、明暦三年御病中に、江戸大火出来、正雪が餘當焼き立て、紀伊國様大将の由風説に付て、右の段申上げ候へども、「虚説たるべし。」と仰せられ、御騒ぎ遊ばされず候。然れども段々大火になり、御城にも火懸り、必定謀叛の企と申し扱ひ候に付て、時々御耳に達し候故、「さらば見聞すべし。」と仰せられ、三階に御上り、暫く御遠見成され候て、「気遣仕るまじく候。曾て兵火の色にてこれなく候。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、明暦三年御病中に、江戸の大火が起こり、正雪の残党が火をつけ、紀伊国様がその大将であるとの旨の風説が流れ、右の話を申上げたが、「虚説であろう。」と仰せられ、御騒ぎ遊ばされることが無かった。然れども、段々と大火になり、御城にも火が懸り、謀叛の企てに違いないとの説が広がり、時々御耳に達したので、「ならば見聞しよう。」とおおせられ、三階に御上りになり、暫く御遠見をなされて、「気遣いは要らない。かつて見た兵火の色では無い。」と仰せられたそうだ。

聞書第四 〇四〇八〜遊山所見分の目付は尻を高くからげ竹の杖を突いて

原文

一、勝茂公御目付御掟の内、「下目付共遊山所見分の節、笠頭巾を被せ申さず、袴着せ申さず、尻を高くからげ、竹の杖を突き罷越し候様に。」と仰付け置かれ候由也。

現代語訳

一、勝茂公の御目付け掟の中に、「下目付共が遊山を見聞する際には、笠や頭巾をかぶってはならず、袴を着てはならず、着物の尻を高く結び、竹の杖をついて行く様に。」と仰せ付けて置かれたそうな。

聞書第四 〇四〇九〜白石百姓關右衛門褒美の銀で大麥を買うて永代に残す

原文

一、勝茂公の御代、白石百姓關右衛門と申す者、二十一度褒美、壹匁の銀二十一拝領仕り候。「子孫として取遣ひ候ては罰に相成る事に候間、大麥を調へ相渡し置き候。永々家の梁に釣り置き申すべしき」由、申し置き候に付て、今に蟲干し仕り、子孫所持仕り罷在り候。扨又御正當毎に懈怠なく、御寺參詣仕り候。五十年御忌の節、銀拝領仕り候由。雪門和尚話也。

現代語訳

一、勝茂公の御代、白石の百姓、関右衛門と言う者が、二十一度褒美を授かり、一匁の銀を二十一度拝領仕った。「子孫に残して取り違っては罰が当たるかもしれないので、大麦を調えて渡して置く。永々家の梁に吊り下げて置く様に。」との旨を、申し置いたので、今でも虫干しをして、子孫が所持してある。さてまた、御正当の度に怠りなく、御寺へ参詣したので、五十周忌の時、銀を拝領したそうだ。雪門和尚の御話である。

聞書第四 〇四一〇〜人は短所の爲に長所を捨つな、長所を取つて短所を補へ

原文

一、勝茂公、「御鷹師何某は、用に立つ者にて候や。」と、頭人に御尋ね遊ばされ候。其の御請に、「右の者は、不行跡者にて何の役にも立ち申さず候へども、御鷹一通りは無類の上手にて候。」と申上げ候に付て、即ち御褒美下され候。其の後、又一人の御鷹師の儀を御尋ね遊ばされ候。御請けに、「御鷹一通りは無類の上手に候へども、不行跡者にて何の役にも立ち申さず候。」と申上げ候に付て、即ち御拂ひなされ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、勝茂公、「御鷹師の何某は、役に立つ者か。」と、頭人に御尋ね遊ばされた。そのお返事として、、「右の者は不行跡者で何の役にも立ちませんが、御鷹の一通りは無類の上手さです。」と申上げたので、直ぐに褒美を下された。その後、又一人に御鷹師の事を御尋ね遊ばされた。御返事として、「御鷹の一通りは無類の上手さですが、不行跡者で何の役にも立ちません。」と申上げたので、直ぐに暇をだされたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四一一〜代替りの時、最初に上下萬民思ひ附くようにするもの

原文

一、代替りの時、最初に上下萬民思ひ附き候様にするもの也と、仰せられ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、代替わりの時は、最初に身分の上下に関わらず万民が思い慕う様にする物だと、仰せられたそうだ。金丸氏の話だ。

聞書第四 〇四一二〜鍋島忠直十五歳の時年寄に「疑はしき罪は輕くせよ」と諭す

原文

一、忠直公御年十五歳の時分、御臺所手男無禮を働き候に付て足輕の者打擲いたし候末にて、足輕を手男切り殺し申し候。最初上下の禮儀を相違へ、相手刃傷いたし候へば、死罪に仰付けられるべき旨年寄中より申上げられ候。忠直公聞召され、「上下の禮儀を背き候と、武士道を迦し申し候とは、何れ落度なるべきや。」と仰出され候。年寄中御請け申上げ兼ねられ候。其の時、「罪の疑はしきは輕くすと書物にて讀み候。暫く小屋に引入らせ候様に。」と仰付けられ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、忠直公が御年十五歳の時、御台所で使用人が無礼を働いたとして足軽の者が打ち付けた末、足軽を使用人が切り殺した。最初は身分の上下を違えて、相手を刃傷に及んだのは、死罪を仰せ付けられるべきだとの旨を年寄中から申上げられた。忠直公が聞し召され、「上下の礼儀に背くことと、武士道を外れる事とは、どちらが落ち度となるか。」と仰せ出された。年寄中が御答え申上げられ兼ねた。その時、「罪が疑わしい時には軽くすると書物にて読んだ。しばらく小屋に引き入らせる様に。」と仰せ付けられたそうだ。金丸氏の御話である。

聞書第四 〇四一三〜鍋島忠直、母高源院に命乞させて重罪人助く

原文

一、忠直公御側の人不届き仕出し、死罪に相極め、仰出これあり候處、高源院様御乞ひなされ候。忠直公聞召され、「以後の締りに罷成らず候絛、助け候儀相叶はず候。御女儀様御存じ遊ばさるゝ事にて御座なく候間、重ねて仰下さるまじき」由きびしく仰切られ候。然れども高源院様御合轉遊ばされず、色々仰せられ、三度御遣はされ候。「此の上は理非を差置き、助け申すべき」由仰上げられ、御助けなされ候。此の儀は、罪科遁れ難き者にて候ゆゑ、高源院様へ御内意仰上げられ、右の通り遊ばされ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、忠直公の御側につかえていた人が不届きな行いをし、死罪と決まり、仰せ出されたところ、高源院様が御乞いなされた。忠直公は聞し召され、「これ以降の締まりが付かなくなるので、助ける事は叶いません。御女儀様がご心配なさる事では無いので、重ねて仰せ下さりますな。」との旨を厳しく仰せ切られた。然れども高源院様はご納得遊ばされず、色々とおおせられ、三度遣いを出された。「この上は、理非を差し置いて、助けましょう。」との旨を仰せ上げられ、御助け成された。この事は、罪科のがれ難い者であったので、高源院様へ御内意にとどめて置かれるよう申上げられ、右の通りの沙汰を遊ばされたそうである。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四一四〜鍋島忠直、伊達政宗に家傳の名刀を勧められて受けず

原文

一、忠直公、御若年の時分、伊達政宗へ御招請に御出成され候。種々御取持ち上にて、伊達家に傳はり候刀御慰に御目に懸けられ候。御覽なされ、御褒めにて差置かれ候。御相伴衆など會釋にて、「御目に附き候はゞ進ぜらるべく候。重代の刀にて随分切れ物にて候」由申され候。忠直公聞召され、「何が切れ申し候や。」と仰せられ候に付、「胴試しなど仕り候ても、無類に候。」と挨拶候。公仰せられ候は、「人の切れ申すは珍しからず候。殊に御重代は御家にての重寶にて候。私方にも重代の刀數多所持仕り候へば、用事これなく。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、忠直公が、御若年の時分、伊達政宗から御招請があって御出でなされた。種々のもてなしの上で、伊達家に伝わる刀を御慰みに御目に懸けられた。御覧なさって、御褒めになり差し置いた。御相伴の衆が挨拶として、「御目に付いたのであれば進ぜましょう。重代の刀ですので随分切れ味のよい物です。」との旨申された。忠直公は聞し召されて、「何が切れますか。」と仰せられたので、「胴などで試しても、無類でした。」と挨拶した。公が仰せられたことには、「人を切れるのは珍しくない。殊に御重代であれば御家では重宝でしょう。私方にも重代の刀を数多所持しておりますので、用事はありません。」と仰せられたそうだ。

聞書第四 〇四一五〜鍋島忠直、幼時自ら客座の菓子を包んで出で、御供の者に與ふ

原文

一、忠直公御前髪立の時分、何方へ御能御見物に御出でなされ、夜に入り候迄御取持ちにて、御滞座なされ候。その内御菓子饅頭出で申し候を御包みなされ、御懐中にて御立ちなされ、御供の綾部彌左衛門御呼び、「隙入りにて飢ゑ申すべく候。これを食べ候様に。」と候て、御菓子下され候由。

現代語訳

一、忠直公が御前髪立ての時分、何方かへ御能を御見物に御出かけになり、夜になるまでもてなされ、御滞在なされた。その内で御菓子や御饅頭が出されたのを御包みなされ、御懐に入れて御立ちなされ、御供の綾部彌左衛門を御呼びに成り、「暇で腹が減っただろう。これを食べるように。」と、御菓子を下されたそうな。

聞書第四 〇四一六〜鍋島勝茂、就寝の前必ず長脇差を抜き眉毛に懸けて見る

原文

一、勝茂公は毎夜御寝酒を召上がられ、さ候て御話など遊ばされ、御酒氣少しもこれなき様に御醒しなされ候てより、御寝みなされ候。又御寝み遊ばされ候節は、御下帯御締め直し、御不斷差の長脇差御抜き、御眉毛に御懸け御覽候て鞘に御納め、御寝みなされ候儀、終に御懈怠これなき由也。

現代語訳

一、勝茂公は毎夜御寝酒を召上がられ、そうして御話など遊ばされ、御酒気が少しも無くなる様に御醒ましなされてから、御寝みなされた。また御寝み遊ばされる時は、御下帯を締め直し、御普段差しの長脇差を御抜きになり、御眉毛に御懸け御覧なさって鞘に御納めになり、御寝みなされる習慣を、終に怠ることが無かったと言う事だ。

聞書第四 〇四一七〜筑前黒田忠之、隣国の情誼が薄いとて鍋島勝茂を怨む

原文

一、勝茂公御若年の時分、直茂公より、黒田如水軒へ萬事御差引御頼成され候に付、別けて御入魂、御國にも相越され筑前へも御越、長政の代迄は御互に御懇意に成され候。筑前守殿(御名右衛門佑忠之)代に、江戸屋敷高石垣、筑前大堀ほられ、大早船造り候事にて、公儀首尾悪しく、家滅却たるべきとの取沙汰これあり候内、御用にて江戸へ召させられ、家中上下周章騒ぎ申し候。筑前守殿御申し候は、「若し難儀に及ぶ程の儀ならば、信濃守在府の事に候間、知らせ申さるべし。此の到來これなき内は、氣遣これなく候。」と、道中宿々にて飛脚相待たれ候へども、御知らせ申し來らず、江戸近くにて飛脚參り候に付、筑前守殿立腹、首尾良き時ばかり入魂にて、難儀に及び候節餘所に見られ候儀、聞えざるの由にて、其の後御間柄悪しく相成り候由。又一節には、何事か中國筋騒動(鹿嶋立と申し候由)これある時分、勝茂公と筑前守と御同道にて御下り成され候。萬端仰合はされ、一と宿に御泊り成さるべき由に候處、勝茂公御通過遊ばされ候に付、筑前守殿立腹にて、それより御仲悪しく相成り候と申し候。又大阪石引喧嘩にて不和に相成られ候とも申し候。

右高石垣に付筑前守殿は一本槍に召成され候。細川 立花なども不和にて、宜しからざる人の由也。

現代語訳

一、勝茂公が御若年の時分、直茂公より、黒田如水軒へ万事御差引き御頼みなされ、取り分け親しく、御国にもお越しに成り筑前へも御越し、長政の代迄は御互いに御懇意になされていた。筑前守殿(御名右衛門佑忠之)の代に、江戸屋敷に高石垣を作り、筑前大堀を掘り、大早船を造った事が、御公儀の印象が悪く、家を取りつぶすべきと取りざたされていた時、御用で江戸へ召され、家中の上下が慌てふためき大騒ぎした。筑前守殿が申した事には、「若し難儀に及ぶ程の事があれば、信濃守が御在府との事なので、知らせてくれるだろう。此の知らせが到来しないうちは、心配はいらない。」と、道中の宿々にて飛脚を待たれたが、御知らせは来ず、江戸近くで飛脚が来たことに対し、筑前守殿は立腹し、首尾良き時ばかり親しくして、難儀に及んだ時は余所を向いた事は、前代未聞だとの事で、その後は間柄が悪くなってしまったとの事だ。また一説には、何事か中国筋で騒動(広島立ちと云われているそうだ)があった時分、勝茂公と筑前守とが御同道して御下り成された。万端仰せ合わせて、同じ宿に御泊りなさる事になった所、勝茂公が通過遊ばされた事に付いて、筑前守殿が立腹なさって、それから御仲が悪くなったと言われている。また大阪石引喧嘩で不和になったとも言われている。

右の高石垣の件に付き、筑前守殿は一本槍に召された。細川、立花とも不和であり、宜しくない人であるとの事だ。

聞書第四 〇四一八〜嶋内新左衛門、終夜與賀社の堀を探し廻つて參籠の主君を護衛す

原文

一、勝茂公は、元朝毎に、夜内に與賀社御參詣遊ばされ候。右に付嶋内新左衛門は圍なき所に夜中心許なく存じ、歳の夜公私の祝ひ濟みてより、與賀の宮の四方の堀を探し、夜を明し、御參詣以後、直ちに御城に罷出で候由也。

現代語訳

一、勝茂公は、毎年元旦の朝に、夜の内から与賀社へ御参詣遊ばされた。右に付いて、嶋内新左衛門は囲いが無い所に夜中、心許なく思い、年の夜に公私の祝いを済ましてから、与賀の宮の四方の堀を見回り、夜を明し、御参詣が終わると、直ちに御城に出たとの事だ。

聞書第四 〇四一九〜武士は二十八枚の齒を悉く噛み居らねば埒が明かぬ

原文

一、勝茂公仰せに、「武士たるものは、二十八枚の齒を悉く噛みをらねば物事埒明かず。」と御意なされ候由也。

現代語訳

一、勝茂公の仰せには、「武士たるものは、二十八枚の歯をことごとく噛み締めて居らねば物事の埒が明かない。」と御意なされたとの事だ。

聞書第四 〇四二〇〜鍋島勝茂、御歩行十人衆に三尺三寸の刀で抜合を練磨さす

原文

一、御歩行十人衆に、三尺三寸の刀を御差させなされ、途中不圖御言葉を懸けられ、度々御抜かせなされ候處、後には御言葉の下より抜合はせ候様に、練磨を得申し候。それより、一寸づゝ長き刀を御差させなされ、段々練磨仕り候上にて、又三尺三寸の刀を不斷御差させなされ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、御歩行十人衆に、三尺三寸の刀を御差させなされ、途中ふと御言葉を掛けられ、度々御抜刀かせなされ、その後には御言葉を合図に抜刀する様に、鍛錬を行った。それから、一寸づつ長い刀を御差させなされ、段々と鍛錬した上で、また三尺三寸の刀を普段御差させなされたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四二一〜鍋島勝茂閉門の時御國出家の團結と他國出年限の由來

原文

一、御閉門の時合わせ候百人餘の出家共、五人三人宛、小屋々々町宅へ潜かに召置かれ、随分馳走仰付けられ、御開門仰出で、「以後面々の落着所へ參らるべく候。此の節の志報じ難き由。向後は二十年に一度宛歸國あるべく候。せめて互の安否を承り度く候。」と御意なされ、住所を記し面々に御切手下され候。此の後、出家他國出年限始り申し候。其の後五年限りになされ候を、高傳寺梁重和尚斷りにて十年限りに相成り候由也。

現代語訳

一、御閉門の時に合流した百人余りの出家共が、五人か三人づつ、小屋や町宅へ密かに召し置かれ、随分と御馳走を仰せ付けられ、御閉門を申し付けられ、「以後は各々の落着き所へ帰られよ。今回の志は報うことは難しいとの事だ。今後は二十年に一度づつ帰国するように。せめて互いの安否を承りたい。」と御意なされ、住所を記し面々に御切手を下された。この後、出家や他国出の年限が始まった。その後五年限りに成されたのを、高伝寺梁重和尚の断わりで十年限りに成ったとの事だ。

聞書第四 〇四二二〜主君の閉門に家中切死の覺悟、鍋島元茂夫人の膽勇

原文

一、御閉門前方御着府の節、中屋敷へ御着成され候へば、月堂様の御内方様御出會、「御遠島の取沙汰に付皆々申合ひ、その節は六ヶ所屋敷に火を懸け、残らず切死仕る覺悟に候間、跡の儀御心遣なく、公儀にて潔く仰達せられ候様に。」と御申し候。次の間には、武具悉く取出し候由。助右衛門殿話也。

現代語訳

一、御閉門の前、御着府の時、中屋敷へ御到着なされた所、月堂様の奥方様が御出会い、「御遠島の沙汰に付、皆で申し合わせ、その時には六ヶ所屋敷に火を懸け、残らず自害する覚悟なので、後の事は御心配なく、公儀で潔く仰せ達せられます様に。」と申された。次の間には、武具を悉く取り出したとの事。助右衛門殿の御話である。

聞書第四 〇四二三〜鍋島勝茂、毎年元朝與賀 本庄 八幡三社に祈願して願文を奏す

原文

一、勝茂公御代には、毎年元朝に御願文御認め、與賀 本庄 八幡に御籠めなされ候。歳の夜御願ほどき遊ばされ候。その意趣は、

一 家中に好き者出來候様。

一 家中の者當介を取失ひ申さぬ様。

一 家中に病者出來申さぬ様。

右三箇条にて候。御死去年の御願残り居り申すべき由。一鼎話の旨也。

現代語訳

一、勝茂公の御代には、毎年元旦の朝に御願文を御認めになり、与賀、本庄、八幡に御籠めなされた。年の夜に御願ほどき遊ばされた。その意趣は、

一 家中に良い者が出ますよう

一 家中の者が本分を見失わないよう

一 家中に病気を患う者が出ないよう

右三箇条であった。御死去年の御願は残っているだろうとの事。一鼎が話した内容である。

聞書第四 〇四二四〜勝茂 宥譽兩人の水定と寺井長福寺の本尊藥師如来

原文

一、天正年中に勝茂上人(澄音坊ともいふ)と申す眞言の權者あり。生國伊豆なり(又出羽ともいふ)。六十六部の札を打ち、神埼郡圓福寺に住し、後寺井長福寺に五ケ年居住す。直茂公度々御招待なされ、石井六左衛門(三郎太夫祖)を副へられ、御馳走なされ候。上人申され候は、「直茂公の厚恩淺からず、報恩の爲に、我水定して當國の主に生れ、法を立て國を治むべし。」となり。直茂公聞召され、六左衛門を以て頻りに御留めなされ候へども、承引これなく、名を阿運と改め、小船に乗り、寺井の海に漕ぎ出でられ候時、北山の宥譽上人(法相宗なり、生國美濃の人なり)も參り合ひ、「共に水定を遂ぐべし。」と、同船にて押出され候。阿運申されけるは、「我國守に生れ出づべくば、穿きたる草鞋片方は死體に附き、片方はあるべからず。又海上に夜々火を現わすべし。」と申して合掌稱名して水定仕られ候。見物人袂をしぼる。其の後死骸をさがし出して見候へば、果たして方草鞋これなく候。兩上人の骸を長福寺の東に一所に築き込み、印の松二本植う。今上人塚とも、勝茂塚とも申し候。北山に上人嶽と云ふ山あり。然るに伊勢松様御長年の後、勝茂公と申し奉り候へば、上人の再來と云ふ説あり。又一説に、上人水定は勝茂公御出生以後の事なりと。然れども再來の據、多々斯様の例これあり。聖徳太子は南嶽大師の再來と申し傳へ候。太子の出生以後に南嶽は遷化の由也。勝茂公御齒御痛みなされ候時分、「長福寺の本尊藥師に願懸け候様に。」と仰せ出され、御平癒の上、繪馬御懸けなされ候。今にこれある由也。

現代語訳

一、天正年中に勝茂上人(澄音坊とも言う)と言う真言衆の権者がいた。出身は伊豆である(または出羽とも言う)。六十六部の札を打ち、神埼郡円福寺に住し、その後寺井長福寺に五年居住した。直茂公が度々御招待なされ、石井六左衛門(三郎太夫祖)を副えられて、御馳走なされた。上人が申されたのは、「直茂公の厚恩浅からず、御恩に報いる為に、我は水定して当国の主として生まれ変わり、法を立てて国を治めましょう。」と言った。直茂公は聞し召され、六左衛門を以て頻りに御留めなされたが、承る事は無く、名を阿運と改めて、小舟に乗り、寺井の海に漕ぎ出られた時、北山の宥譽上人(法相衆であり、出身は美濃の人である)も參り合流し、「共に水定を遂げましょう。」と、同船にて押し出された。阿運が申した事には、「我は国守に生れ変わるのであれば、穿いている草履の片方は死体に付き、片方は無くなるであろう。また海上に夜ごとに火を出現させましょう。」と申して合掌称名して水定された。見物人は袂を絞った。その後死骸を探し出して見たが、草鞋が片方無かった。両上人の骸を長福寺の東に一緒に担ぎ込み、しるしの松を二本飢えた。今では上人塚とも、勝茂柄とも呼ばれている。北山に上人嶽と言う山がある。然るに伊勢松様が御長年の後、勝茂公と申し奉るのは、上人の再来と言う節がある。また一説に、上人が水定したのは勝茂公が御出生以後の事であるという。然れども再来の拠所は、多々このような例がある。聖徳太子は南嶽大師の再来と申し伝えられている。太子の出生以後に南嶽は遷化したとの事だ。勝茂公の御歯が御痛みなされた時、「長福寺の本尊薬師寺に願を懸ける様に。」と仰せ出だされ、御回復したのち、絵馬をお掛けなされた。これは今でも残っているとの事だ。

聞書第四 〇四二五〜林道春 鍋島直茂當座の系圖問答―少貮鍋島系圖の由來

原文

一、勝茂公御禮日御退出の時分、林道春不圖差寄り、「鍋島の御先祖は誰にて候や。」と申され候。篤と御元附けなされず御座候へども、御當座の御了簡にて、「少貮にて御座候。」と仰せられ候へば、「さてさて御歴々にて御座候。今程系圖改め御座候。追附太田備中守殿仰入れらるべく。」と申され候。御歸りなされ、御詮議候て、平原善左衛門少貮の系圖所持仕り罷在り候を召上げられ、御系圖書立て、公儀へ差出され候由。一節には道壽様は佐々木の末にて候由也。(御道具に佐々木宇治川先陣の時の太刀これある也。)

現代語訳

一、勝茂公の御礼日御退出の時、林道春がふと差し寄り、「鍋島の御先祖は誰か。」と申された。篤と根拠は無かったが、その場の判断で、「少貮でございます。」と仰せられた所、「さてさて御歴々に御座います。今ほど系図を改めております。追って太田備中守殿から仰せ入れられるでしょう。」と申された。御帰りなされ、御詮議なされて、平原善左衛門が少貮の系図を所持しているので召し上げられ、御系図を書き立てて、公儀へ差し出されたそうだ。一節には道壽様は佐々木の末裔であるとの事である。(御道具に佐々木宇治川先陣の時の太刀がある。)

聞書第四 〇四二六〜鍋島勝茂時代の加判家老―鍋島安藝 同玄蕃 中野數馬

原文

一、勝茂公御代加判御家老 鍋島安藝 鍋島玄蕃(千葉氏也、宗碩と申し候)中野數馬(前名兵右衛門)。

現代語訳

一、勝茂公御代の加判御家老 鍋島安芸 鍋島玄蕃(千葉氏であり、宗碩という。)中野數馬(前名兵右衛門)。

聞書第四 〇四二七〜鍋島勝茂時代の年寄―勝屋勘右衛門 關將監

原文

一、同御年寄 勝屋勘右衛門(此の末五郎右衛門)關將監(御茶道、後二千石)

現代語訳

一、同御年寄 勝屋勘右衛門(この後五郎右衛門)關將監(御茶道、後二千石)

聞書第四 〇四二八〜鍋島勝茂、松平土佐守と無二の入魂、代々兩家懇意となる

原文

一、松平土佐殿、勝茂公と無二の御挨拶にて入魂成され候故、其の御首尾にて、御代々今以て御懇意成され候由。

現代語訳

一、松平土佐殿、勝茂公と無二の御挨拶で親しくなされていたので。その関係のままで、御代々今もって御懇意になされているそうだ。

聞書第四 〇四二九〜鍋島忠直附年寄―成富五郎兵衛 鍋島右近

原文

一、肥前様御年寄 成富五郎兵衛(次左衛門祖)鍋島右近(生三子 縫殿助)

現代語訳

一、肥前様の御年寄 成富五郎兵衛(次左衛門祖)鍋島右近(生三子 縫殿助)

聞書第四 〇四三〇〜鍋島勝茂、野田七右衛門の悪事を聞かぬ振して戒む

原文

一、野田七右衛門へ西目山心遣仰付け置かれ候處、自分に木を伐り賣拂ひ候由、御目付より言上仕り候。其の後七右衛門、御前に罷出で候時分、潜かに仰聞けられ候は「斯様の事を聞き候。其方は左様の儀仕るまじく候。いか様似たる事を人の沙汰致すにてこれあるべくと存じ、其の分にて差置き候。彌々相嗜み候様に。」と御意なされ候由。

現代語訳

一、野田七右衛門へ西目山の管理を仰せ付けられていた所、自分の為に木を伐って売り払っていると、御目付から言上された。その後七右衛門が、御前に出た時、密かに仰せ付けられたことには、「この様な事を聞いた。その方はそのような事をするはずがない。そのように見えたのを人が噂しているのだろうと思い、そのままに差し置いた。ますます励むように。」と御意なされたそうだ。

聞書第四 〇四三一〜中野杢之助、主君勝茂の寛恕に感激して追腹を覺悟す

原文

一、中野杢之助仕立ての時分、宜しからざる事どもこれあり候段、御目付より言上仕り候。杢之助を召出され、「斯様の儀承り候。随分嗜み候様に。」と潜かに仰聞けられ候。此の時追腹の覺悟仕り候由也。

現代語訳

一、中野杢之助が下働きの時、よろしくない事があった事を、御目付役からジョン上された。杢之助を召し出され、「この様な事を聞いた。随分と励む様に。」と密かに仰せ聞かされた。この時追い腹の覚悟をしたと言う事だ。

聞書第四 〇四三二〜成冨兵庫、肥後の國情を探つて清正遺臣籠城の意なきを斷ず

原文

一、寛永九年、加藤肥後守殿召潰され候節、家來共城を持ち申すと、専ら沙汰これあり候。その節、近國の事に候へば、此方よりも人數差出さるべき事に候。それに付き、成富兵庫、その時分老體病身ながら、御詮議のため召出され候處、兵庫申上げ候は、「曾て城は持ち申さず候。武功の家中に候へども、功者は一人も生き残り居り申さず候。その上兵糧御座なく候。兼て家来を遣はし見分仕らせ候處、近年奢り強く、兵糧の用意これなき由申し候。三年の兵糧これなく候ては、籠城は罷成らざるものに候へば、城は持ち申さゞるに極り申し候。」と申上げ候。又公儀よりも、上方町人に仰付けられ、肥後の米大分買取り、上方差廻し候とも申し候由。

現代語訳

一、寛永九年、加藤肥後守殿が召し潰された時、家来達が籠城をすると、専らの噂であった。そうなると、近国の事であったので、こちらからも人数を差しだすことになる。それに付き、成富兵庫は、その時老体病身でありながら、御詮議の為に召し出された所、兵庫が申上げたのは、「籠城はしない。武功のある家中であるが、巧者は一人も生き残っておらず、その上兵糧もございません。前もって家来を遣わしましたが、近年は奢りが強く、兵糧の用意も無いとの旨申しました。三年の兵糧がなくては、籠城は出来ない物なので、城は持たないと見究めました。」と申し上げた。また公儀からも、上方町人に仰せ付けられ、肥後の米を大分買い取り、上方差し回したとも言われたそうだ。

聞書第四 〇四三三〜鍋島勝茂、具足祝の時御納戸に飾り附く

原文

一、勝茂公御具足祝の節は、御納戸へ御飾成され候由。

現代語訳

一、勝茂公の御具足祝の時は、御納戸へ御飾りなされたそうだ。

聞書第四 〇四三四〜鍋島勝茂、元旦に三社參詣、子直澄の參賀遅刻を戒む

原文

一、御同人様 元朝に 與賀 本庄 白山八幡へ御參詣成され候。或年元日甲州様遅く御出仕成され候に付、「其方は如何様の儀に延引仕り候や。」と御意なされ候。甲州様御答に、「御前に何時も三社御參詣成され候に付、私も御後より參詣仕り候故遅參仕り候。」と仰せられ候。公仰せられ候は、「其方などは元朝の參詣に及ばず候。我等は御兩親も御座なされず、在國にて公方様へ御目見も仕らず、我より上への禮儀、歳の初にこれなく候故、三社に參詣申す事に候。其方などは、我等へ祝儀申さるゝに相濟む事。」の由御意遊ばされ候由。光茂公は、元朝に、向陽軒の御宮に、御參詣遊ばされ候也。

現代語訳

一、御同人様は元旦の朝に與賀 本庄 白山八幡へ御参詣なされた。或る年の元日に甲州様が遅く御出でなされたので、「その方はどのような理由で遅れたのか。」と御意なされた。甲州様は御答に、「御前に何時も三社へ御参詣なされるので、私も御後から参詣いたしたので遅参致しました。」と仰せられた。公が仰せられたのは、「其の方などは元旦の朝に参詣するに及ばず。我は御両親も御座らず、国に居るので公方様へ御目見えもできず、我から上の礼儀が、年の初めには無いので、三社に参詣するのだ。其の方などは、我へ祝儀を申せば済む事だ。」との旨を御意あそばされたそうだ。光茂公は、元日の朝に、向陽軒の御宮に、御参詣遊ばされた。

聞書第四 〇四三五〜鍋島勝茂の時彦山へ年籠り代拜を遣はし、國家長久を祈る

原文

一、勝茂公御代には、徳善院御名代にて彦山へ年籠りに遣はされ候て、御願書御込めなされ候。其の意趣は、

一 公儀御首尾宜しく候様にの事。

一 御國家御長久、御子孫御繁昌の事。

一 御家中に御用に立ち候者出來候様にの御事。

現代語訳

一、勝茂公の御代には、徳善院の名代にて彦山へ年籠りに遣わされて、御願書を御込めなされた。其の意趣は

一 公儀の首尾が宜しくあります様にとの事。

一 御国家が御長久、御子孫が御繁昌との事。

一 御家中に御用に立つ者が出てきます様にとの事。

聞書第四 〇四三六〜千葉氏の妙見太刀、神代家を經て鍋島家什物となる

原文

一、千葉の元祖は、父母も知れぬ童子現前、其の前に太刀一振、妙見菩薩像一幅これあり候。成長の後國守になられ候。或時、雷、右の太刀に望みをかけ、落懸り抓み申し候を、童子現れ取返し候由今に爪形あり。千葉胤頼に傳はり候を、没落の後神代家に寄宿候が、右の二寶神代家に持ち傳へられ候。勝茂公聞召及ばれ、大炊介殿に御所望なされ、今御城御什物になる。其の節證文、神代家にこれある由。

現代語訳

一、千葉の元祖は、父母も知れぬ童子が現れ、その前に太刀が一振、妙見菩薩像一幅があった。成長したのち国守になられた。或る時、雷が、右の太刀に望みをかけ、落ちかかり抓んだところ、童子が現れて取り返したそうで、今でも爪痕がある。千葉胤頼に伝わっていたのを、没落の後に神代家に寄宿していた所、右の二宝を神代家に持ち伝えられた。勝茂公が聞し召し及ばれ、大炊介殿に御所望なされ、今では御城の什物になっている。その時の證文が、神代家に有るそうだ。

聞書第四 〇四三七〜鍋島直澄、御鷹野に制札を建て父勝茂の怒りに觸る

原文

一、勝茂公、御鷹野に御出なされ候處、「從是甲斐守領分」と札を立てこれあり候を御覽成され、殊の外御立腹にて、則ち札を御抜かせ御歸り、御城の御式臺の柱に立て懸け召置かれ候。甲斐守様御登城の節御覽成され、様子御聞き、殊の外御迷惑にて御斷り仰上げられ候。「科代の爲鷂二連差上げられ候様に。」と仰付けられ、御進上成され候由。

現代語訳

一、勝茂公、御鷹野に御出でなされた所、「是より甲斐守の領地」と札を立ててあるのを御覧なされ、殊の外御立腹にて、直ぐさま札を御抜きになり御帰り、御城の御式台の柱に立てかけて召し置かれた。甲斐守様が御登城の時に御覧なされ、様子を聞き、殊の外困って御謝りなされた。「科代として鷂を二羽差し出すように。」と仰せ付けられ、御進上なされたそうだ。

聞書第四 〇四三八〜鍋島勝茂、その子直澄 直弘を堀に入れて藻まくりをさす

原文

一、甲州様、十間堀にて藻まくり成され度き由、山城殿を以て勝茂公へ仰上げられ候に付て、「随分藻まくり仕り候様。其の節は我等も見物申すべく候間、知らせ候様に。」と仰遣はされ候。さて其の日になり、公は土橋より御覽なされ候處、甲州城州立走り、御下知なされ候を、「其方など堀に入り候様に。」と仰せられ候に付て、御兩人ながら堀に御入り成され候。此の事仰せられるべき爲、御見物には御出で遊ばされ候由。

現代語訳

一、甲州様、十間堀にて藻まくりをなされたいとの旨、山城殿を通じて勝茂公へ仰せ上げられたので、「存分に藻まくりする様に。その時は我も見物するので、知らせる様に。」と仰せ遣わされた。さてその日になり、公は土橋から御覧なされたところ、甲州、城州が走って、御命令なされていた所、「其の方などは堀に入る様に。」と仰せられたので、御両人は堀にお入りなされた。この事を仰せられる為に、御見物に御出で遊ばされたそうだ。

聞書第四 〇四三九〜鍋島勝茂、上納米を踏越えたとて、白石在百姓の姥、鍋島勝茂の足を打つ

原文

一、勝茂公白石御鷹野に御出でなされ、殊の外御凍えなされ候故、百姓家に御入り、火を御あたりなされ候へば、姥一人居り申し候が、「今朝は一しほ寒く候間、御あたり候へ。」と申し候て、藁をくべ申し候。暫く御あたり候て、御禮仰せられ御出でなされ候節、庭に米ひろげ置き候を、御越えなされ候。姥立腹いたし、「それは殿に上げ申す米にて候。勿體なき事をする人かな。」と云ひて、箒にて御足を打ち申し候に付、「御免あれ。」と仰せられ、御出でなされ候。御歸りなされ候てより御感なされ、白石十人百姓の内に御加へなされ候由也。

現代語訳

一、勝茂公が白石の御鷹野に御出でなされ、殊の外御凍えなされたので、百姓の家にお入りになり、火に御あたりなされたところ、姥がひとり居たが、「今朝はひとし寒いので、御あたりなされ。」と申して、薪をくべた。暫くおあたりになって、御礼をおおせられ御出でなされたとき、庭に米を広げて置いてあったのを、御越えなされた。姥が立腹し、「それは殿に上げ申す米だ。勿体ない事をする人だな。」と云って、箒で御足を打たれたので、「御免あれ。」とおおせられ、御出でなされた。御帰りなされてから、御感激なされ、白石十人百姓の内にお加えなされたとの事だ。

聞書第四 〇四四〇〜鍋島勝茂、白石猪狩の時、顔を掩うて人々の狼狽振りを見ず

原文

一、白石御狩の時、大猪御打ちなされ候。皆々走り寄り、「さてさて珍しき大物を遊ばされ候。」と見物仕り候處、猪不圖起き上り、駈出し候に付、見物の衆うろたへ迯げ申し候。鍋島又兵衛、抜打にのばし申し候。その時、勝茂公、「ごみがするは。」と仰せられ、御顔に袖御かぶせなされ候。これは、うろたへ候衆を御覽なさるまじき爲にて候由。

現代語訳

一、白石で御狩りの時、大猪を御打ちなされた。皆々走り寄り、「さてさて珍しき大物を遊ばされた。」と見物していた所、猪がふと起上り、駈け出したので、見物の衆はうろたえ逃げた。鍋島又兵衛が、抜き打ちにして伸ばした。その時、勝茂公は、「ごみが舞うわ。」と仰せられ、御顔に御袖をかぶせなされた。これは、うろたえた衆を御覧なされないようにする為であったとの事だ。

聞書第四 〇四四一〜成富 久納等の氣轉と江戸城鍋島家御出入坊主の始

原文

一、御城坊主御出入始りの事。勝茂公御登城の節、御城御供は何時も成富十右衛門 久納市右衛門にて候。或時十右衛門御玄關より上り、坊主衆に逢ひ、「私朋輩、唯今氣分悪しく難儀仕り候間、慮外ながら湯を下され候様に。」と申し候。坊主暫く案じ居り候が、天目に湯をつぎ遣はし候に付持出で、市右衛門へ呑ませ、翌日彼の坊主宿許へ、十右衛門主從引繕ひ禮に參り、巻物など持參致し、其の後、市右衛門も金子など持參して禮を申し近附になり、それより心安く節々取合ひ、後には、殿中にて勝茂公御用も相達し候。御出入坊主の始りにて候。此の事諸家に相聞え、段々御用御頼み坊主出來申し候由。右の坊主は鈴木九齋と申し候由。

現代語訳

一、御城坊主の御出入りの始りの事。勝茂公が御登城の時、御城の御供は何時も成富十右衛門 久納市右衛門であった。或る時、十右衛門が御玄関より上り、坊主衆に逢い、「私の朋輩が、唯今気分が悪く難儀をしていたので、御無礼ながらお湯を下されます様に。」と申した。坊主は暫く案じていたが、天目茶碗に湯をついで遣わし持って出て、市右衛門へ呑ませ、翌日彼の坊主の宿許へ、十右衛門が主従を引き継いで礼に参り、巻物などを所持し、その後、市右衛門も金子など持参して礼を申し御近付きになり、それより心安く節々取合い、後には、殿中にて勝茂公の御用にも相達した。御出入り坊主の始りである。この事は諸家に伝わり、段々と御用を御頼みになる坊主が出来たそうだ。右の坊主は鈴木九齋と言うそうだ。

聞書第四 〇四四二〜長崎監使井上筑後守、鍋島勝茂に領内河海の状況を語る

原文

一、勝茂公へ井上筑後守殿御申し候は、「御在所の海川堀の深淺、間數等迄、悉しく公儀へ相知れ居り候」由、御物語御座候由。

現代語訳

一、勝茂公へ井上筑後守殿が申した事には、「御在所の海川堀の深浅、間数などまで、ことごとく公儀に知られている」との旨、御物語があったとの事だ。

聞書第四 〇四四三〜鍋島勝茂、一代丸絎の帯を常用す―昔は大方丸帯

原文

一、勝茂公は御一代丸絎の帯を遊ばされ候由。昔人は大方丸帯仕り候由也。

現代語訳

一、勝茂公は御一代丸絎けの帯を遊ばされたそうだ。昔の人は大方丸帯をしていたそうである。

聞書第四 〇四四四〜鍋島直茂、勝茂に御仕置者成敗に切柄を用ふるを戒む

原文

一、直茂公、或時御本丸へ御出でなされ候に、御通筋にて、刀に切柄を仕はめ申し候を御覽なされ、「それは何に成り候や。」と御尋ねなされ候に付て、「明日御仕置者御座候に付、御腰物試し申し候切柄にて御座候。」と申上げ候。直茂公仰せられ候は、「信濃守は人を切られ候時、切柄をはめ候て切り申され候や。我等などは終に左様の事したる事これなく候。」と御意なされ候。此の段、勝茂公聞召され、「御尤もの事、不調法の仕方。」と仰せられ、悉く切柄御のけさせ、翌日御仕置者、水ヶ江にて(後は神代殿屋敷に成り候)御前に引出し、縄を解き候て、迯げ延び候はゞ御助けなさるべし。と仰せられ候故、走り出で候を、抜打に御切り遊ばされ候。この事、直茂公へ誰か申上げ、「見事に遊ばされ候。」と申し候へば、御笑ひなされ、「これは我等切柄の事申し候故にてあるべし。」と仰せられ候由。

現代語訳

一、直茂公jは、或る時御本丸へ御出でなされ、お通りがかりに、刀に切柄をはめているのを御覧なされ、「それはなんに使うのだ。」と御尋ねなされたので、「明日、御仕置者がございますので、御腰物を試す切柄でございます。」と申上げた。直茂公が仰せられたことには、「信濃守は人を切られる時に、切柄をはめて切申すのか。我などは終ぞそのような事はしたことが無い。」と御意なされた。この段を、勝茂公が聞し召され、「御尤もな事、不調法なやり方だった。」と仰せられ、ことごとく切柄をのけさせ、翌日の仕置者は、水ヶ江にて(後には神代屋敷に成った)御前に引出し、縄を解いて、逃げ延びれば御助けなさるとの旨仰せられたので、走り出したのを、抜き打ちにて御切遊ばされた。この事、勝茂公へ誰かが申上げ、「見事でございました。」と申上げたところ、御笑いなされ、「これは我が切柄の事を申したからだろう。」と仰せられたそうだ。

聞書第四 〇四四五〜鍋島勝茂、御仕置者を切習ひ、最後に健やかな若者を助く

原文

一、勝茂公御若年の時分、直茂公より、「御切習ひに御仕置者を御切りなされ候様に。」と御座候に付、今の西の御門内に十人並べ置き候を、續け切りに九人まで御切りなされ候處、十人目の者すくやかなる若き者にて候を御覽なされ、「最早切り飽き候間、其の者は助け候様に。」と仰せられ、御助け遊ばされ候由。助右衛門殿話也。

現代語訳

一、勝茂公が御若年の時分、直茂公より、「御切りの練習に御仕置者を御切り成される様に。」と仰せ付けたので、今の西の御門の内に十人並べて置いたのを、続け切りに九人まで御切なされた所、十人目の者が健やかな若い者であるのを御覧なされ、「最早切り飽きたので、その者は助けるように。」と仰せられ、御助け遊ばされたそうだ。助右衛門殿の話である。

聞書第四 〇四四六〜鍋島直澄と松平信綱息女との縁組破れ、兩家不和となる

原文

一、勝茂公御在府の砌、加賀守殿(初飛騨守直能)御縁組方々より申し來り、其の内御老中御取持にて、大方御議定なされ、紀州様(元茂)へ仰遣はされ候處、御返事に、「先年甲斐守に松平伊豆守息女御縁組なされ、其の後、下總守殿姫を再縁なされ候に付、伊豆守縁切れ、氣味悪ろく罷成り候。加賀守などには、御家中の者より、縁組仰せ付けられ然るべく存じ奉り候。他方に縁組仰付けられ候はゞ末々は他家の様に罷成り、御家の害に相成る事御座あるべく候。日峰様仰置にも、我々儀御家を嘆き、外の望存ずまじき由仰聞けられ候は、斯様の儀かと存じ候」由、申し來り候に付御相談相止み、鍋島平八(後名彌兵左衛門)へ相済み居り候美作の息女、勝茂公の御孫にて候を御養子成され、御本丸にて御養育候を、色々御斷り仰せられ候て縁御切り、加賀守殿へ遣はされ候。御本丸より西の丸へ輿入れあり、御臺所の前に、勝茂公徳壽院殿長壽院殿(御兩人共勝茂公御姉様)御出で、御見立成され候。御腰を鍋島式部請取り、御迎は小城衆皆々參り候也。

右に付清光院殿残念の様子聞召され、隼人娘を和泉守直朝に縁組仰付けられ候也。清光院殿登城候へば、勝茂公御上下にて次の間より御禮なされ、御會釋候故、後には登城これなき由。政家公の御姫也。

現代語訳

一、勝茂公が御在府のおりに、加賀守殿(初飛騨守直能)の御縁組の申し出が方々から来て、その内御老中の御取持ちで、大方御議定なされ、紀州様(元茂)へ御遣わされなさった所、御返事に、「先年甲斐守に松平伊豆守息女を御縁組なされ、其の後、下総守殿姫を再縁なされたので、伊豆守と縁が切れ、折り合いが悪くなった。加賀守などには、御家中の者と縁組仰せ付けられてしかるべきだと考えている。他方との縁組を仰せ付けられれば、末々は他家の様になってしまい、御家の害になるでしょう。日峰様の仰せ置きにも、我々の役目は御家を嘆き、外の望みを考えぬ様に仰せ聞かされているのは、この様な事であると思っている」との旨、申して来たので御相談が止み、鍋島平八(後名彌兵左衛門)のところへ縁組が済んでいる美作の息女、勝茂公の御孫であるが御養子なされ、御本丸にて御養育しているのを、色々断わりを仰せになって縁を切り、加賀守殿へ遣わされた。御本丸から西の丸へ御輿入れがあり、御台所の前に、勝茂公、徳壽院殿、長壽院殿(御両人は勝茂公御姉妹)が御出でになり、御見立てなされた。御輿を鍋島式部が請け取り、御迎え小城衆が皆々参った。

右に付いて清光院殿残念がっている様子を聞し召され、隼人娘を和泉守直朝に縁組仰せ付けられた。清光院殿が登城したところ、勝茂公御上下で次の間から御礼なされ、御挨拶なされたので、其の後は登城されることは無かったそうだ。政家公の御姫である。

聞書第四 〇四四七〜鍋島勝茂、鷹野で鶴を捕へると、急便を以て亡父の位牌に報告

原文

一、勝茂公西目御鷹野にて鶴取飼ひ候へば、その場より侍一人御使仰付けられ、高傳寺へ遣はされ、和尚承次ぎ、日峰様御位牌に披露これあり候由。

現代語訳

一、勝茂公が西目御鷹野にて鶴を取り飼いなされ、その場から侍を一人を御使者に仰せ付けられ、高傳寺へ遣わされ、和尚が承り次いで、日峰様の御位牌に報告されたそうである。

聞書第四 〇四四八〜奉公人の四通りは急だらり、だらり急、急々、だらりだらり

原文

一、勝茂公兼々御意なされ候は、奉公人は四通りあるもの也。急だらり、だらり急、急急、だらりだらり也。急々は申付け候時もよく請合ひ、事もよく調ふる者にて候。これは上々にてあり兼ぬるもの也。福地吉左衛門などは急々に似たる者也。だらり急は、申付け候時は不辨にて、事を調へ候事は手早くよく埒明かすもの也。中野數馬どもにてあるべし。急だらりは申付け候時は成程埒明き候が、事を調ふる事は手間入りて延引する者也。これは多きもの也。其の外は、皆だらりだらりなりと仰せられ候由。

現代語訳

一、勝茂公がかねがね御意なされたのは、奉公人は四通りあるものである。急だらり、だらり急、急急、だらりだらりである。急々は申し付けた時も。よく請け合い、事もよくととのえる者だ。これは上々で中々居ない。福地吉左衛門などは急々に似た者である。だらり急は、申し付けた時は不便だが、事を調える事は手早く済ませるものである。中野數馬どもであるだろう。急だらりは、申し付けた時は理解するが、事を調えることは手間取って引き伸びる者である。これは多いものだ。その他は、皆だらりだらりであると仰せられたそうだ。

聞書第四 〇四四九〜鍋島忠直岳父松平下總守、將軍家光へ須古踊を披露す

原文

一、松平下總守殿より、西御丸にて將軍様へ踊御馳走なされ候に付て、「此御方より須古踊を差出され候様に。」と御頼みなされ候故、小々姓衆御子様附の衆迄御遊びなされ、踊御仕立て、拍子方迄侍數人差出され候。小歌の文字新たに御作らせなされ候。此の爲に順長老召寄せられ候とも申し候。

現代語訳

一、松平下総殿から、西御丸にて将軍様へ踊り御馳走なされるとの事で、「この御方から須古踊りを差し出されるように。」と御頼みなされたので、小々姓衆御子様付きの衆まで御遊びなされ、踊り仕立て、拍子方まで数人差し出された。小歌の文字を新たに御作らせなされた。この為に順長老を召し寄せられたとも言われている。

聞書第四 〇四五〇〜鍋島勝茂、高傳寺に參詣し恒例の豆腐吸物を所望す

原文

一、勝茂公高傳寺御參詣の節は、いつも御吸物出で申し候。或時御吸物差上げ申され候處、御意なされ候は、「例の通り豆腐の御吸物差出され候様に。」と御意なされ候故、仕替へ差上げ申され候由。

現代語訳

一、勝茂公が高傳寺に御参詣される時は、いつも御吸物が出た。或る時御吸物を差上げ申された所、御意なされたのは、「例の通り豆腐の御吸物差し出される様に。」と御意なされたので、差し換え差上げ申されたそうだ。

聞書第四 〇四五一〜鍋島勝茂軍物語に、加藤嘉明 井伊直政を激賞す

原文

一、勝茂公、軍物語遊ばされ候節、「高麗にて加藤左馬助敵船を乗取り候時、鎧には蓑毛の如く矢を射附けられ、敵船に乗込み、働き申され候。一とせ、太閤様吉野の御花見にも御供せしが、花よりも何よりも、左馬助働きほど見事なる事はなかりし。」と仰せられ候由。また「上方にて、立花攻仰付けられ候御禮の節、井伊直政奏者にて候が、關ヶ原にて肩先に手負はれ候に付、白き布にてゆひ、首にかけ、片手附にての作法、容儀、勢ひ、見事なる事言葉にも述べ難し。天下無雙、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫也。」と御意なされ候由。

現代語訳

一、勝茂公、軍物語遊ばされた時、「高麗にて加藤左馬助が敵船を乗っ取った時、鎧には蓑毛の如く矢を射つけられ、敵船に乗り込み、働き申された。ある時、太閤様の吉野の御花見にもお供したが、花よりも何よりも、左馬助働きほど見事なることはなかった。」と仰せられたそうだ、また「上方にて、立花攻めを仰せ付けられた御礼の時、井伊直政が奏者であったが、関ヶ原にて肩先に手負われたので、白い布で結び、首にかけ、片手での作法、容儀、勢い、見事なる事、言葉にもなり難し。天下無双、英雄勇士。百世の鑑とすべき武夫である。」と御意なされたそうだ。

聞書第四 〇四五二〜太田與右衛門、泰盛院一周忌法事に酒好きの殿様を偲ぶ

原文

一、泰盛院様御一周忌法事の節、御靈前方役を、御一生御膳上げ候人に候間、太田與右衛門然るべき由にて、仰付けられ候。追て勘定の書附酒五石入り候由書出し申され候。役人より、これは書違ひにてこれあるべき由申され候。與右衛門申し候は、「曾て書違ひにてこれなく候。各々は御側の事御存じなく候故、左様に御申し候。拙者は數年相勤め、御側の儀よく存じ候者に付、今度の役仰付けられ候。先づ泰盛院様御一代、朝夕晩の三度の御酒、中椀にて三つ宛一日には九つ召上がられ候。御供の衆杢之助殿初め二十六人共に下戸一人もこれなく候。今度の御法事中何卒上下共に御酒を上り候様にと存じ、一人にて相伴成りかね候故、寺中の出家衆に逢頼み、數日の間随分精を入れ、御酒を進じ申し候へども、御存生の時半分も入り申さず候。」と落涙にて申し候由。

現代語訳

一、泰盛院様の御一周忌法事の時、御霊前方役を、生前に御膳を上げた人であるので、太田與右衛門で然るべきとの事で、仰せ付けられた。追って勘定の書き附けに酒が五石いると書き申された。役人から、これは書き違いであるだろうと申された。與右衛門が答えたのは、「これは書き違いではない。各々は御側の事を御存じないので、そのように申すのだ。拙者は数年勤め、御側の事を良く知っているので、今度の役を仰せ付けられた。まず泰盛院様の御一代では、朝夕晩の三度のお酒を、中椀にて三つづつ一日に九つ召上がられた。御供の衆は杢之助殿を初め二十六人に下戸は一人もいない。今度の御法事中は何卒、上下共にお酒を召上がる様にと思い、一人での御相伴では成りかねるので、寺中の出家衆に会って頼み、数日の間随分と精を入れ、酒を進じたが、御生前の時の半分も入らなかった。」と涙を流して申したそうだ。

聞書第四 〇四五三〜鍋島直茂、勝茂に「良き人を持つには人に好く迄」と諭す

原文

一、勝茂公より光茂公へ御代譲りなされ候前方、二十箇絛計りの御書き物相渡され候。皆以て直茂公御意計りにて候。其の内、直茂公御病氣御差詰り、五月廿六日勝茂公御面談の時分仰せられ候は、「國家を治むるは良き人を持つに極り候。」と御意なされ候。それに付、「良き人出來候様には立願など懸け申すものにて候や。」と御尋ねなされ候へば、直茂公仰せられ候は、「總じて人力に及ばざる事を佛神に御頼み申すものにて候。良き人出來候事は、我が力にて成る事也。」と仰せられ候。「それは如何様に仕り候へば、出來申し候や。」と重ねて御尋ねなされ候へば、「物毎好きの者は集まるもの也。花に好き候へば今迄一種も持ち申さざる者も暫しの間に品々集まり、世に珍しき花など出來申すものに候。その如く人に好き候へば、其の儘出來るもの也。唯好き申すまでにて候。」と御意なされ候。又「何事も誠にてこれなく候へば、役に立たざる」由、其の外數箇絛これあり。

現代語訳

一、勝茂公から光茂公へ御代替わりなされる前、に十箇条ばかりの御書物を渡された。皆、直茂公の御意ばかりだった。その内、直茂公の御病気が行き詰まり、五月二十六日に勝茂公と御面談された時に仰せに成ったのは、「国家を治めるには良い人を持つに極まる。」と御意なされた。それに付、「良き人が出て来るようには立願などを懸けるのですか。」と御尋ねなされた所、直茂公が仰せられたのは、「そうじて人力の及ばない事を神仏に頼むものだ。良き人が出てくることは、我の力で成る事である。」と仰せられた。「それはどのようにすれば、出てくるのですか。」と重ねて尋ねると、「物ごとに好き者は集まるものだ。花が好きであれば、今まで一つの種も持っていなかった者でも暫くの間に品々あつまり、世にも珍しい花などが出てくるものだ。そのように人が好きであれば、そのまま出てくるものだ。ただ好きでいるだけだ。」と御意なされた。また、「何事も誠になくては、役に立たない。」との旨、其の外の箇条にあった。

聞書第四 〇四五四〜鍋島勝茂、夜陰壁越しの手練と家傳の銘刀「加賀清光」

原文

一、勝茂公白石御逗留の時分、夜に入り御寝みなされ候てより、御庭を御覽なされ候へば、月影に、御縁の袖壁の裏より、人影さし申し候。潜かに御起き遊ばされ、袖壁ぐるみに御切りなされ候へば、壁切れ通り、裏に立ち居り候者大袈裟に御切り落しなされ候。この者誰共相知れず、秀判右衛門一黨にてこれあるべくと沙汰仕り候由。右御脇差は加賀清光にて候。光茂公御若年の時分、御定差に進ぜられ候。後に綱茂公へ進ぜられ候。その節、「古き物に候間、ためし候様に。」と仰付けられ、中溝半兵衛三つ胴切落し候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、勝茂公が白石に御逗留の時、夜になって御寝みなされてから、御庭を御覧なされたところ、月影で、縁側の袖壁の裏から、人影がさした。密かに御起きあそばされ、袖壁ごと御切りなされた所、壁を切り抜いて、裏に立っていた者を大袈裟に切り落としなされた。この者は誰とも知れず、秀判右衛門の一味であるだろうと噂があったとの事だ。右の御脇差は加賀清光である。光茂公が御若年の時、御常差しに進ぜられた。後に綱茂公へ進ぜられた。その時、「古い物なので、試すように。」と仰せ付けられ、中溝半兵衛が三つ胴切り落としたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四五五〜鍋島勝茂、白石御逗留の時分、先祖焼香の爲秀林寺を建立す

原文

一、白石秀林寺の事勝茂公御狩として白石御逗留の時分、御先祖方御命日に御焼香の爲、秀林寺御建立遊ばされ候由也。

現代語訳

一、白石秀林寺での事。勝茂公が御狩りで白石に御逗留した時、御先祖方の御命日に御焼香をする為、秀林寺を御建立遊ばされたそうである。

聞書第四 〇四五六〜鍋島勝茂夫人高源院、主人信濃守外家族の安泰を祈祷す

原文

一、高源院様御自筆のうつし、本書善應庵にこれあり候由。

しな濃殿たいち御やくちかへの御きとうの御心持の事

しな濃守殿五十

一 天正八年 かのえたつ 十月きのと日 きえの ねの時

ひぜんの守十七

一 慶長十八年 みつのとの うしの年六月二日 つちのとのうしの日 かのえ 丑の時

人 同 七年 みつのえとら 十月十一日

加賀守十五

一 同 廿ねん きのとの うし年十一月十二日 きのとのとりの日 みつのとのひつしのとき

げんわぐわんねんにてつるなり

たん正殿うし廿三

一 けい長十二年 ひのとひつしの年 九月二日 みつのえのたつの日 かのとの亥の時

おつる殿廿二

一 同 十三年 つちのえさるの年 十月十一日 きのとのうしの日 ひのとのうしの時

お亀十三

一 元和三年 ひのとのみの年 四月六日 かのえねの日 みつのとのひつしの時

おちやう七つ

一 元和九年 みつのとのゐの年 二月二日 みつのえいぬの日 つちのえさるの時

四十二

一 天正十六年 つちのえねのとし 七月十六日 ひのとのとりの日 つちのとのとりの時

萬吉也

此外やうしにさせ申子共つゝか御なきようにと、御きとう御はしめに御ほそんに仰上させられ候べく候。めでたく。かしく。

現代語訳

一、高源院様御自筆のうつしが、本書善應庵にあるそうだ。

信濃殿太一御扼はらいの御祈祷のお心持であるとの事。

信濃守殿五十歳

一 天正八年 庚辰 十月乙子日 甲の 子の時生れ

肥前守十七歳

一 慶長十八年 癸 丑の年六月二日 己の丑の日 庚 丑の時生まれ

一 同 七年 壬寅 十月十一日

加賀守十五歳

一 同 二十年 乙 丑年十一月十二日 乙の酉の日 癸の未の時生れ

元和元年にあたる

弾正殿丑二十三歳

一 慶長十二年 丁未の年 九月二日 壬辰の日 辛の亥の時生まれ

お鶴殿二十二歳

一 同 十三年 戊申の年 十月十一日 乙の丑の日 丁の丑の時生まれ

お亀十三歳

一 元和三年 丁の巳の年 四月六日 庚子の日 癸の未の時生まれ

おちょう七つ

一 元和九年 癸の亥の年 二月二日 壬戌の日 戊申の時生まれ

四十二歳(高源院)

一 天正十六年 戊子の年 七月十六日 丁の酉の日 己の酉の時生まれ

万事が吉である。

この他養子にさせた子供がつつがなき様にと、御祈祷の御始めに御本尊に仰せ上げられたでしょう。めでたく。かしこ。

聞書第四 〇四五七〜鍋島勝茂、輕山寺庭園を模造し、世嗣忠直に諷せらる

原文

一、勝茂公御老中御招請前方、御馳走の爲、築山を珍しく遊ばさるべくと御工夫為され、「經山寺の圖、手を盡し築立て候様に。」と仰付けられ、成就の上、忠直公御若年の時分にて候を御同道なされ、見せまゐらせられ、「老中方も珍しく思召さるべし。」と仰せられ候へども、忠直公兎角御意なされざるに付、勝茂公仰せられ候は、「其方は何と存じ候や。」と御尋ねなされ候。其の時忠直公、「愛らしきものにて御座候。」とばかり御意なされ候。忠直公御歸り跡にて、「即刻御庭取崩し候様に。」と仰付けられ候由。

現代語訳

一、勝茂公が御家老中を招請する前に、御馳走の為、築山を珍しく作り替えようと御工夫なされ、「軽山寺の図を、手を尽くして築きたてる様に。」と仰せ付けられ、成就した上で、忠直公の御若年の時分だったので御同道なされ、見せて入らせ、「老中方も珍しいと思われるだろう。」と仰せられたが、忠直公はとにかく御意なされなかったので、勝茂公が仰せられたのは、「その方はどのように思うか。」と御尋ねなされた。その時忠直公は、「愛らしいものでございます。」とだけ御意なされた。忠直公が御帰りになった後に、「即刻御庭を取り崩すように。」と仰せ付けられたそうだ。

聞書第四 〇四五八〜鍋島忠直、使者口上の誤を咎めず、再び懇切に教へて遣はす

原文

一、忠直公御側の人を勝茂公へ御使に遣はされ候處、御口上相違の儀申上げ、埒明き申さず候に付、不届者に候間御叱りなさるべきの由、年寄共申上げ候。忠直公右の人を又御使仰付けられ、御口上委しく仰聞けられ、篤と合點致し候様に數遍仰含められ、申様迄も聞召され候て遣はされ候。この度は少しも相違なく相勤め罷歸り候。その時年寄共召出され、「最前口上の申含め大方に候ゆゑ、彼の者聞違へ、申し誤り候。今度は委細申聞け候ゆゑ相違これなく候。然れば最前の不調法は我等也。彼の者に咎少しもなし。」と仰せられ候由。助右衛門殿話也。

現代語訳

一、忠直公の御側の人を勝茂公へ御使いに遣わされた所、御口上を間違えて申上げ、埒が明かず、不届きものなので御叱りなさるべきとの旨、年寄共が申上げた。忠直公は右の意図をまた御使いを仰せ付けられ、御口上を詳しく仰せ聞かせて、篤と合点するように数回仰せ含められ、申し様までも聞し召されて遣わされた。今回は少しも間違わず勤めて帰った。その時年寄共を召し出だされ、「前回の口上の申し含めがいい加減であった故、彼の者は聞き間違え、申し誤った。今度は委細を申し聞かせた故に間違いが無かった。然れば前回の不調法は我にある。彼の者に咎は少しも無い。」と仰せられたそうだ。助右衛門殿の話である。

聞書第四 〇四五九〜副島八右衛門 鍋島勘兵衛等四十歳以上迄御小姓を勉む

原文

一、勝茂公御代には、御家中大身小身にかぎらず、子供十一二歳より御側に召使はれ、諸事御指南遊ばされ、御用に立ち申し候者數人出來仕り候。七十餘人相詰め申し候由。副島八右衛門は四十二歳迄、鍋島勘兵衛は四十歳迄前髪立御小姓にて候。それ故御前の御勝手をも存じ、江戸御國諸役の事も見慣れ聞慣れ、御大名方御給仕に馴れ候故、御顔も見知り、御前馴れ候に付、嗜も深く、元服以後早速より御用に相立ち申し候。扨又、親相果て候時分、本知を下されざるに付て幼少の時より御奉公に勵み申し候。一とせ御參勤の時分、小田原より公儀へ御使者を以て委細御家老中方へ御直に仰入れらるゝ儀これありて、御供立中御吟味なされ候へども、口上を申叶へ、御心に應じ候者これなく、御小姓齋藤作太夫を元服仰付けられ、御使者に上げられ候由。

現代語訳

一、勝茂公の御代には、御家中の大身小身に関わりなく、子供は十一、二歳から御側に召し使われ、諸事を御指南遊ばされ、御用に立つ者が数人出て来ていた。七十余人が詰めていたそうだ。副島八右衛門は四十二歳まで、鍋島勘兵衛は四十歳まで前髪を立て御小姓であった。それ故御前の御勝手を知っており、江戸御国諸役の事も見慣れ聞き慣れ、御大名方の御給仕に馴れていたので、御顔も見知り、御前に馴れていたので、嗜みも深く、元服以後は早速御用に立った。さてまた、親が果てた時、本知を下されなかったので幼少の時から御奉公に励んだ。とある御参勤の時に、小田原から公儀へ御使者を以て委細御家老中へ御急ぎで仰せ入れられる要件があり、御供と御吟味なされたが、口上を申し叶え、御心に応じる者が無く、御小姓齋藤作太夫を元服仰せ付けられ、御使者に上げられたそうだ。

聞書第四 〇四六〇〜鍋島勝茂、平常一萬を以て朝鮮七年の在陣を用意す

原文

一、勝茂公、常々仰せられ候は、人數一萬にて、朝鮮七年の在陣の用意を、仕置き候はでは叶わざる事也。重ねて異國取合の時、不覺悟なき様にと仰せられ、雜務方御精入れられ候由。勘定所に朝鮮在陣の御積帳これある由。金丸氏話也。

現代語訳

一、勝茂公、常々仰せられたのは、人数一万にて、朝鮮七年の在陣の用意を、して置かなくては話にならない。重ねて異国取り合いの時、不覚悟が無い様にとおおせられ、雜務方に御精を出されたそうだ。勘定所に朝鮮在陣の御見積り帳があるそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四六一〜鍋島勝茂、評定所召喚の時、紀伊守元茂名代として出づ

原文

一、或説に、勝茂公御評定所御出での時、夜内に御屋敷御出で、甲州様手燭、紀州様御腰物御持ち御出でなされ、紀州様は直ちに徒歩御供成され候。御評定所御上げなされ候時、「御腰物如何なさるべきや。」と仰せられ候へば、紀州様仰せられ候は、「私大小共にぬぎ申し候。御脇差は御さし候て御出で候様に。」と仰せられ、其の身御大小は玄關の前にぬぎ捨て、奥迄御供にて御通り成され候。勝茂公一通り仰達せられ候上にて、「私儀、老體に罷成り物言ひも不埒に御座候。伜紀伊守へ委細申させ度く候。」と仰せられ候に付、召出され候時、「敷居の外に頭を畳に附け御座候を、是れ是れへ御時宜に及ばず候。」と、再三これあり候間、間内に御入り、「御茶道衆御茶を下さるべく候。一大事の申事に候へば、得と落着き候て申上ぐべく候。御免成され候へ。」と平座に御成り、書き物二巻取り出し、委細仰上げられ候と、申し傳へ候。御年譜などには、紀州様御出での儀、相見えず候也。

現代語訳

一、或る説に、勝茂公が御評定所に御出での時、夜の内に御屋敷を御出で、甲州様が手燭で、紀州様が御腰の物を御持ちで御出でなされ、紀州様は直ちに徒歩で御供なされた。御評定所へ御上りなされた時、「御腰の物はどうするべきか。」と仰せられた所、紀州様がおおせられたのは、「私が大小共に抜きます。御脇差は御差しになって御出でなさるように。」と仰せられ、その身の御大小は玄関の前に脱ぎ捨て、奥まで御供にて御通りなされた。勝茂公は一通り仰せ達せられた上で、「私事ですが、老体と成り物言いも不埒でございます。伜の紀州守へ委細を申させたく。」と仰せられ、召し出だされたとき、敷居の外に頭を畳に付けているのを、「これへこれへ御辞儀には及ばない。」と再三仰せられたので間内にお入りになり、「御茶道衆の御茶を下そう。一大事の申し事であれば、とくと落ち着いて申上げるべきだ。御免なされ。」と平座に御成り、書き物を二巻取り出し、委細申上げられたと、申し伝えられている。御年譜などには、紀州様が御出でになった件は、確認できない。

聞書第四 〇四六二〜鍋島勝茂、寝間に侍四人不寝番を勤む―御城不寝番の始

原文

一、勝茂公御寝み成され候時は、侍四人御寝間の四方に罷在り、刀引直し、不寝番仕り候。諸番の内に御仕組み召置かれ候に付、今に於て御城に不寝番これある也。

現代語訳

一、勝茂公が御寝み成される時は、侍四人が御寝間の四方に控え、刀を引き直し、寝ずの番をしていた。諸番の中に御仕組みが召し置かれたので、今でも御城に寝ずの番がある。

聞書第四 〇四六三〜鍋島勝茂「小身者程元を忘れず、後を前に心得よ」と諭す

原文

一、勝茂公或時御話に、「小身なる者程元を忘れ申すまじく候。又うしろを前に心得候事専一に候。」と仰せられ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、勝茂公の或る時の御話に、「小身なる者程元を忘れるべきではない。また過去を未来と心得る事が第一である。」と仰せられたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四六四〜鍋島直茂、常に公事沙汰裁判には死罪にならぬ様心得よと諭す

原文

一、御家老中へ仰出に、公事沙汰裁判の時、何卒死罪にならざる様に心得候て、承り申さるべく候。直茂公常々仰せられ候事を、今に於て忘れず候故、申渡し候由。又大事の時、酒入らざる事に候。總じて酒は好ましからぬ物の由。この儀も、直茂公御意なされ候と、仰せられ候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、御家老中への仰せに、公事沙汰裁判の時、何卒死罪に成らない様に心得て、承り申すべきである。直茂公が常々仰せられた事を、今でも忘れていない故、申し渡したそうだ。また大事の時は、酒を飲まなかったとの事だ。総じて酒は好ましく無い物との事。この件も、直茂公が御意なされたと、仰せられたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四六五〜鍋島勝茂、詮議の書附に國家の事一事も見えぬと家臣を戒む

原文

一、寄合日の書附を御覽なされ候て、仰出され候は、「詮議の書附、雜務方計りにて候。國家の事一事も相見えず、沙汰の限り不届千萬。」と殊の外の御叱り、遊出を以て仰出され候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、寄合日の書き付けを御覧なされて、仰せ出だされたのは、「詮議の書き付けは、雑務方ばかりだ。国家の事が一事も見えない。沙汰の限り不届き千万。」と殊の外御叱り、遊ばし出しを以て仰せ出だされたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四六六〜鍋島勝茂、徳善十二坊を建立、山本神右衛門に信心を下知す

原文

一、徳善の十二坊御建立の時、随分御信心成され、「此の御入用、清き米、清き銀にて相調へ、萬事清浄に信心を以て仕り候様に。」と、山本前神右衛門善忠へ、勝茂公、御印の御書き物下され候由。金丸氏話也。

現代語訳

一、徳善の十二坊を御建立の時、随分と御信心なされ、「この御入用に、清き米と、清き銀で調え、万事清浄に信心を以て仕る様に。」と山本前甚右衛門善忠へ、勝茂公の、御印の御書物を下されたそうだ。金丸氏の話である。

聞書第四 〇四六七〜泰盛院 高源院 恵照院 興國院死去の地、正獻院屋敷

原文

一、了關様へ蒲原彌三郎を以て御尋ね申上げ候節、御答の書附寫

一 泰盛院様御死去の地、何方にて候や。   淺部。(註、麻布)

一 高源院様同斷

淺部。

一 恵照院様同斷

淺部。

一 興國院様同斷(私に云ふ、右は三島屋敷にて候也。下御屋敷、今は増上寺内に成り居り候也。)

一 義峯院様御屋敷、始め何方にて候や。(寛永十八年)淺部。

現代語訳

一、了関様へ蒲原彌三郎を以て御尋ね申上げた件の、御返答の書き写し

一 泰盛院様御死去の地は、どこか。

浅部。(註、麻布)

一 高源院様同断

浅部。

一 恵照院様同断

浅部。

一 興國院様同断(わたくしに云うと、右は三島屋敷である。下屋敷、今は増上寺の中になっている。)

一 義峯院様御屋敷は、始めはどこだったか。(寛永十八年)浅部。

聞書第四 〇四六八〜鍋島勝茂 旅中忠直の訃報を聞き知つた宿所に再び泊らず

原文

一、寛永十二年正月、勝茂公御下國に石藥師宿御泊りに、江戸より飛脚參著、忠直様御死去の段申來る。二度此の宿に御泊り成さるまじくと仰出され、其の後御家中の者も、一宿仕らず候由。今に於て本陣お目見えも仰付けられず候。中野是水話也。

此の儀相違。今年勝茂公御着府也。石藥師本陣の仔細、追て尋ぬべく候也。

現代語訳

一、寛永十二年正月、勝茂公が御下国で石薬師に御泊りになった時、江戸から飛脚が到着し、忠直様の御死去の知らせを申し来た。二度とこの宿に御泊りなさらないと仰せ出だされ、その後御家中の者も、一宿もしなかったそうだ。今でも本陣御目見えでも仰せ付けられない。中野是水の話である。

この件は間違いである。今年勝茂公が御着府である。石薬師本陣の詳細、追って尋ねよう。

聞書第四 〇四六九〜鍋島忠直鎧着の時、安藝茂賢七寸左文字の槍を進上す

原文

一、寛永二年肥前様御鎧着の節、伊豆守(鍋島安藝守也)より槍一筋進上仕り候。身七寸左文字の由。此の槍光茂公より左内様へ進ぜられ候處に御死去に付、御寺へ上り候由。深江二左衛門話也。或説に、右の槍は、柳川一戰の時の槍にて候由。

此の儀相違也。柳川一戰の槍は勝茂公へ進上、御居間へ懸け置かれ候由。頼母聞書にあり。

現代語訳

一、寛永二年肥前様が御鎧着の時、伊豆守(鍋島安芸守である)から槍を一筋、進上した。身七寸左文字との事。この槍は光茂公から左内様へ進ぜられたところ御死去なさったので、御寺へ上がったそうである。深江二左衛門の話である。或説には、右の槍は、柳川一戦の槍だそうだ。

この話は誤りである。柳川一戦の槍は勝茂公へ進上、御居間へ懸けて置かれているそうだ。頼母聞書にある。

聞書第四 〇四七〇〜林形左衛門、出支度中忠直公逝去の報を聞いて殉死す

原文

一、肥前様追腹、林形左衛門は肥前様御存生の中、御側無人に付御望みなされ、罷登る支度仕り候半ばに、御死去の段申し來り、一日も御奉公は申上げず候へども、御家中数百人の中より御望みなされ候儀、身に餘り有難き由にて、山城殿差止められ候へども承引仕らず、追腹仕り候由。

形左衛門を御望みなされ候仔細は、勝茂公より誰にても御望みなされ候様にと仰せられ候に付、「林形左衛門と申す者去年御使者に差越され候て見知り申し候。外には淵底存じたる者もこれなく候。」と仰せられ候に付、形左衛門仰付けられ候由。

一説に林榮久相果て候時分、形左衛門へ申聞かされ候は、「我等は侍從殿へ追腹の所存にて候處、御先に相果て残念の事に候。」と申し候。形左衛門これを承り、「その段は御心安く思召し候へ。名代に某御供仕るべし。」と申し候に付て、榮久悦び相果て候。形左衛門儀病者にて短命にこれあるべくと、自身存じ居り候處、肥前様御死去に付、この節と存じ、追腹仕り候由。

現代語訳

一、肥前様の追い腹、林形左衛門は肥前様の御存命のうちに、御側に人がいなかったので望まれて、登城する支度中に、御死去の知らせを受け、一日も奉公は申上げていなかったが、御家中の数百人の中から御望み成された事、身に余り有り難い事だとして、山城殿が差し止められたが、承って引く事は無く、追い腹を仕ったそうだ。

形左衛門を御望み成された理由は、勝茂公から誰でも望むものを連れてくるようにと仰せられたので、「林形左衛門と申す者が去年使者として差し越されたので見知っております。外には良く知っている者もおりません。」と仰せられたので、形左衛門が仰せ付けられたそうだ。

一説には林栄久が果てた時、形左衛門へ申し聞かせたことには、「我は勝茂公へ追い腹の所存であったが、御先に果ててしまい残念な事だ。」と申した。形左衛門はこれを承り、「その件はご安心ください。名代として某が御供仕ります。」と申したので、栄久は悦んで果てた。形左衛門は病気で短命だろうと、自身で自覚していたので、肥前様御死去に付き、この時と思い、追い腹を仕ったそうだ。

聞書第四 〇四七一〜鍋島勝茂、父直茂の遺訓を守り、晝夜心を盡して國を治む

原文

一、日峰様二十五年御法事の節、勝茂公仰出され候は、「三十三年の御法事迄は御存命なさるまじく候間、この節一度になさるべき由にて、御經榮相濟み候上、僧衆へ御酒を御振舞ひ、御親類御家老中も列座にて御物語なされ候は、「『日峰様御意に我等十三年忌迄國を治め見候へ。』と仰せられ候。この御一言大事に存じ、大なる荷になり、晝夜心を盡し、國を治むる事のみ苦勞申し候處、十三年も過ぎ、今二十五年迄別絛なく、大慶この上なく候。」と御落涙にて御話の由。

老士物語に云ふ。この時分は殿様御自身御骨を折られ。何とぞ國を失はざる様に、家中連續、用に立ち候者出來候様にと、御心遣ひ淺からざる儀に付て、御家中の者も何卒御家御長久なされ候様にと相部り、御國家を身に引懸け申し候に付て、上下の志行渡り、よき人も多く出來、御國家厚く相見え候。又日峰様御遺言、國替の事共承り候ては、命限りと部り申し候に付て、諸朋輩一味同心に覺悟仕り候。その世の威徳、日の字の御光、今が世迄輝き、類なき御家にて候。これを存じ候て、若き衆も覺悟ありたしと也。

現代語訳

一、日峰様の二十五年忌の御法事の節、勝茂公が仰せ出だされたのは、三十三年の御法事までは御存命ではないだろうから、その時は一緒に行うべしとの旨にて、御経営が済んだ上で、僧衆へ御酒を御振舞いになり、御親類、御家中も列座にて御話なされ、「『日峰様の御意に我の十三回忌まで國を治めて見よ。』と仰せられた。この御一言を大事に思い、大きな責任となり、昼夜心を尽くし、国を治める事のみに苦労をした所、十三年も過ぎ、今二十五年まで別状なく、大慶この上ない。」と涙を流して御話したそうだ。

老士物語の言い伝え。この時は殿様ご自身で骨を折られ、何卒国を失わない様にと、家中が連続し、用に立つ者が出て来る様にと、御心遣いが浅からず、御家中の者も何卒御家が御長久なされる様にと勤め、命限りと勤めたのて、諸朋輩一味同心に覚悟した。その世の威徳、日の字の後光が、今の世まで輝き、類のない御家である。これを知って、若い衆も覚悟してほしいとの事だ。

聞書第四 〇四七二〜鍋島勝茂、自分の命日には詣らずとも本尊佛に參詣せよと諭す

原文

一、高傳寺釋迦堂御建立の時分、下奉行頭人石井十助下人喧嘩仕出し、相手を切殺し候に付て、御耳に達し候處、御佛に對し此の節は何様の科にても御免なされ候由、仰出され候。

宮崎利兵衛申し候は、勝茂様御存生の内、常々御意なされ候は、其の身様御命日には参詣仕らず候とも、以來家中の者御佛に御無沙汰仕るまじき由に候と、承り候。御前の御給仕同然にて候と、出家衆へ相談、開帳の度毎に御備物一品の御給仕仕り候。

現代語訳

一、高傳寺の釈迦堂御建立の時分、下奉行頭人、石井十助下人が喧嘩をしだし、相手を切り殺した件について、御耳に達した所、御仏に対しこの件は何様の罪も御容赦なされると、仰せ出だされた。

宮崎利兵衛が申したのは、勝茂様が御存命の内に、常々御意なされたのは、その身様は御命日には参詣ぜずとも、以来家中の者は御仏に御無沙汰してはならないと、承った。御前の御給仕も同然であると、出家衆へ相談し、開帳の度毎にお供え物一品の御給仕を仕った。

聞書第四 〇四七三〜多久美作、忠直逝去後光茂家督の爲態と參勤御供を願ひ出づ

原文

一、明暦二年勝茂公御參勤の御供、多久美作申乞ひ、罷上り候。翌年御隠居、光茂公御家督の御禮に付、美作公儀御目付御目見罷出づる筈に候處、罷出ざる由申切り、餘人差出され候。

先年、甲州様御取立ての様子に相見え、御家中合點仕らず、御家の大事と存じ、美作態と江戸罷上り、「光茂公御取立の儀申聞け置き候に付て、此の替り目見届の爲申乞ひ、御供仕り候。然る處に御目見に出で候へば、其の望みにて罷上り候様に相成り候に付、御供仕り候は存入これありての事に候。公方様へ面談の用事これなく」と申し切られ候由。

現代語訳

一、明暦二年勝茂公の御参勤の御供に、多久美作が申し願い、江戸へ上った。翌年御隠居し、光茂公へ御家督の御礼につき、美作が公儀御目付へ御目見え出る筈の所を、出ないと言い切ったので、他の者が差し出された。

前年、甲州様を御取立てする動きが見え、御家中は納得せず、御家の大事と考え、美作はわざと江戸へ上り、「光茂公を御取立ての件を伺ったので、この代替わりを見届けるために願い出て、御供仕りました。然る所に御目見えに出れば、その望みで江戸へ上った様になってしまうため、御供仕った目的はこの通りである。公方様への面談の用事はない。」と言いきられたそうだ。

聞書第四 〇四七四〜鍋島勝茂重態の時、志波喜左衛門身代りにとて先腹を申出づ

原文

一、勝茂公御病氣差重られ候時分、光茂公へ志波喜左衛門申上げ候は、「私儀はかねて御供の御約束申上げ候。御本復不定に御見え遊ばされ候間、御命代りに御先に腹を仕り、自然御本復の儀も御座あるべく候やと存じ奉り候。何れ御供仕る儀に候間、差免され候様に。」と申上げ候に付、増上寺方丈へ、「命代りと申す事御座候や。」と御尋ねに遣はされ候處、「曾て罷成らざるものに候。大切の士御かこひなされ候様に。」と申し來たり、差留められ候。その忠心御感遊ばされ、子ども疎かになさるまじき由、御自筆の御書下され、今に子孫持ち傳え候由。

現代語訳

一、勝茂公の御病気が重くなった時、光茂公へ志波喜左衛門が申上げたことには、「私はかねてから御供の御約束を申上げて居りました。御快復がいつになるか分からないように見えるので、御命代わりに御先に切腹を仕れば、自然と御快復成されることもあるかもしれないと思っております。いずれ御供仕るつもりでしたので、御許しを頂きます様に。」と申上げた事に付、増上寺方丈へ「命代りと申す事はあるのか。」と御尋ね遣わされた所、「かつて成った例がありません。大切な士ですので、御囲い成されます様に。」と申し来て、差し止められた。その忠心に御感心遊ばされ、子どもに伝わる様に、御自筆の御書を下され、今でも子孫が持ち傳えているとの事だ。

聞書第四 〇四七五〜鍋島采女も友誼に、中野杢之助鍋島勝茂より勘氣を宥さる

原文

一、中野杢之助(年寄役)去年御參勤の御道中にて、或者讒言致し、首尾悪しく、御目通りへ召出されず候。御機嫌御優れなされざるに付て、鍋島采女申上げ候は、「自然御本復遊ばされざる節は、杢之助 志波喜左衛門 某三人は御供仕る筈に、兼々申合はせ置き候。外にも數人御座あるべく候へども、申合はせざる人は分明心得申さず候。然れば杢之助儀御存生内に召直され候様に。」と申上げ候に付、即ち御前へ召出され候。采女は御小姓にて召使はれ、御進物役仕り罷在り候。喜左衛門は御印役にて候。

現代語訳

一、中野杢之助(年寄役)は去年の御参勤の御道中で、或る者が在りもしない悪口を広めたため、首尾悪くなり、御目通りへ召し出されなかった。御機嫌が御優れにならなかったので、鍋島采女が申上げたことには、「自然と御回復遊ばされなかった時は、杢之助、志波喜左衛門、某の三人は御供を仕る筈で、かねがね申し合わせております。ほかにも数人ございますが、申し合わせていない人の本心は心得ておりません。然れば杢之助の事は御存命の内に召し直されます様に。」と申上げた事に付、すぐに御前へ召し出された。采女は御小姓にて召し使われ、御進物役をつかまっつっている。喜左衛門は御印役である。

聞書第四 〇四七六〜鍋島勝茂夫人の庭訓、「女なればとて末期の親に涙を見すべきか」

原文

一、御氣分御詰めにて、御前様御暇乞に御出でなされ、御枕元に寄らせられ、「さてさて目出度き御臨終にて候。御一生落度なく弓矢の御働き、國家を御固め、子孫數多御持ち、家督をも御譲り、八十におよび御成就は比類なき御仕舞に候。」と、高聲に仰せられ候。御側に、お長様御座なされ候が、御落涙なされ候を、御前様はたと御にらみ、「いかに女なればとて、物の道理を聞分けず、聞分けず、末期の親に涙を見せ申すものか。」と、あらゝかに御引立て、御内に御入り遊ばされ候由。

現代語訳

一、病状が差し迫ったと、御前様が御暇乞いにお出でなされ、御枕元に寄せられ、「さてさて目出度き御臨終である。御一生落ち度なく、弓矢の御働きで、国家を御固め、子孫を数多く持ち、家督も御譲り、八十におよんで御成就は比類なき御仕舞である。」と声高に仰せられた。御側に、お長様が御座なされたが、御落涙なされたのを、御前様ははたと御睨み、「いかに女といえど、物の道理を聞き分けず、最期の親に涙をみせるものか。」と、荒々しく御引立て、御内にお入り遊ばされたそうだ。

聞書第四 〇四七七〜鍋島勝茂臨終の時、御藥役采女らの追腹多久美作を感嘆さす

原文

一、御藥役采女相勤め、御臨終の時御藥道具打砕き、御印役喜左衛門光茂公御前にて御印を打割り申し候。さ候て、兩人にて御行水相仕舞ひ御棺に入れ奉り、差俯向き泣入り罷在り候。不圖起上り、「殿は一人御越なされ候に、一刻も追附き申すべし。」と浴衣の儘にて表に出で候へば、大廣間には美作守始め御側、外様の衆並居り申し候。兩人手を突き、「何れも様御懇意新しく申すに及ばず、御名残は幾日語り候ても盡き申さゞる事に候。さらばにて御座候。」と申して罷通り候。諸人落涙より外は詞もなく候。さしも強勇の美作守も聲出でず、後より見送り、「あゝ曲者かな曲者かな。」とばかり申され候。杢之助は最期迄護人の事を申し候て憤られ候。采女は小屋に歸り、頃日の勞れ休めに行水して、少しの間休み申すべしとて、暫く寝入り、目覚め候てより、「枝吉利左衛門餞別の毛氈敷き候へ。」と申付け、二階一間一枚の毛氈を敷き追腹、介錯三谷千左衛門仕り候也。

或人云ふ、杢之助常に持ち申され候扇、歌一首あり。

をしまるゝとき散りてこそ世の中の花もはははれ人もひとなれ

現代語訳

一、御薬役を采女が勤めていたが、御臨終の時に御薬道具を砕き、御印役の喜左衛門は光茂公の御前にて御印を打ち割った。そうして両人で御行水して御棺に入れ奉り、俯いて泣いた。ふと起上り、「殿は一人でお越しなされているので、一刻も早く追い付かねばならぬ。」と浴衣のままで表にでて、大広間には美作守を始め御側、外様の衆が並び居た。両人は手を突いて、「いずれ様方も古くから御懇意にしていただき、お名残り幾日語っても尽きません。さらばで御座います。」と申して通った。諸人御落涙より他に言葉もなかった。さしも強勇の美作守も声が出ず、後ろから見送り、「ああ、強者だ強者だ。」とばかり申された。杢之助は最期まで讒言した人の事を憤っていた。采女は小屋に帰り、日頃の疲れ休めに行水して、少し休むといって、暫く寝入り、目覚め手から、「枝吉利左衛門の選別の毛氈を敷け。」と申し付け、二階一間一枚の毛氈をしき追い腹し、介錯は三谷千左衛門であった。

ある人が伝えたところによると、杢之助は常に持っていた扇に、歌が一首あった。

をしまるゝとき散りてこそ世の中の花もはははれ人もひとなれ

聞書第四 〇四七八〜多久美作、枝吉利左衛門をして夜中鍋島勝茂の葬儀を行はしむ

原文

一、御葬禮、翌日よりは公儀へ相障る儀これあり、夜中に相濟まさず候ては罷成らず、美作殿より申付けられ候へども、誰々も出來まじくと申し候。枝吉利左衛門へ申付けられ候へば、心易く請合ひ、其の夜の中に御葬禮相濟まし申し候由。美作守は、御病中より御屋形の大廣間にて夜晝酒盛り致し、御葬禮相濟み候迄銚子取り申さず、其の内萬事の下知仕り候。此の時落髪の儘終に髪立て申さず、愚渓と申し候。

現代語訳

一、御葬礼の、翌日は公儀へ差し障る儀があり、夜中に済まさなくてはならず、美作殿から申し付けられたが、誰も出来ないだろうと申した。枝吉利左衛門へ申し付けた所、こころよく引き受け、その夜の内に御葬礼を済ませたそうだ。美作守は、御病中から御屋敷の大広間にて昼夜酒盛りをし、御葬礼が済むまでは銚子をとらず、その内に万事の指示をした。この時から髪を下ろしたまま最期まで立てず、愚渓と申した。

聞書第四 〇四七九〜「老士物語」の教訓―先づ御當家風を心得諸朋輩一和せよ

原文

一、老士物語に云ふ、勝茂公初めて國守にならせられ、弓矢の働、御切腹の場にも御逢ひ、御家中の御支配御國の御仕置、御城所々の要害、雑務方の御仕組み等まで御一生の御苦勞堪へ難き計りにて候。常々御意なされ候にも、「日峰様御勲功にて御取立の國にて候へば、子々孫々迄、家が家に續き候様に致さず候ては叶わざる事に候。天下泰平の御代に候へば、次第に華麗の世間に成り行き、失墜多く上下困窮し、弓矢の道は唱へ失ひ、不意の時節は内外共に恥をかき、家をもほり崩し申すべく候。言ひ聞かせたる迄にては、年移り老人は死に失せ、若者共は時代の風計りを學び末々に残り申す事あるまじく候。せめて書き物にて家の譲りに渡し置き候はゞ末代にても覺附くべし。」と仰せられ、御一生反故の内に御座なされ候て、御書き物御仕立てなされ候。御秘事は相知れざる事に候へども、語り傳へにはカチクチと申す御軍法、御代々御代替りの時、免授口訣にて御傳へ遊ばされ候由に候。御譲りの御掛硯には視聴覺知抄先考三以記と申す御書き物、これも御家督の時、御直にお渡し遊ばさるゝ由に候。扨又御家中御仕置、御國内端々迄の御仕組、公儀前雑務方一切萬事の御仕置、鳥ノ子帳に御書き記し召置かれ候。斯様の御苦勞限りもなき御事に候。其の御勲功を以て御家御長久、目出度き御事に候。末代になり候ては、斯様の儀を存ぜず、又は昔風にて、時代に合わずとて替わり行く事、歎はしき事に候。一旦詮なく候ても、御先祖様に對し奉り、其の風を改めざるが古き御家の銘にて候。然れども、數年改まり居り候事を、今又急に古法になし候はゞ、又々新儀の様にこれあるべく候へば、時節を以て漸々に古法に返り度き事に候。扨又御國は、根元、剛忠様御願力隆信様御武勇利叟様御善根日峰様御勲功泰盛院様御苦勞にて、御家御長久に候へば、御家中として毎朝拜み奉るべき事に候。且又御代々の大守に悪人これなく、鈍知これなく、日本の大名に劣らせらるゝ御器量遂にこれなく候。他方にては鍋島律儀と申す由、御慈悲の國守計り御出來遊ばさるゝ事、不思議の御事に候。扨又御國内の者他方へ差出されず、他方の者召入れられず、浪人者も切腹の子孫も御國内に召置かれ、御家中、上下、百姓町人まで、何十代か相替らず、馴染深き御譜代の御深恩、申し盡されぬ事共に候。他方の衆などは、移り替りにて心落ち着かず、浪人限りに他方へ出で、夫れ限りに主從の縁切れ、不憫の事に候。御家にては、一旦御意見の爲に浪人仰付けられ、切腹の子孫共に、程經ては召直され、死にても御國の土となり、兎に附け角に附け、有難き御國、日本に比類なき御家に、不思議にも生れ出で候事、本望此の上なき事に候。殊更先祖代々より御恩を受け、身をはたりても報い奉る事は相叶はず候。斯様の味を解くと合點申し、數代の御恩報じに何卒御用に立つべしとの覺悟に胸を極め、御懇に召使はれ候時は、いよいよ私なく御用に相立ち、御情けなく御無理の仰付、又は不運にして浪人切腹仰付けられ候とも、少しも恨み奉らず、一つの御奉公と存じ、生々世々、御家を歎き奉る心入、是御當家侍の本意、覺悟の初門にて候。智慧分別器量藝能は二番にて候。御當家風の胸の落着を最初に得心候て、諸朋輩一和し、粉骨を盡し、御用に相立ち申すべき事に候と也。

現代語訳

一、老士物語に言われていることだ。勝茂公が初めて国守になられ、弓矢の働きや、御切腹の場にも逢い、御家中の御支配と御国の御仕置、御城所々の要害、雑務方の御仕組み等まで御一生の御苦労は堪え難い物ばかりであった。常々御意なされたことにも、「日峰様の御勲功で御取立てられた国であるので、子々孫々まで、家から家へ続く様にしなくては叶わぬ事だ。天下泰平の御代となれば、次第に華麗な世間に成っていき、失墜も多く上下困窮し、弓矢の道は唱え失い、不意の時には内外ともに恥をかき、家もとり崩されるだろう。言い聞かせただけでは、代が移り老人は死に失せ、若者共は時代の流行ばかりを学んで末々に残る事も無いだろう。せめて書物にて代替わりに渡して置けば末々にも覚え付くだろう。」とおおせられ、御一生反故の内に御座なされて、御書物を御仕立て成された。御秘事は知られていない事だが、語り伝えにはカチクチと言う御軍法が、御代々御代替わりの時、口伝えにてお伝え遊ばされるそうだ。御譲りの御懸け硯には視聴覚知抄先考三以記と言う書物が、これも御家督譲りの時、御直にお渡し遊ばされるそうである。さてまた、御家中御仕置、御国内端々までの御仕組み、公儀前雑務方、一切万事の御仕置、鳥ノ子帳に御書き記して召し置かれた。この様な御苦労は限りも無き事である。その御勲功を以て、御家御長久となり、目出度い事である。末代になっては、この様な事を知らず、または昔風で、時代に合わないといって変わっていく事は、嘆かわしい事だ。一旦はしかたなくても、御先祖様に対し奉り、その風を改めないのが古い御家の銘である。然れども、数年改まっている事を、今また急に古い方法にすれば、またまた新しい儀に成ってしまうだろうから、時節を以て漸次に古い方法に返りたいものだ。さてまた御国の、根元は、剛忠様の御願力 隆信様の御武勇 利叟様の御善根 日峰様の御勲功 泰盛院様の御苦勞にて、御家が御長久であり、御家中として毎朝拝み奉るべき事である。かつまた、御代々の大守にて悪人は居らず、鈍知も居らず、日本の大名に劣る御器量は終に居なかった。よそでは鍋島律儀と言うそうで、御慈悲が深い国守ばかり御出来遊ばされる事は、人知を超えた事である。さてまた御国内の者がよそへ差し出されず、よその者を召し入れられず、浪人者も切腹の子も御国内に召し置かれ、御家中、上下、百姓町人まで、何十代か相変わらず、馴染み深い御譜代の深い御恩は、申し尽くされないことである。よその衆などは、移り変わって心が落ち着かず、浪人限りよそに出て、それ限りの主従の縁切れとなり、不憫な事だ。御家にては、一旦御意見のために浪人申し付けられ、切腹の子孫共に、時を経ては召し直され、死んでも御国の土となり、兎につけ角につけ、有難き御国は、日本に比類なき御家であり、人智を超えた力で生まれ出でた事、本望この上ないことである。ことさら先祖代々より御恩を受け、身をはたいても報い奉る事は叶わない。この様な意味を篤と合点し、数代の御恩報じに何卒御用にたつべしとの覚悟を胸に極めて、御懇意に召し使われた時、いよいよ私なく御用に立ち、御情けなく御無理な仰せ付けをされても、または不運にして浪人や切腹を仰せ付けられても、少しも恨み奉らず、一つの御奉公と思い、生々世々、御家を嘆き奉る気持ち、これが御当家侍の本意、覚悟の初門である。智慧、分別、器量、芸能は二番だ。御当家風の胸の落着きを最初に心得て、諸朋輩一和し、粉骨を尽くし、御用に立ち申すべき事であるとの事だ。

聞書第四 〇四八〇〜鍋島勝茂口宣、叙位受領名乗侍從昇進の事ども

原文

一、勝茂公口宣

一從五位下口宣

一 御受領の口宣

豊臣清茂と有之永祿四年二月二十四日

一 侍從御昇進寛永三年八月十九日藤原勝茂と有り。

現代語訳

一、勝茂公口宣

一 從五位下口宣

一 御受領の口宣

豊臣清茂と有之永祿四年二月二十四日

一 侍從御昇進寛永三年八月十九日藤原勝茂と有り。

聞書第五 〇四八一〜明暦三年丁酉二月御家家督相續 二十六歳

原文

一、明暦三年丁酉二月御家家督相續 二十六歳

一 二月十九日、岡部内膳正殿 同丹波守殿、鍋島泉州御城に之を召し、御隠居御家督の仰せ渡これあり、御禮の爲光茂公則ち御登城、三月朔日御禮。光茂公より御太刀豊後行平(代金十枚)白銀三百枚 色羽二重百疋。勝茂公より貞宗御刀(代金八十枚)御掛物ホツタン。御家老御禮銀馬代宛て主水 縫殿助 有田勘解由。

一 正月十八日大火事、桜田御屋敷類焼に付、光茂公青山へ御移り、五月四日麻布へ御越成され候。同十九日又々大風大火、御城焼失西の丸殘る。死人三萬七千餘、道程二十二理八丁。

現代語訳

一、明暦三年丁酉二月御家督相續 二十六歳

一 二月十九日、岡部内膳正殿 同丹波守殿を、鍋島泉州御城に召し出され、御隠居し御家督を相続なさるとの仰せ渡しがあり、御礼の為に光茂公は直ちに登城し、三月一日に御礼。光茂公からは御太刀豊後行平(代金十枚)、白銀三百枚 色羽二重百疋。勝茂公からは貞宗御刀(代金八十枚)御掛物ホツタン。御家老の御礼として銀馬代をそれぞれ主水 縫殿助 有田勘解由が献上した。

一 正月十八日大火事で、桜田御屋敷が類焼に付き、光茂公は青山へ御参り、五月四日麻布へ御腰なされた。同十九日にまた大風大火があり、御城焼失、西の丸は残る。死人三万七千人余り、道程は二十二里八丁。

聞書第五 〇四八二〜萬治元年戊戌今年五月明暦改元也 二十七歳

原文

一、萬治元年戊戌 二十七歳 今年五月明暦改元也

一 二月御暇、晦日發駕。四月五日御着城。

一 五月當家御一族並諸士等萬部執行。

一 八月十六日山内御越、佐保十兵衛宅に於て山内の者御目見。

一 二月五日彦法師様、左衛門様に御改名。

一 五月十二御代初遊出有り。

現代語訳

一、萬治元年戊戌 二十七歳 今年五月明暦改元也

一 二月に参勤交代の御暇、晦日に出発。四月五日、御帰着。

一 五月当家御一族並びに諸士等にて万部を執行。

一 八月十六日山内へお越しになり、佐保十兵衛宅に於いて山内の者を御目見。

一 二月五日彦法師様、左衛門さまに御改名。

一 五月十二日代替わり後、初の御命令あり。

聞書第五 〇四八三〜萬治二年己亥 二十八歳

原文

一、萬治二年己亥 二十八歳

一 九月二十九日御参勤の爲發駕。十二月二十八日侍從御昇進。

一 十月六日佐嘉にて於初殿出生。

一 今年より着座人數御定、御家誓詞仰付けられ候。勝茂公御代迄は長袴御着せ成され候。御家誓詞は御人差にて仰付けられ候。

現代語訳

一、萬治二年己亥 二十八歳

一 九月二十九日御参勤の為出発。十二月二十八日侍従へ御昇進。

一 十月六日佐賀にて初の殿御出生。

一 この年より着座の人数を制定、御家誓詞仰せ付けられた。勝茂公の御代迄は長袴を置きさせ成された。御家御誓詞は御指名にて仰せ付けられた。

聞書第五 〇四八四〜萬治三年庚子 二十九歳

原文

一、萬治三年庚子 二十九歳

一 三月御暇。

現代語訳

一、萬治三年庚子 二十九歳

一 三月に参勤の御暇。

聞書第五 〇四八五〜寛文元年辛丑 三十歳

原文

一、寛文元年辛丑 三十歳

一 九月二十八日御發駕御參勤。

一 七月七日成徳院殿死去、追腹の者差留められ候以來、御法度に仰付られ候。其の後紀州光貞卿御感心、御家中追腹法度成され候。寛文三年癸卯五月二十日公儀法度に成り候也。

現代語訳

一、寛文元年辛丑 三十歳

一 九月二十八日御参勤へご出発。

一 七月七日成徳院殿が死去し、追い腹の者が差し留められて以来、御法度に仰せ付けられている。この後紀州光貞卿が御感心なさり、御家中追い腹を御法度になされた。寛文三年癸卯五月二十日公儀でも法度になった。

聞書第五 〇四八六〜寛文二年壬寅 三十一歳

原文

一、寛文二年壬寅 三十一歳

一 二月御暇。

一 今年向陽軒の御社御勸請有り。

一 今年公仰出にて、御家中追腹御法度に成る。但去年成徳院殿御死去追腹の者差留められ候也。右の段紀州様聞召付けられ御感心、彼の御家中追腹御法度成され候由。

現代語訳

一、寛文二年壬寅 三十一歳

一 二月に参勤の御暇。

一 この年に向陽軒の御社に御観請あり。

一 この年に公の仰せ出でにて、御家中での追い腹が御法度に成る。但し去年成徳院殿御死去の追い腹も差し留められている。右の件を紀州様が聞し召され御感心なさり、彼の御家中でも追い腹を御法度に成されたそうだ。

聞書第五 〇四八七〜寛文三年癸卯 三十二歳

原文

一、寛文三年癸卯 三十二歳

一 九月二十九日御發駕御參勤。

一 六月十一日佐嘉一里四方大雷、八十餘所に落つ。黒白毛降る。正月二日大阪御天守雷火にて焼く。

一 五月二十日追腹御停止の段公儀より仰せ出さる。

一 今年中院通水卿の御姫お甘様御下國二ノ御丸に於て御祝言。

一 今年御即位御使者諫早豊前茂眞差上げられ候。

一 今年十月非人屋相建てられ、彌陀 釈迦 觀音 藥師石佛四方に建置かる。奉行友田彦兵衛也。同七年國廻上使御尋聞召届けられ候也。

一 四月八日北山寺々に薪山御座寄附、鍋島六左衛門書出し有り。

三瀬觀音寺、杠清龍寺、杠龍護寺、畑瀬曹源寺、松瀬通天庵、鹿路用音寺

右は山内六ヶ寺也。此の外尋ぬべき也。

現代語訳

一、寛文三年癸卯 三十二歳

一 九月二十九日御参勤の為にご出発。

一 六月十一日佐賀の一里四方で大雷があり、八十か所余りに落ちた。黒白毛が降った。正月二日大阪御天守雷火で焼ける。

一 五月二十日追い腹停止の件が公儀から仰せ出だされる。

一 この年、中院通水卿の御姫様お甘様が御下国なされ二の丸にて御祝言。

一 この年、御即位の御使者として諫早豊前茂眞が差し遣わされた。

一 この年、十月に非人小屋が建てられ、阿弥陀、釈迦、観音、薬師の石仏が四方に建て置かれた。奉行は友田彦兵衛であった。同七年国廻りの上使に御尋ねし、聞し召し届けられた。

一 四月八日北山の寺々に薪を得るための山が寄付されたと、鍋島六左衛門の書き出しにあり。

三瀬觀音寺、杠龍護寺、畑瀬曹源寺、松瀬通天庵、鹿路用音寺

右の六寺である。この他は尋ねようとおもう。

聞書第五 〇四八八〜寛文四年甲辰 三十三歳

原文

一、寛文四年甲辰 三十三歳

一 二月二十八日御暇。

一 四月十九日甘姫様御産、右兵衛様御出生、御産所二の御丸也。此の時御城より龍上り申し候由。甘姫様御祈誓の初瀬の觀音、後に清心院へ御安置、吉茂公御代、堂御建てなされ候。

現代語訳

一、寛文四年甲辰 三十三歳

一 二月二十八日に参勤の御暇。

一 四月十九日甘姫様が御産、右兵衛様御出生、御産所は二の丸であった。この時御城から龍が上がったそうだ。甘姫様の御祈誓の初瀬の観音は、後に清心院へ御安置され、吉茂公の御代に堂を御建て成された。

聞書第五 〇四八九〜寛文五年乙巳 三十四歳

原文

一、寛文五年乙巳 三十四歳

一 九月御參勤。

一 六月二十三日榮正院様御産にて御死去、御出生の御子様も御消え成され候。清蓮様と申し候也。

現代語訳

一、寛文五年乙巳 三十四歳

一 九月御参勤。

一 六月二十三日栄正院様が御産にて御死去。御出生の御子様も御消えなされた。清蓮様という。

聞書第五 〇四九〇〜寛文六年丙午 三十五歳

原文

一、寛文六年丙午 三十五歳.

一 二月御暇。

現代語訳

一、寛文六年丙午 三十五歳

一 二月に御参勤の御暇。

聞書第五 〇四九一〜寛文七年丁未 三十六歳

原文

一、寛文七年丁未 三十六歳

一 九月御參勤

一 七月國廻り上使岡野孫九郎殿 青山膳兵衛殿 井戸真右衛門殿、蓮池町にて公御出會。十二月二十五日左衛門様十六歳、御一字綱御稱號四品御免。同二十六日御前髪御取り成され候。綱茂公と申し奉る也。

一 七月津廻り上使竹野又兵衛殿 向井三郎兵衛殿、寺井 竹崎 諫早 脇津 深堀 伊萬里 濱御巡見、公寺井御立會。

一 春牛島射場に於て足輕、弓 鐵砲的。御名代 翁助殿。

一 秋片田江新馬場に於て御家中馬究責馬。御名代翁助殿。

現代語訳

一、寛文七年丁未 三十六歳

一 九月御参勤の御暇。

一 七月国廻りの上使、岡野孫九郎殿、青山膳兵衛殿、井戸真右衛門殿が、蓮池町に出会う。十二月二十五日左衛門様十六歳、御一字、御称号4品の許可が下りた。同二十六日御前髪御取り成された。綱茂公と申し奉る。

一 七月津廻りの上使竹野又兵衛殿 向井三郎兵衛殿、寺井 竹崎 諫早 脇津 深堀 伊萬里 濱御を視察し、公が寺井に御立会なさった。

一 春、牛島射場にて足軽、弓、鉄砲の演習。御名代として、翁助殿。

一 秋、片田江馬場に於いて御家中の馬究め、馬責め。名代として、翁助殿。

聞書第五 〇四九二〜寛文八年戊申 三十七歳

原文

一、寛文八年戊申 三十七歳

一 二月朔日江戸大火事、櫻田御屋敷類焼、御兩殿様麻布に御座成され候處、同四日又大火事、麻布御屋敷類焼に付て青山にて和泉守殿御屋敷に御座成され候。

一 二月御暇。

一 十二月二十一日綱茂公御縁組、松平越前守様御姫様御願の如く仰せ出さる。

現代語訳

一、寛文八年戊申 三十七歳

一 二月一日江戸大火事があり、桜田の御屋敷が類焼したので、御両殿様は麻布に御座なされた所、同四日また大火事がおこり、麻布の御屋敷も類焼に付き青山にて和泉守殿の御屋敷に御座なされた。

一 二月に参勤交代の御暇

一 十二月二十一日綱茂公御縁組、松平越前守様の御姫様とかねてから願い出ていた通り仰せ出だされた。

聞書第五 〇四九三〜寛文九年己酉 三十八歳

原文

一、寛文九年己酉 三十八歳

一 九月御参勤。

現代語訳

一、寛文九年己酉 三十八歳

一 九月に御参勤。

聞書第五 〇四九四〜寛文十年庚戌 三十九歳

原文

一、寛文十年庚戌 三十九歳

一 二月御暇。

現代語訳

一、寛文十年庚戌 三十九歳

一 二月に御参勤の御暇。

聞書第五 〇四九五〜寛文十一年辛亥 四十歳

原文

一、寛文十一年辛亥 四十歳

一 二月十二日綱茂公二十二歳御祝言、御普代様十八歳。鍋島若狭 鍋島彌兵衛左衛門 相良求馬江戸差越され候。

一 光茂公十一月一日御着府。翌三日朝上使板倉内膳正殿。

現代語訳

一、寛文十一年辛亥 四十歳

一 二月十二日綱茂公の二十二歳の御祝言があり、御譜代様は十八歳であった。投げ志摩若狭 鍋島彌兵衛左衛門 相良求馬が江戸へ遣わされた。

一 光茂公十一月一日御着府。翌三日の朝上使板倉内膳正殿を迎えた。

聞書第五 〇四九六〜寛文十二年壬子 四十一歳

原文

一、寛文十二年壬子 四十一歳

一 綱茂公初て御暇。御兩殿様御同前御下國。三月十二日江戸御立、四月十三日御帰城、多久屋敷御在留。

一 三月六日朝光茂公御暇の上使土屋但馬殿。

一 九月十三日より御父子様長崎御越。同二十二日御帰城。

一 十月綱茂公御参勤。

現代語訳

一、寛文十二年壬子 四十一歳

一 綱茂公初めての御参勤の御暇。御両殿様は御一緒に御下国なされた。三月十二日江戸を御発ちに成り、四月授三日に御帰城し、多久屋敷に御在留なさった。

一 三月六日光茂公御暇の申し出を上使土屋但馬殿へ。

一 九月十三日から御父子様は長崎へ御腰になる。同二十二日御帰城。

一 十月綱茂公御参勤。

聞書第五 〇四九七〜延寶元年癸丑 四十二歳

原文

一、延寶元年癸丑 四十二歳

一 九月御参勤。

現代語訳

一、延寶元年癸丑 四十二歳

一 九月に御参勤。

聞書第五 〇四九八〜延寶二年甲寅 四十三歳

原文

一、延寶二年甲寅 四十三歳

一 二月御暇。

現代語訳

一、延寶二年甲寅 四十三歳

一 二月に御暇。

聞書第五 〇四九九〜延寶三年乙卯 四十四歳

原文

一、延寶三年乙卯 四十四歳

一 九月御参勤。

一 綱茂公御暇。十二月二十九日御着國。光茂公御留守也。

現代語訳

一、延寶三年乙卯 四十四歳

一 九月に御参勤。

一 綱茂公は御参勤の御暇。十二月二十九日御着国。光茂公は御留守であった。

聞書第五 〇五〇〇〜延寶四年丙辰 四十五歳

原文

一、延寶四年丙辰 四十五歳

一 二月御暇。

現代語訳

一、延寶四年丙辰 四十五歳

一 二月に御参勤の御暇。

聞書第五 〇五〇一〜延寶五年丁巳 四十六歳

原文

一、延寶五年丁巳 四十六歳

一 御参勤御發駕。十一月十一日御着府。

一 綱茂公御暇御拝領。十一月晦日江戸御立。

一 十二月鶴御拝領。

一 今年御在府中、御供廻多人數無用と思召され相減ぜられ候。其の後公儀より御供廻り相減じ候様にとの御觸れ有り。

現代語訳

一、延寶五年丁巳 四十六歳

一 御参勤へ御出発。十一月十一日に御着府。

一 綱茂公は御暇を御拝領。十一月三十日江戸を御発ちになる。

一 十二月に鶴を御拝領なさる。

一 この年の御在府中に、御供廻りに多人数は無用でであると思召され減らされた。その後公儀から御供廻りを減らすようにと御触れがあった。